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廃妃の呪いと死の婚姻5-2

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廃妃の呪いと死の婚姻5-2

アリアの介抱の甲斐あって、ジェネヴィエーヴは明け方にようやく目を覚ました。一睡もせずに愛娘を案じていたナイトリー侯爵は、その一報を聞いてすぐに駆け付けた。ジェネヴィエーヴはまだ熱でぼんやりした様子だったが、ナイトリー侯爵の姿を見て、わずかに微笑みを浮かべた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
 ナイトリー侯爵はジェネヴィエーヴの手を取ると、よかったと安堵の吐息をついた。
「お前が無事ならばそれでいい。苦しい所はないかい?」
 父親の優しい問いかけにジェネヴィエーヴがわずかに首を振って
「ありませんわ。先程、聖水もいただきました。お父様、アリアが一晩中、魔力を注いでくれていたんですよ」
というと、ナイトリー侯爵はアリアの方を見て、よくやってくれたねと頷いた。
「疲れただろう。暫く私が付き添っているから、君は休んだらいい。治癒術師の他に、もうすぐ神官も来るはずだ」
「お心遣い感謝いたします、閣下。お言葉に甘えてしばらく失礼させていただきます」
 幸い、ジェネヴィエーヴの容態は落ち着いたようだし、昨夜帰宅したままの姿であったことを思い出したアリアは、一度部屋に戻ることにした。
 アリアの居室はジェネヴィエーヴの希望で、同じ階に移されていた。部屋に戻るとすぐにメイドが入ってきて、お風呂にするかと質問した。言葉に甘えされてもらい、さっぱりと身を清めたアリアが新しい服に袖を通していると、メイドの一人がノクターンの意向を告げた。
「ノクターンが話があると?そうね…もうすぐ食事の時間だし、一緒に食事を摂りましょうと伝えてくれる」
 メイドたちが出て行くと、アリアは食堂へと向かった。普段、アリアはジェネヴィエーヴと共に食事を摂ることが多かった。ジェネヴィエーヴは偏食な上に非常に小食だったから、彼女が食べられるときにいつでも食事がとれるように、ナイトリー侯爵家ではいつでも厨房の炎が絶えることはなかった。ノクターンなどは過保護すぎると顔をしかめたものだったが、家政婦長とコックとアリアは頭を寄せ合って、いかにジェネヴィエーヴに栄養を取らせようかと考え抜いた。そうして、ジェネヴィエーヴは一日に何回にも分けて食事を摂ることになったのである。ジェネヴィエーヴ本人はうんざりとしながらも、アリアたちの気持ちがわかるだけに、無下にすることもできず、嚥下機能と消化機能維持のための機能訓練のためのリハビリだと思うことに決めたのだった。そうしてアリアもまた、ジェネヴィエーヴに付き合って日に幾度も食卓につくことになったのだった。
 そのため注意深くジェネヴィエーヴの様子を観察していたアリアだからこそ、このところ一口、また一口と食事量が徐々に落ちていることに気が付いていた。
 ノクターンの向かいの席に腰かけたアリアは、押し黙ったまま目の前に並べられた食事を見つめていた。ノクターンは口元をナプキンでふき取ると、初めてアリアに声を掛けた。
「ジェネヴィエーヴ様はお目覚めになったのか」
 その言葉にアリアはハッと顔を上げた。彼女のこわばった顔がくしゃりと歪む。
「うん」
「そうか、よかった」
 ノクターンがそうつぶやくと、アリアが震える声で言った。
「私がもっと気を付けるべきだった。最近、体調がすぐに戻らないことも、食事量が落ちていることも気づいていたのに」
