17 / 23
16
しおりを挟む
ムエタイ教室は小学校の体育館で隔週の水曜日、夜七時から行われる。
常連客の一人、天野が無類の格闘技好きで、ユッティナムに教室を開くよう勧めたのだ。
「でも、ムエタイはねぇ」
ユッティナムはそういって、最初は教室の開催に乗り気ではなかった。
母国のタイでは、貧乏からのし上がるための手段としてムエタイを学ぶ者が多く、ムエタイは貧困層のスポーツとみなされていた。ユッティナムもそういう若者の一人だったのだ。
試合には多額の掛け金がかけられ、場末の試合でもファイトマネーはけっこうな額となる。ひと昔前までは、八百長試合もしょっちゅうだった。
「だからさ、そういうダークなイメージは昔の話でしょ。ムエタイ、オシャレって思ってるよ、今の若い人は」
「そんなもの?」
「少なくとも、日本ではそうだよ。試しにやってみたら。生徒が増えればここのお客さんも増えるだろうし」
「ほんと?」
店を開いたばかりの頃だ。日本語もまだおぼつかないユッティナムは藁にもすがる思いだったにちがいない。
「本当だとも。収入が増えるし、日本人をよく知るチャンスだよ」
ユッティナムはちょっと考えていたが、よろしくお願いします、と天野に頭を下げた。
「お、やっと乗り気になったか。俺、市役所に知り合いがいるからさ。申請書の出し方、教えるよ」
「ありがと。あと、ええと、スケット頼んでもいい?」
天野はユッティナムが助っ人という言葉を知っているのに驚いたような顔をしたが、すぐに力強く請け負った。
「勿論いいよ。申請書に指導者の人数を明記すれば問題ない」
格闘技というと許可が下りづらい。健康増進を前面に打ち出せ、という天野のアドバイス通りに書類を書いて提出し、めでたく教室開催となったのだ。
生徒の募集要項は、近隣の住民に店を宣伝するのが目的だから、近所のスーパーマーケットの掲示板に張ってもらうことにした。
初日のメンバーは、生徒が天野と千怜、あとは学生のような若者の合わせて三人だった。講師のほうが生徒よりも人数が多いが、初日だからまあ、こんなものだろう。そういって天野と千怜はユッティナムを慰めた。
次の開催日も人数は似たりよったりで、天野と千怜は、再びユッティナムを慰めることになった。
「やっぱり、見た目も大事だと思うんです」
「だよなあ。もうちょっとこう、着る物とかも小綺麗にしてさ。垢ぬけた雰囲気にしないと。生徒が集まらないよ」
「デモね、友達はみんなお金ナイよ」
そういうユッティナム自身も、野暮ったいヘアスタイルとくたびれたシャツがせっかくの容貌を台無しにしていた。
「仕方ねえなあ」
「まず、ヘアスタイルですね。カットは私がやります」
そうした経緯で、講師陣のコーディネーターは千怜がつとめることになった。ブライトとガルフは学生、シントーは自動車の部品工場で働く研修生だ。近隣に住んでいるそうで、ユッティナムの店に来るようになったのが知り合うきっかけだったそうだ。
一口にタイ人といっても中華系、南洋系、無国籍風と顔立ちはバリエーションに富んでいる。ユッティナムはヨーロッパ系がどこかで混じっているらしい顔立ちで、シントーはどちらかというとアジア系、学生の二人は南洋系の顔立ちをしていた。千怜は各々に似合ったヘアカットをし、講習会の前には髪が乱れないよう、ジェルで整えるよう指導した。
飽食ができるような金持ちは一人もいないから、皆、身体が細い。折角だから、スポーツインストラクター風の身体にぴったりとした揃いのウェアを着せることにした。
「スポーツウェアの代金は天野さんと私が立て替えておきました。代金の返済は余裕ができたときでいいです」
千怜がそういうと、三人は一様にホッとした顔をした。
天野と千怜は、服くらいプレゼントするつもりだったのだが、ユッティナムがタダで物を貰うのはいやだ、と反対したのだ。
丁寧な指導と、千怜のコーディネートもものをいったのだろう。可愛い男の子が丁寧に指導してくれる、とまず主婦の間で話題になった。ユッティナムは二児の父親だが、優しくていい、とこちらも人気だ。目新しい格闘技に興味を持つ人も思いのほか多くいて、生徒はどんどん増えていった。おかげで四人の指導者は大忙しだ。
「ナムさん、いっそムエタイの先生になったほうが稼げるんじゃないの?」
天野がいうと、ユッティナムはとんでもない、というように顔の前で手を大きく振った。
練習は、本場タイの試合と同じようにワイクルー・ラムムアイを舞うことから始まる。ムエタイの選手は試合の前に舞を舞う。舞は、自分の師と両親に感謝を捧げ、神に勝利を願う意味があるそうだ。
民族楽器で奏でられる独特の旋律に合わせて四人が舞い始めると、小学校の体育館が本場タイの試合会場のようになる。四人のイケメン(?)が舞うワイクルー・ラムムアイはエキゾチックで絵になった。今では、舞を覚えるのが主たる目的で講習会に通う生徒がいるほどなのだ。
