無弦の琴

内藤 亮

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 ようやく雨が止み、厚い雲間から月が頼りない光を落としている。今しがた湯屋に行って着替えたばかりなのに、肌にねばりつくような夜気で、着ているものがくたりとしてきた。とろりとした風が青臭い川の匂いを運んでくる。
 人には鬱陶しい季節だが虫けらどもにとっては心地がいいらしく、おけらがジージーと喧しい。一の坂川のヨシ原には無数の源氏蛍が光の尾を引きながら飛んでいた。
「ひどく蒸すな。おまけに今夜はケチ臭い客だし。座敷に上がるのが億劫だ」
 昌也は同意を求めるように言うと、三味線を乱暴に持ち直した。
ー所帯を持ったら物入りだよ 座敷に出て夜中咲良さん一人ほっとくわけにもいかないだろ 今のうちに稼いでおかなきゃ
 咲良の名前を出すと、昌也が照れくさそうにあらぬ方を向いた。頬が微かに染まっている。結納が近づくにつれ、昌也はこんな顔をすることが増えた。
 静恵と昌也は、たぶん咲良も、当たり前のように芳と一緒に暮らすものと思っているが、厄介小父になるのは御免だ。小さなこの町で昌也と弟子を取りあう気もない。いずれはこの町を出なければならないだろう。
 三味線だけで食い扶持が稼げなかったら、口がきけないことを売り物にして、いっそのこと際物の師匠としてやっていくという手もある。手持ちの金で半年は食べていける。たとえ野垂れ死にをしても誰も困らないのだ。
 いまのところ投げやりな気持ちにならないですむのは、少しでも稼いでなるべく多くの祝儀を渡したい、と思うからだった。それが昌也のためなのか、咲良のためなのかは考えないようにした。 
 今夜の座敷は小野屋に泊っている隣県からの観光客だ。芸者遊びは敷居が高いが雰囲気だけでも楽しみたい、という要望で声がかかったのだ。今は静恵と菊乃が世話になったヨシの娘、ミネが置屋を引き継いでいて、昌也と芳はミネから座敷の仕事を回してもらっている。
 芸妓を呼ぶと一時間で二円、二時間で三円ほどかかる。小さな借家の家賃が五円から十円だからけして安くはない。半玉はその半分の料金だ。修行中、しかも男ときているから、昌也と芳に払う金は半玉よりも少し安いくらいなのだ。
 小野屋は松田屋より格は落ちるが、料理は一流料亭に引けをとらない。亭主の定吉(さだきち)は元々が腕のいい板前だったから、今でも自ら料理場に立つ。料理人にとっては厳格すぎる雇い主だが、ここで鍛えられて自分の店を構えた者も多いのだ。小野屋を贔屓にする客も段々と増えて、昨年は宿の増築をしたほどの繁盛ぶりだ。
「男芸者でも通りそうだねえ。ちょっとお待ち」
 ミネは目を細めてそういうと、髷から櫛をとり、伸びあがって芳の髪を整えてやった。
「俺は」
 昌也が自分の頭をミネに差し出した。
「そんなことをしたら、誰かさんに怒られるよ」
 ミネの傍らで早苗(さなえ)が笑いをこらえている。
「そうそう。一昨日ね、菊乃さんの昔の友達で、リクっていう人がお前に会いたいってここに来たのだけれど。聞き覚えはないかい」
 芳は首を振った。菊乃が仕事の話をすることはなかったし、交友関係にいたっては、たとえそれが仕事がらみでないとしても、尚更に口を閉ざしていた。静恵が迎えにきて、初めて菊乃にも親しい友がいたことを知ったくらいなのだ。
「そうかい。私も聞いたことのない名前だったからちょいと気になってね。ま、用があればまたここに訪ねてくるだろう」
ーすみません ご面倒をかけて
「心配はいらないよ。おや、そろそろ時間だね。しっかり稼いでおいで」
 長年、置屋を営んでいるだけのことはある。芸妓たちの身の安全を図るのもヨシの仕事なのだ。芸妓はもちろん、ここに出入りする者たちの住まいをミネが人に教えることはまずない。置屋なら、質の悪い者がやってきても、それを処理する専門の男たちがいるから、ここを拠点として女たちも安心して仕事ができるのだ。
「おう、任せとけ」
 昌也が頼もしく請け負った。
 ミネの置屋から小野屋までは川沿いを歩いてすぐだ。ようやく風が出てきて川辺の柳がさらさらと涼しい音を立てている。
「半玉が三人か。今日の客は吝いぞ。ちゃちゃっと済ませて、俺たちだけで飲みなおそうや。お、蛍だ」
 昌也は袂に止まった蛍をそっと放してやり、再び、だらだらと歩き始めた。いかにもやる気がない風だが、一たび三味を持つと、目の覚めるような冴えた音を出す。そうして客は皆、昌也の虜になるのだ。
「三人寄れば何とやらっていうでしょ。さ、行くわよ」
 早苗はまだ文句を言っている昌也を小突くと、後ろを振り返った。
「芳さんと一緒でよかったわ。昌也さんだけだと、踊るの、大変なんだもの」
 齢も近い早苗だと遠慮がないらしく、興にのると昌也は即興の節回しをちょいちょいと曲間に入れる。負けん気の強い早苗は涼しい顔をして、即興の節回しをきれいに舞う。
 今も口ではああいっているが、早苗が本当に困っているのかどうかは怪しいものだ。昌也も早苗も、己の芸に陶酔している者特有の、冴えたそれでいてどこか潤んだような眼差しをして、二人だけの緊密な空間を作り上げるのだ。そうなると、芳は三味を弾きながらも、客と同じ外郭から二人を眺めることしかできなくなる。天賦の才に太刀打ちできるはずもないと、己の才のなさを納得させる理由をつけたくなるのはこんな時だ。
「色んなことを試せるのが半玉の特権だろ。あれくらい、いいじゃないか」  
「もう、昌也さんたら。芳さん、よろしくね」
 早苗は屈託なくそういった。自分を仲間として認めてくれているらしい。芳はにこりとして頷いた。
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