 今年の夏はこれまでにないほどの猛暑で、健康なアリアでさえ不調を感じたくらいだった。だから、涼しい風が季節の移り変わりを感じさせるようになってからも、ジェネヴィエーヴが一向に回復しないことにも、きっと暑さに参ってしまわれただけだ、もう少し涼しくなれば、これまで通りお元気になるに違いないと強いてそう思うようにしていた。
「そうだな」
 ノクターンは敢えてアリアを慰めることをしなかった。彼女がそれを望んでいないことは明白だったから、暫く彼は黙ってアリアの懺悔に耳を傾け続けた。そうして、ようやく彼女が口を噤むと、
「ジェネヴィエーヴ様の不調は例のアレが原因だと思うか」
と訊いた。目を赤く腫らしたアリアは、ハンカチを目から離すと少し考えて首を縦に振った。
「どうして?」
 ノクターンが首をかしげて静かに問うと、
「治療師の方々の魔法が全く効かないの。それなのに私の・・・光の魔力や、聖水には反応するの。こんな事初めてで」
「・・・。正直、僕にはジェネヴィエーヴ様の状況が全くわからない。兄弟でもない男の僕が寝室に入るわけにはいかないし、治療を行っている訳でもないからね」
 だから、そう胡乱な言い回しをせずにはっきりと思ったことを言ってくれ、憶測や推測で構わないからとノクターンが言った。
「そうね、ごめんなさい。私ったらすっかり感傷的になっていたわ。侯爵閣下にはジェネヴィエーヴ様の治療のために魔力を使ったと申し上げたのだけれど、実は違うの。初めはそうしたのだけれど、一向に効き目がなかったから、思い切って――。思い切って、使ってみたの。もう一つの魔法を」
 ノクターンは目を見張った。
「・・・それって」
 アリアがコクリと頷くと、ノクターンは顔をしかめた。アリアが持つもう一つの能力。聖属性の魔法。それは一部の高位聖職者とアリアしか使うことのできないものだった。
「ジェネヴィエーヴ様にもう治癒魔法は効かないわ。それだけクレメンティーン呪いが強くなっているのだと思う。それも坂道を転がるように急速に」
「でも、効果はあるんだろ?今までだって食い止めてきたじゃないか」
 ノクターンは声が揺れそうになるのをこらえつつ、強いて明るい声を出した。
「・・・強い力にはその分大きなリスクが伴うの。ノクターン、歴史を振り返ってみて不思議に思わない?聖魔法と違って、僅かでも魔法の素養があれば、呪法は誰でも使うことができるわ。一方で呪いを解くことができるのは極一部の者たちだけ。でも、それにも拘らずこの国だけではなく多くの国で、政敵や仇敵を葬るために呪いではなく毒薬が専ら用いられてきたのは何故だと思う?」
 アリアは静かに問いかけた。
「それは・・・」
 ノクターンが答えに窮すと、アリアは苦く笑った。
「呪法は呪う者の魂の欠片が不可欠だからよ。その上、呪う側と呪われる側で、双方の魂、つまり生命力が拮抗していたり、呪われる側の魂の持つ力が強ければ呪法は呪った側に返ってくるわ。一方で、呪法成就を確実にするのが黒魔術師や呪術師たちだけれど、呪いを用いれば必ず呪った本人の体にその痕跡が残るわ。だから、悪戯に呪いに手を出す者はいないの。政敵を斃すだけなら毒を使う方がよっぽど危険は少ないもの。だから、呪法は人気がないの」
 そこで一度言葉を切ったアリアは膝の上で握りしめていた拳を胸元に引き寄せた。
「私はジェネヴィエーヴ様の呪いを解くと決めてから、クレメンティーンのことだけではなくて、呪いそのものについても調べたわ。侯爵閣下に掛け合って、週に1回、聖属性の魔法を使える高位司祭様から指導を受けさせていただいているのもそのためよ。そして、初めて指導を受けた時に、司祭様に言われたわ。一度成立した呪いを解くには少なからぬ犠牲を払わなければならないって。呪いを解く方法を知っている?」
