無弦の琴

内藤 亮

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 木戸から中に入り裏口へ回った芳は足を止めた。静恵の錆びた声が聞こえてくる。
 世の中に耐えて花香のなかりせば 我はいづくに 宿るべき 浮世知らで草に寝て……
 爪弾きだが糸の音が耳朶の奥まで染み入るように響いてくる。芳は外に佇んだまま、唄が終わるのを待って中に入った。
「おや、お帰り」
 洗い髪を一つに束ね浴衣をさらりと纏っているだけだが、背筋を伸ばし三味線を弾く姿は凜として、やはりもと芸妓だ。頭には白いものが混じっているが、子を一人しか産んでいない身体に緩みはない。帰って来たのが芳一人だと分かると静恵は苦笑した。
「咲良さんと一緒なのかい」
 芳は頷くと、懐から帳面をとりだした。
ー少し遅くなるって
 そう書きながら芳は嫉妬が混じっていないことを慎重に確かめていた。さばけた静恵が灸をすえるほど奔放な昌也だったが、生涯の伴侶に選んだのは、結局、幼馴染の咲良だった。
「そろそろ茂平さんにご挨拶しないといけないねえ」
 三味線を傍らに置くと静恵は母親の顔になっていた。芳はそうだね、と笑みを浮かべて頷いた。
ー先に休みます お休みなさい
「ゆっくりお休み」
 静恵は居住まいを正すと再び三味線を手に取った。昔馴染みの旦那衆に呼ばれることもあるが、鬼籍に入った者も多いから、座敷の仕事はひと頃よりはずいぶん減った。それでも熱心な弟子や芸妓たちのために静恵は精進を欠かさないのだ。
 酔いが醒めると花冷えの夜気が部屋の中まで入り込んでくるようだった。芳は冷やりとした夜具の中にもぐりこむと海老のように体を丸めた。目を閉じると微かな三味線の音が急に近づいてくる。夢うつつに三味の音を聞きながらいつの間にか眠りに落ちていった。

「おはよう」
 静恵と朝餉の膳を整えていると白い顔をした昌也が部屋に入って来た。まだ酒の匂いをさせている。
「はい、おはようさん。まったくいい年をして。ほどほどになさい」
「わかってるって」
 そう言いながら芳が差し出した湯呑の水をさも旨そうにごくごくと飲み干した。静恵の小言を聞き流しながら早くも山盛りの飯を平らげている。少々飲み過ぎても、頑健な胃袋を持つ昌也は朝になるときちんと腹が空くらしい。見ていて気持ちのいいような食べっぷりだ。
「芳、おまえ寝ている時は声が出るんだな」 
 飯椀を手にしたまま昌也が言った。芳の箸が中途半端な位置で止まった。うっかり咲良の名でも呼んだのだろうか。
 そうかい、というように首を少し傾げ、動揺を気取られないよう汁の中身を見るふりをした。
「よくうなされてるだろう。どうせ見るなら楽しい夢、見ればいいのに」
 口から発せられる音は明瞭な言葉にはなっていないらしい。寝ぼけたまま声を出そうとして、現実に気が付くところから一日は始まるのだ。
 ほっとした芳はさらさらと帳面に書きつけた。 
ー今度からそうするよ
 母の菊乃を死なせたのは自分だ。いまだに口がきけないのはその咎を受けているからだ、と思うといっそのこと気が楽になった。夢見が悪いのは当たり前なのだ。
「咲良が教えてくれたんだけど。独逸留学から帰ってきた軍医が帰省しているんだって。夏中こっちにいるらしいよ。診てもらったらどうだい」
「いい機会じゃないか。早速に診てもらうといい」
 静恵も重ねていった。万事全力で事に当たる静恵は、芳の治療にも積極的に取り組んだのだ。 
 自分のためなのだと言い聞かせるのだが、診察室でぶつけられる痛烈な医者の言葉を思うと飯が喉を通らなくなり夜も眠れない。診察室から出てくる度に、静恵は雛を抱く雌鶏のように心身ともに強張った体を抱きしめる。思わず涙がこぼれそうになるのを堪えるのに苦労した。今度こそ声が出るように努めようと心を決め、急いで笑顔をつくるのだが、治療の途中で先に心が折れたのは静恵のほうだった。
「あのお医者は意地が悪いよ。通うのはもう止めにしよう。そんな顔をしなくてもいい。まずはしっかりご飯を食べて。このままだと本当の病気になっちまう」
 からりとした口調で代弁してくれたが、悲嘆に曇った静恵の眼差しを忘れることができなかった。これという医者がいると聞けば早速に治療を受けに行ったのだが、はかばかしい効果もなく今に至ってしまった。付き合いのある人々は筆談に慣れてくれた。いつの頃からか怠惰な気持ちがひょっと顔を出すようになって声を出そうと努める気もなくなっている。医者探しもここしばらくはしていない。
❘そうだね ありがとう
 昨夜は二人の手前、声を出す練習をしている、と書いたがそれは嘘だ。このままなら咲良と昌也の弟分の立場を楽に保つことができるのだ。医者へ行く日取りを決めようともしない曖昧な返事に昌也は不服そうな顔をしているが、飯に夢中という体を装って気が付かないふりをした。
 どの医者も声が出せないのは気鬱のせいだ、と診断した。独逸帰りの医者も同じことを言うに違いない。筆談で意思疎通はできるから不便はない。当初は話す相手と会話の速度を合わせるために簡潔な言葉を選んでいたのだが、それがいつしか己の生身を晒さないですむ心地のいい砦のようになっていた。露骨な好奇心を巧みな親切心に包み込み口のきけなくなった理由を事細かに聞いてくる者がいる。そんな時は最低限の説明をし、殊更に悲痛な顔をして目を伏せれば大抵の者は質問の矛先を収めてしまう。口がきけなくなって長いこと経つうちにこんな卑怯な手も平気で使えるようになってしまった。
「午後からの稽古、今日はお前たちに任せてもいいかい。たいしたことじゃあないんだよ。いよいよ四十肩、おや間違えた。五十肩かねえ。肩が痛くて手があがらなくてね。柚庵(ゆうあん)先生にちょっと診てもらうよ」
 肩の付け根をもみほぐしながら、静恵は言った。
「俺達だけでいいのかな」
 静恵の手伝いとして稽古をつけることは今までもたびたびあったが、二人だけで稽古をつけたことはないのだ。
「おまえたち二人だけのほうがあの子らも喜ぶだろう」
 今日稽古に来るのは近隣の商家の娘たちだ。嫁入り前の手習いと食っていくために習う芸妓たちの三味線では、やはり求める音が違ってくる。
「なるほどね。今日は楽しもうぜ」
 昌也がそう言うのも分からなくはない。不服そうな顔をすると、わかった、ちゃんとやるから、と昌也は酒で膨らんだ顔を引き締めた。
「じゃあね。芳、昌也を頼むよ」   
 静恵はそう言いおいて出掛けていった。

