海を奔る竜

内藤 亮

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母と息子

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 午前中の授業が終了した。終礼が鳴るとにわかに教室が騒がしくなった。もうすぐ夏期休暇だ。休みが終わると予科の試験がある。勉学を続けるか仕事に就くか。これから進路が大きく分かれるのだ。共に過ごす最後の長い休みを前に、皆、何をして過ごすか夢中になって相談している。
 級友は身体のことが分かると、表向きだけ愛想のいい笑みを浮かべいつの間にか離れていった。いつともしれない命なのだ。友情を培っても仕方がない。啓恭も強いて交流を求めるつもりはなかった。早々に帰り支度をして教室を出ても、声をかける者は誰もいなかった。 
 職員室に寄って早退する旨を伝えると、教師はすぐに帰宅を許可した。心臓が悪いことは千諒のおかげで学校中に知れ渡ってしまった。おかげで教練で皆から遅れをとっても欠席が続いても咎められることはなくなったが、周囲との隔たりが一段と高くなったのは確かだった。
 今日は泊手の稽古が休みで家には誰もいない。啓綜は書を教えに行っている。啓綜の門下生、宗哲が私塾を開いていて、その手伝いに行くのだ。
 宗哲も里之子に属する武士だった。武道はからきしだが学問と書は際立ったものがあった。私塾を開き何とか生計をたてているのだが、学者肌の穏やかな人柄で子供の抑えがきかない。啓綜が手習いの教室に行くと、どんな悪ガキも忽ち模範的な生徒になるから、頻繁にお呼びがかかるのだ。
 啓恭は手と足を洗い口をゆすいで清めると、誰もいない道場に入った。正面の神棚に一礼し心を整える。平安ピンアンの型を一通り演じ終わる頃には、幼い頃から身体になじんだ唐手の動きがすっかり甦っていた。その場で跳躍すると、上段の蹴りが鋭く空を切った。
 突きや蹴りを繰り返すうちに音が消えていく。意のままにならない脆弱な身体。先の見えない未来。無責任な憐憫の眼差し。うんざりだった。力を込めて見えない敵に向かって攻撃を繰り返し、鬱屈した思いを存分にぶつけた。
 耳鳴りがして周囲の景色が色を失っていく。不規則な拍動を無視してさらに技を繰り出していると、舟に乗っているかのように周囲の景色が揺らぎはじめた。もうすぐだ。啓恭の唇の端に微かな笑みが浮かんだ。父は新しい家族と新しい生活を始めればいい。これでもう、役立たずの息子にかかる無駄な費えもなくなるのだ。
 錐をもみ込むような鋭い痛みが胸を走り、啓恭はそのまま意識を失った。

「ただいま!」
「あら、こっちに帰って来たの?」
 夕方の仕込みをしていた千諒が振り返った。
「兄さんが今日はこっちに帰るって言っていたから。宿題の分からないところを教えて貰おうと思って」
「ここには来ていないわよ」
「約束したのに」
 千遥は頬を膨らませた。
 共に暮らし始めたが、親子の距離は一向に縮まらない。啓恭の受け答えは丁寧だが、少しでも立ち入った質問をすると、とたんに口を閉ざしてしまう。いつも溟い水底を覗いているような啓恭の顔が千諒の脳裏をよぎった。
「培元先生を呼んできて。私は先に高橋町に行くわ」
 自分の思い違いならそれでいい。千諒は慌ただしく店じまいをはじめた。
 表情にただならないものを感じたのだろう。千遥は青い顔をして頷くと、外へと駆け出していった。
 三軒先の旅館の前で車夫が客待ちをしていた。渋る車夫に、倍の料金を払う、といって千諒は強引に車に乗り込んだ。事情を話すと、車夫は渾身の力を込め、真っ赤な顔をして人力車を引いてくれた。
 ようやく屋敷が見えてきた。千諒は転がるように人力車から降りると、屋敷に向かって駆け出した。屋敷は静まりかえっている。玄関の扉は固く閉ざされたままだ。千諒は道場へと走った。
 啓恭は道場で倒れていた。抱き起して呼びかけても返事がない。千諒は深く呼吸して気持ちを静めると、培元から習い覚えた蘇生術を施しはじめた。何度目だろうか。微かに啓恭の胸が上下しはじめた。
「啓恭!」
 啓恭は焦点の合わない眼でぼんやりと宙を見ている。抱きあげた身体はか細く今にも消え入りそうだった。いかせてなるものか。千諒は息子の身体をもう一度しっかりと抱きかかえた。
 ふと気が付いて啓恭の袂を探ってみると、薬包が封を切らずにそのまま入っている。粟立つ気持ちを抑え、もう一度啓恭をよく見ると、着ている物が汗まみれだ。道場の床にも汗が飛び散っている。
「貴方はいったい何を……」
 啓恭は顔をそむけると目をつぶってしまった。  
 千遥が息を切らせて走り込んできた。
「母さん! 先生を連れて来たわ」
 培元は千諒の処置を褒めると、すぐに啓恭の手当てを始めた。
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