 ノクターンは首を振った。
「方法は2つあるわ。でも、十割に近い確率で実際に用いられているのは一つだけ。それは聖属性の魔法を対象に直接注入する方法、これによって力ずくで呪いを破壊するの。でも、魂を削り多くのリスクを冒してまで呪法を使う者たちの覚悟は生半可なものではないから、その分呪いが一度完成すると、対象者の魂に深く根を張って、確実に相手を蝕むわ。呪いを受けた者の魂は、呪いと複雑に絡み合っていて魂を傷つけることなく呪いだけを取り出すことは困難なの。少なくとも、記録を見る限り、一度も成功した聖職者はいないそうよ。呪われた指輪とか聞いたことがあるでしょう?指輪の呪いを解こうとするとどうなると思う?多くは砕け散ってしまうそうよ。もしくは辛うじて形は残ったとしても、石の色や形が変質してしまって、すっかり元通りには戻らないんですって。だから、聖魔法を生きている者に向ける時は、とても慎重にやらないといけないの。少しでも加減を間違えれば、相手の魂に傷をつけてしまうから。その代替品が聖水というわけ。爆発的な効果は期待できない代わりに、副作用もその分抑えられる。その分恐ろしいほど高価だけれどね。・・・でも、ジェネヴィエーヴ様の状態はもう既に、聖水では抑えきれないところまできてしまっている。だから、昨夜は直接、魔力を注入するしかなかったの。とても気をつけて慎重にやったけれど、これからどんな副反応が起きるかわからない。内傷みたいな、身体に影響が出るのであれば治癒魔法で何とか出来るでしょうけれど、精神や魂にまで影響が及んだとしたら・・・」
 アリアは唇を噛みしめた。
「ジェネヴィエーヴ様ご本人はこのことをご存じなのか?」
 ノクターンの問いかけにアリアは小さく頷いた。
「ええ。効果やリスクについてこれまで何度もお話してきたわ。それでも、もし治癒魔法や聖水が効かなくなってしまった時には、使って欲しいっておっしゃっていたの。責任はすべて自分がとるからって。呪いで、自分が自分でなくなることの方がずっと恐ろしいことだから、身体は動いていても呪いに心を乗っ取られてしまえば、それは死んでいるのと同じだからって。・・・目を覚まされた時、ジェネヴィエーヴ様は全て理解されていたわ。私が何か言う前に、私の手を握って、つらい決断をさせてごめんなさいねって、おっしゃったのよ。そして、聖魔法を使ったことは侯爵閣下にはまだ秘密にしていて欲しいって」
 ノクターンは言葉を失った。
「これからは定期的に聖魔法を使うことになるわ。きっと、その頻度も加速度的に増えていくと思うの。その分副反応も強くなっていくはずよ。でも、ジェネヴィエーヴ様のお体がどこまでもつかどうか・・・。一刻でも早く呪いをどうにかする方法を見つけないといけないわ。覚えている?さっき、私が呪いを解く方法は2つあると言ったでしょう。司祭様はほぼ不可能だと仰っていた方法よ。それは、呪いの根源を解きほぐすこと。呪われた対象者の魂に深く絡みついている呪った人間の魂を、無理矢理破壊して浄化するのではなくて、呪うに至ったその深い想いを解き明かし、やわらげ、呪いそのものを無効化することよ。もう呪いは必要ない、呪う理由がないという確信を抱かせる必要があるの。これならば、呪いを受けた人の魂は損なわれずに済むわ。でも、ノクターン、出来るかしら、司祭様は今まで誰も成功したことがないっておっしゃっていたわ。私怖い・・・ジェネヴィエーヴ様を失いたくないの。でも・・・」
 アリアの双眸から涙が零れた。ノクターンははらはらと涙を流すアリアを見つめていたが、暫くして静かに口を開いた。