 熨斗のきいた色目の渋い小紋を着流しにして、角帯をキリリと締めれば二人とも一端の師匠姿だ。稽古が始まる頃には酒気もすっかり抜けて、昌也の顔はいつも通りの締まった顔に戻っている。
 今日の稽古が二人だけと分かると、志麻と多津子は互いに袖を引き顔を赤らめた。
「師匠はどちらへ」
 真っ先に聞いたのはやはり由紀だった。由紀は酒屋の一人娘だ。そろそろ婿をとろうと父親は焦っているようだが本人はどこ吹く風と女学校を謳歌している。在学中に伴侶を決めるのがそれなりの家の娘なら当たり前なのに、英語教諭のメアリー女史に心酔している由紀はさらに上の学校に行って見分を広めたいようだ。女史の薫陶を受け、西洋の女のように思っていることを率直に口にする。花嫁修業の一つとして何とはなしに三味線を習っている娘たちと違い、真摯に練習に励むのも西洋人に日本の音楽を知らしめたいから、なのだそうだ。
「ちょっと肩が痛いそうだ。心配はいらないよ。大事をとって柚庵(ゆうあん)先生に診てもらうだけだから」
 由紀が安堵の息をついた。
 芳が手本を弾き、昌也が娘たちの音を整える。昌也が手を取ると娘たちは例外なく顔を赤らめているが、由紀だけは真っ直ぐに前を向いたまま、小さく頷いて音を合わせていた。
「昌也さんのお三味線、聞きたいわ」
 稽古が終わると真っ先にういったのは志麻だ。年頃の志麻が熱心にここに来るのは稽古以外の目的があるのがあからさまなのだが、当の本人は咲良しか見えていない。昌也が所帯を持ったら生徒が随分と減ることだろう。
「いいよ」
 昌也は不真面目な弟子の申し出を快く請け負った。
「せっかくだから三人でやろうか。由紀、こちらへおいで。曲目は、そうだな……。こないだ仕上がった磯千鳥にしよう」
 ここに通うようになって三年になる由紀は素直な音を弾く。覚えたばかりの曲を皆の前で急に披露することになって、由紀の頬が朱を刷いたようにさっと染まった。志麻が鋭い視線を投げかけたが、由紀は生真面目な顔をしたまま固い声で、はい、と答えた。
「いい人を思って弾くんだぞ」
 昌也が笑いかけると由紀は耳の付け根まで赤くなった。
 うたた寝の 枕にひびくあけの鐘 実にままならぬ世の中を 何にたとへん飛鳥川……
 流石だ。昌也の艶のある声が、時としてふらつく心許ない由紀の三味を引っ張っている。由紀の硬い音がいつのまにか磯千鳥になって男を追っていた。  
 一同が大きく拍手した。志麻と多津子まで一緒になって拍手をしている。  
 夢から醒めたような顔をしていた由紀は慌てて頭をさげた。
「よかったぞ」
 こぼれるような笑顔で昌也がぽんぽんと由紀の肩をたたくと、案の定、志麻が白い目を向けた。
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