「ジェネヴィエーヴ様はいつも不安と闘っている。あのか弱い身体でよくぞここまでと思うよ。・・・僕がジェネヴィエーヴ様の呪いを知る少し前に、リラを習いたいって言われていただろう?後から振り返ってみると、本当ならそんな余裕はないはずなのに、少しでも早く呪いを解く方法を見つけないといけないのに何であんなことに時間を費やしたんだろうって疑問に思っていたんだ。それ以外にも、ジェネヴィエーヴ様は体が許す限り、普通のご令嬢達と同じ様に幾人もの教師を招き教養を身に着けて、頻度は少ないけれどお茶会を開いたり出かけて行ったりと社交もこなしていただろう。彼女を見ていて思ったんだ。ジェネヴィエーヴ様は呪いに蝕まれてはいるが、呪いに囚われてはいないと。ジェネヴィエーヴ様にとって呪いを解くことは最優先課題だけれど、それが彼女の人生の全てではないんだってね。一人の人間として、少女として、女性として呪いに抗い、そこから脱する術を探しながらも、彼女は彼女の人生を生きているんだ。リラを弾くこと、学問をすること、ダンスをしたりお茶会に参加すること、一見無駄な時間に思えることが彼女が彼女であるために、彼女が彼女自身の生を紡ぐために必要な要素なんだと。・・・だから、僕は彼女の人生を繋ぐために力を惜しまないと決めた。アリアもそうだろう?」
 初めて聞くノクターンの想いに、アリアは目を見開いた。
「ええ、そう。その通りよノクターン」
 ノクターンは薄く笑みを佩いた顔で
「だったら、弱音なんか吐いている暇はないだろう、聖女様?いや、光の乙女だったか。僕たちは僕たちのできることをしよう。そうだな、手始めにクレメンティーンの調査のために、ミスター・フェラーズを攻略しないと」
とおどけていった。
「攻略って、何それ」
 アリアがクスリと笑うと、
「言葉の通りさ。さっさとミスター・フェラーズと親しくなって、この行き詰った状況を何とか打開しないといけないだろう」
と言ってノクターンは人の悪い笑みを浮かべながら肩をすくめた。


 ミスター・フェラーズから連絡が来たのはそれから数週間後のことだった。グレイ夫人の侍女が首都に来る用事があり、その馬車に同乗させてもらえることになったので、兄さんの家で数日間お世話になりたいという手紙が届いたというのだ。
 アリアは早速その知らせをジェネヴィエーヴに伝えた。
「ミスター・フェラーズの妹さんは来週の明日の夕方に、こちらに到着するそうです。初日はグレイ夫人の侍女の実家にお泊りになって、翌日からはミスター・フェラーズのお宅に泊まるそうです。ミスター・フェラーズは慌ててご自宅のお掃除をしているようですよ。殆ど研究室に籠りきりの生活を送っているので、ご自宅はなんというか荒れ放題だという話で。実は、今日ノクターンはミスター・フェラーズのお手伝いに伺っているんですよ。帰ってきたらどれ程、散らかっていたのか聞いてみましょうね。先日伺った研究室も随分な散らかりようでしたけれど、それ以上だというのですからどれほどなんでしょうね。男世帯ってそんなものなのでしょうか」
 呆れたように肩をすくめたアリアにジェネヴィエーヴはくすくすと笑った。
「アリアったら。そんな風に言ったらミスター・フェラーズに悪いわ。それだけ研究熱心なの――っ」
 ジェネヴィエーヴの言葉はそれ以上続かなかった。咳込んでしまったから。身体を丸めながら長い間咳き込んだ彼女の額はじっとりと汗ばんでいた。アリアは咳込んでいる間中ジェネヴィエーヴの背中を撫で続けていた。
「お辛いですよね?落ち着いて、合間合間に呼吸をしてください」
 ジェネヴィエーヴはアリアのもう片方の手をきつく握り締めながら、コクコクと頷いた。ようやく落ち着いた頃にはジェネヴィエーヴはぐったりと起き上がることすらできなくなっていた。
「ノクターンとミスター・フェラーズに何か食べるものを届けさせて。二人とも熱中すると他のことに気が回らなくなる人たちだから、きっと昼食も摂っていないわ」
 ジェネヴィエーヴの声はかすれていつも以上に弱々しかった。
「分かりました。バスケット一杯に御馳走を詰め込んで差し上げましょう。夕食にも十分な量の食べ物を入れてあげます」
 アリアがにっこりと笑って言うと、ジェネヴィエーヴも微笑んだ。
「そうしてあげてちょうだい。・・・私は少し休むわ」
 ジェネヴィエーヴが瞼を閉じるとすぐに静かな寝息が聞こえ始めた。アリアはしばらくの間ジェネヴィエーヴの寝顔を見つめていたが、やがて隣室に控えている看護師に少しだけ席を外すのでジェネヴィエーヴ様を見ていてくださいと伝えて部屋を後にした。
 ナイトリー侯爵邸にはジェネヴィエーヴのために看護師が常駐するようになっていた。アリアは自分が付き添うからと訴えたが、貴女が倒れてしまったらジェネヴィエーヴを誰が助けることができるのだと言われてしぶしぶ納得せざるを得なかった。今では3人の看護師にそれぞれ1名ずつのメイドがつき、アリアをサポートしていた。アリアは彼女たちの働きぶりを数日の間注意深く観察し、これならよかろうと判断できるようになると、動くことのできないジェネヴィエーヴに代わって、ミスター・フェラーズと連絡を取り合ったり、聖属性の魔法の訓練の為に教会に出向いたりするようになった。
「ラトクリフ嬢」
 呼びかけに振り向くと、手紙を携えた執事の一人が立っていた。ジェネヴィエーヴ様宛のお手紙です、という言葉と共に受け取った手紙の差出人はクラレンスだった。ジェネヴィエーヴから、自分宛ての手紙はあなたが代わりに開封して、緊急度の高いものについては返信しておいてほしいと頼まれていた。しかし流石に婚約者で王族であるクラレンスの手紙を開封することはためらわれた。そのため、ジェネヴィエーヴが目覚め次第お伝えしようと決め、一度部屋へと引き返そうとした。
クラレンスはマメにジェネヴィエーヴの身体を気遣う手紙を寄こしていた。アリアは手の中にある手紙を見つめながら、今度はどういう言い訳をしてお見舞いを断ろうかと頭を悩ませた。
 自分付きのメイドに大きなバスケットを用意して、その中に何かお腹にたまる食べ物とワインを入れて欲しいと頼むと、準備ができるまでの間少し休もうと彼女は安楽椅子に身を預けた。
 どれくらい時間が経ったのだろうか、少しの間だけと目を閉じたはずだったが、窓から差し込む光はオレンジに染まっている。アリアがゆっくりと身を起こすと、扉がノックされた。ジェネヴィエーヴに何かあったのではないかと慌てて椅子から降りて扉を開けると、メイドの一人が申し訳なさそうな表情を浮かべて立っていた。ジェネヴィエーヴに関する用事であればもっと上級の侍女や執事が動くはず、胸を撫で下ろしたアリアは優しく問いかけた。
「どうしたの?」
 逡巡した末、若いメイドは一通の名刺を差し出した。
「先程、騎士様からこちらをお嬢様にお預かりいたしました。少しでよいのでお目にかかりたいと」
「騎士様?」
 訝しみながら名刺を受け取ったアリアはそこに書かれた名前に軽く目を見張った。ちらりとメイドの顔を見ると、何か誤解しているらしく頬を赤く染めている。
「お引き取り戴いて」
 名刺を返しながら冷ややかにそう告げると、メイドは目に見えて狼狽えた。
「で、ですが、大事なご用事があるから、どうしても今すぐお会いしたいと仰っているんです」
 メイドの様子から察するに、いくばくかの金品を渡され、必ず連れてくるようにとでも言われているのだろう。眉間に皺を寄せ、ハアとため息をつくとアリアは護衛騎士を呼んでくるようにと言いつけた。

 近づいてきたアリアの後ろに、2名の騎士がいることに気付いたその人物は、口の端で苦く笑った。
「これは随分と警戒されてしまったようですね」
 騎士を背後に引き連れたアリアが目の前に来ると、近衛の赤い制服を身に着けたヒューバード・ノートンは胸に手を当てて軽く会釈した。
「お呼び立てしてしまい申し訳ありません。ミス・ラトクリフ」
「ごきげんよう、ノートン卿。ご理解くださいませ。お互いのためですわ。わたくしが原因で、何か誤解を招いてしまっては申し訳ありませんもの。」
 アリアは気づいていないが、このような時の彼女はジェネヴィエーヴと驚くほどよく似ていた。長くジェネヴィエーヴに付き添ううちに、知らず知らずジェネヴィエーヴの仕草や表情に倣うようになっていた。嫋やかで上品でありながら隙のない所作は、上級貴族や教会のお偉方との交流の中で大層役立った。アリアはジェネヴィエーヴと比べてどちらかというと朗らかで、思わず笑みが零れてしまうような印象を与える人物だったが、ジェネヴィエーヴ仕込みの仕草と言葉遣いを駆使することで、好ましい印象を与えながらも、他愛なく相手に主導権を渡すような容易い人物ではないことを、それとなく分からせることができるようになった。これは、身分の劣る準男爵の遺児であるアリアが社交界において、侮りを受けるのを防ぐのに一役も二役も買ってくれた。
 ヒューバードはアリアとこうやって直接話を交わすのは初めてだったが、可憐な外見に相違して、中々一筋縄ではいかないお嬢さんのようだと感じた。
「勿論です。このような突然のお呼び立てに応じていただき感謝いたします」
 ヒューバートが今度は深く頭を下げて詫びると、アリアはようやく硬い表情を解いて、微笑みを浮かべた。
 アリアは人に対してめったに悪感情を抱くことがなかったが、ヒューバードのことは好ましからぬ人物であると思っていた。人気者で、特に女性達からたくさんの好意を寄せられており、それを断ることもない、洒落た美丈夫だったが、そうした彼の人柄はアリアにとってそれほど価値のあるものではなかった。ヒューバードの放縦な私生活は社交界でも有名で、彼の軽佻浮薄な態度はアリアにとってどちらかというと眉を顰めるような類のものであったが、それよりも、ジェネヴィエーヴに対する彼の態度にアリアは反感を抱いていた。
当のジェネヴィエーヴは気にするそぶりもなかったが、他の令嬢に対する過剰な慇懃さと比べて、彼のジェネヴィエーヴに対する態度は冷淡であるとすら感じさせた。ジェネヴィエーヴと言葉を交わすヒューバードの瞳には、ジェネヴィエーヴに対する軽蔑の色が色濃く映し出されており、それを隠そうとすらしていなかった。その上、彼はクラレンスの従兄だった。彼はクラレンスや彼と親しい人々にジェネヴィエーヴはクラレンスに相応しくないと言って憚らなかった。
ジェネヴィエーヴのためにアリアはクラレンスとジェネヴィエーヴの婚約の解消を望んでいたが、だからといってジェネヴィエーヴがクラレンスに相応しくないというヒューバードの言葉は、断じて許容できるものではなかった。つまり、アリアはヒューバードのことが大嫌いだった。
「無礼を承知で申し上げますと、本当に驚きましたわ。このようにノートン卿のようなお方のご訪問を受けるとは全く慮外のことでしたから。何か礼を失することがあったのではなければよろしいのですが」
 アリアが長い睫を伏せながら片頬に手を当て、困ったような表情を浮かべると、ヒューバードは両手を挙げて、そんなことはありませんと答えた。
「お美しいと評判のミス・ラトクリフに一目お目に掛かりたりたかったというのも本心ですが、このように突然訪問させていただいたのには訳があるのです」
「まあ、どのような御用でしょう。見当もつきませんわ」
 大げさに驚いて見せるアリアに苦笑すると
「実は私はクラレンス殿下からナイトリー嬢宛の言伝を預かってきました」
ヒューバートは声を低めて言った。
「殿下からの、伝言ですか?ですが殿下からは、本日もお見舞いのお手紙を頂戴しておりましたが」
 アリアが訝しげに眉を顰めると、ヒューバードはアリアの後ろに控える騎士たちにちらりと視線を向けた。何か事情があるのだろうと察したアリアは、
「少しだけ、離れていてくれますか?」
 と声を掛け、騎士たちが声の届かない場所まで下がるとヒューバードを見返した。
「さあ、これでお話しいただけますわね?」
 彼女の言葉にヒューバートは頷いた。
「お心遣い痛み入ります。内密な話でしたので。・・・ラトクリフ嬢は最近の王宮のニュースをご存知ですか?」
 唐突な質問にアリアは眉根を寄せた。
「社交界の噂の半分は王宮にまつわることですわ。一体どのお話を指していらっしゃるのか見当がつきかねます」
 棒で鼻をくくった様な返答にヒューバードは愉快気に笑みを浮かべた。
「これは、私としたことが失礼いたしました。ですが、少しお考えいただければお分かりになるかと思います。いくら私と言えど、ナイトリー嬢のお名前を出してまで、他愛無い有閑貴族達の噂話を持ち出すようなことは致しません」
 茶化すような言葉にアリアの眉がピクリと動いた。
「まあ、それは随分と買い被っていただたようで恐縮ですが、浅学なわたくしでは到底分かりかねるお話のようです。わたくしはノートン卿と言葉遊びを楽しめるような身分ではございませんから、これ以上お話しいただけないようでしたら、失礼させていただきとうございます」
 アリアがスカートの裾をつまんで、軽く会釈すると、ヒューバートは初めて慌てたような表情を浮かべた。
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。令嬢を軽んじるような意図は全くありませんでした。どうかお許しください」
 ヒューバードが真剣な調子で謝罪の言葉を述べると、アリアは仕方なく再び彼に向き直った。
「噂というのは王妃様に関するお話です」
「王妃様、ですか。さあ、あまり詳しいことは存じ上げておりません。ただ、数日前からご不調が続いているということは耳にしております」
 ジェネヴィエーヴにかかりきりで、それどころではなかったとは口にできず、言葉を濁すと、ヒューバードは頷いた。
「まさにそのことなのです。王妃様は数日前のお茶会の後から体調を崩されました。王宮としては表向き季節の変わり目にお風邪を召されて、それが長引いていると発表しております。しかし、実際にはお茶会の数時間後に倒れられ、一時はお命も危うい状況でした。医師の見解ではどうやら毒を・・・」
「ノートン卿!少々お待ちくださいませ。今のお話は私のような物がうかがってよいものとは到底思えません」
 思いがけない深刻な話にアリアは礼儀を無視して言葉を遮った。
「ご安心ください。この話は早晩、正式に発表される予定です」
 ヒューバードはアリアにどうか最後まで話を聞いて欲しいと頼んだ。
「王妃様は何者かに毒を盛られたようなのです。王宮の医師団が治療に当たり、幸いなことに一命を取り留めましたが、現在は小康を保つのが精一杯という状態です。クラレンス殿下を始めとした王子様方も嫡母である王妃様の宮殿に詰めていらっしゃいます。本日ナイトリー嬢に差し上げたお手紙にもそのことが記されていたはずですが、そのご様子ですとまだお読みいただいていないようですね」
 彼の問いかけにアリアは慌てて頷いた。
「はい。お手紙を戴いた時、ジェネヴィエーヴ様はようやくお休みになったところでしたので、お目覚めになってからご覧に入れようと考えておりました。ではノートン卿はそれを確かめるためにわざわざおいでくださったのですか?」
「ああ、いいえ。そうではありません。私が参りましたのは、ナイトリー嬢のお加減が落ち着いていらっしゃるのであれば、ミス・ラトクリフを王宮においでいただけないかと伺うためです。王宮医師団の治療が功を奏さない今、陛下は思い切って王妃様のご病状を公表し、王宮の外から人物を招こうとお考えです」
 わずかに思考を巡らせたアリアはヒューバードの顔を見返した。
「つまり、私の魔力が必要だということでしょうか」
 ヒューバードは満足げに頷いた。
「理解が早くて助かります。陛下のご意向を受けて、クラレンス殿下がまずミス・ラトクリフに内々にお話をするようにと私を遣わしたのです」
 アリアは目を伏せ、慎重に言葉を探した。
「ナイトリー侯爵閣下はこのことをご存じなのでしょうか?王命とあれば私に否やはございません。しかし、侯爵閣下の御恩顧を蒙っている身としては、閣下のご意見をうかがわずにはいられません」
「勿論、侯爵閣下へは本日中にも陛下直々にお話しされることでしょう。お返事はその後で構いません」
 ぐっと言葉を飲み込んだアリアが分かりましたと答えると、ヒューバードは気まずげに視線を地面に落としながら言った。
「それと、これは王命とは別にクラレンス殿下の従兄として、申し上げたいのですが、殿下のナイトリー嬢に対する心遣いは真心から出たものです。私が申し上げても説得力に欠けることは重々承知しておりますが、殿下の想いをあまり無碍になさらないで差し上げてください。本気でナイトリー嬢のお体を心配されています。ご無理をさせるつもりは一切ございませんが、殿下のお手紙に対して一言、たった一行でも構いませんのでナイトリー嬢からお返事をいただくことはできないでしょうか」
 アリアは心は罪悪感でチクリと痛んだ。ジェネヴィエーヴの意向を受けて、ナイトリー侯爵家では一切の見舞いを拒んでいた。それは婚約者であるクラレンスも同様であった。いや、むしろクラレンスこそがその目的であったかもしれない。ジェネヴィエーヴはクラレンスが生真面目な性格で、誠実でありたいと常に心掛けていることを理解していた。そんな彼が婚約者の哀れな病身を目に入れたとしたらどうなるだろうか。結果は火を見るより明らかだった。だからこそ、婚約者への手紙に対して冷淡すぎると感じていたが、ジェネヴィエーヴは震えた筆跡で返信することすらもためらった。そして、ジェネヴィエーヴの代筆を務めながら、アリアもまた心を鬼にしてクラレンスに断りの手紙を書いていた。
「ジェネヴィエーヴ様は・・・、殿下のお気遣いを十分承知されています。ですが、どうか、病床に伏す姿をご覧に入れたくないという、ジェネヴィエーヴ様の心のうちをご理解いただきたく存じます」
 苦し気なアリアの様子に、ヒューバードははっと目を見張った。
「ナイトリー嬢のお体はどれほどお悪いのですか?」
「どうぞ、お察しくださいませ」
「殿下は・・・、いえ、これ以上申し上げるのは控えましょう。ですが、せめてこのお話を殿下に申しあげることをお許し願えますでしょうか」
 アリアはぐっと唇を噛みしめた。
「お帰りになった後に、殿下に何を申し上げるのかはノートン卿のご自由にされてください。もとよりわたくしに、ノートン卿をお止めする力はございません」
 頑なな態度のアリアに、ヒューバードはこれ以上彼女と会話を重ねても実りはないと感じた。彼はまたいつもの人好きのする笑みを顔に浮かべると、暇を告げた。
「それでは、陛下のご意向につきましてお返事をお待ちしております」
 そうして、アリアは去っていく彼の後ろ姿を見送りながら、深いため息をついたのだった。
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