舞が終わると、次は空突き、空蹴りの練習をする。ムエタイの攻撃は、パンチ、キック、肘打ちの三つに大別される。パンチや肘うちもバリエーションがあるから、一通り練習をするだけでも、空突きや空蹴りをかなりの回数こなすことになる。次はペアを組み、攻撃と防御のコンビネーションの練習をする。最後に整理体操をして講習会は終了だ。
ここまでの練習でかなりの運動量がある。運動不足の解消にちょっと参加してみよう、という生徒がほとんどだから、みな汗だくになって息を切らしている。
後半は試合形式のスパーリングだ。ここからは自由参加で、実際に殴り合いをしてもいいし、見学だけしてもいいことになっている。
「千怜さんも、久しぶりにスパーリング、どう?」
ユッティナムが声をかけた。
「いいですね!」
千怜がファイティングポーズをとってみせると、おおこわ、と天野が首をすくめた。
対戦の組み合わせは生徒の力量や体格を考慮してユッティナムが決めるのだが、千怜の相手は大抵ユッティナムだ。
父親に似たらしく、千怜は背が高くリーチも長い。女にしては筋力もある。仕事がかなりの肉体労働だから、スタミナをつけようとランニングをしていたら、いつのまにかスパーリングでも息が上がらなくなっていた。試合の後半になってもバテずに蹴りを次々と繰り出せる生徒はそうそういない。
そのうち、スパーリングで千怜にこてんぱにやられた相手が講習会に来なくなった。来なくなった生徒の中には、男性もいた。こちらはプライドの問題も大いに関係していたのだろう。
「ガルフ、相手してあげて」
ユッティナムが言った。ガルフは四人の中で一番背が高く、力も強いのだ。千怜が困惑していると、ユッティナムが言った。
「そろそろ、ちゃんとした試合形式でやってみようよ。ガルフなら千怜さんが何をしたってびくともしないから。思いきりやってごらん」
「ミューさんは?」
初めての試合形式ならなおさら、いつも相手をしてくれるユッティナムのほうが安心だ。
「講師が怪我をしたら困るもの。千怜さん、パワフルだから」
ユッティナムが戯けてクルリ、と目をまわした。ユッティナムは千怜と同じくらいの背恰好だ。相手に怪我をさせないよう配慮しながら、素人の無茶な攻撃をしのぐのは確かに大変だろう。
「分かりました。私が相手でいいの?」
千怜はガルフの方に向きなおった。いかにガルフといえども、女が相手では、やりづらいに違いない。
「うん、いいよ」
ガルフが笑顔で答えた。
キックボクシングとよく似ているが、ムエタイでは肘打ちと膝蹴りが認められている。肘も膝も身体の中で最も硬い部分だから破壊力がある。そのうえ、膝蹴りは相手の首元を捕まえての膝蹴りもありだから、かなりのダメージだ。プロの試合は技を駆使した膝蹴りの応酬が迫力たっぷりで、天野曰く、そこがムエタイの面白いところなのだそうだ。とはいうものの、肘打ちと膝蹴りは素人には危険なので、講習会では禁止されている。
勝敗は加点方式で、キックのほうがポイントが高いから、試合はおのずと足技の応酬になる。採点方法はプロの試合と同じだ。膝蹴りが使えないから、互いに距離を取っての足技が続くことになる。バリエーションが豊富な足技の応酬は、派手で華麗だから、ルールを知らない初心者が見ていても面白い。今日の練習も、見学のギャラリーが体育館の窓から顔をのぞかせていた。
試合が始まれば、男も女も関係ない。力を尽くすのが指名してくれたユッティナムとガルフに対する礼儀、というものだ。千怜は一礼をすると、試合に神経を集中させた。
千怜がどんな攻撃を仕掛けてもガルフは悠々とうけとめてしまう。深淵というニックネーム通り、攻撃が全て吸い込まれてしまうのだ。ようやくハイキックが決まったと思ったのも束の間、ガルフの強烈なミドルキックがもろに入り、千怜は後方へ吹っ飛んでしまった。
こういう時のために、スパーリング中は、見ている生徒や講師がぐるりと周りを囲んで緩衝材の代わりになっている。天野の脂肪たっぷりの腹がクッションとなったおかげで、千怜は壁に激突しないで済んだ。
「大丈夫?」
「ええ」
天野にお辞儀をして、千怜は試合に戻った。
ガルフの攻撃をなんとか凌ぎ、反撃する。応酬が続くうちに雑念が消えて頭が空っぽになっていくのが分かる。試合中は、自分の息遣いとガルフからの衝撃だけしか感じない。
千怜がもう一度、渾身のミドルキックを放った瞬間、ガルフのローキックが決まった。
「時間です」
セコンドをしていたシントーの声が響いた。互いに挨拶をして、試合は終わった。見ていた生徒が、度肝を抜かれたような顔をしている。
攻撃で受けた傷に痛みを感じるのは試合が終わってからだ。身体のあちらこちらが痛むが、無心になって汗をかいた後は、頭が冴えて目や耳まで良くなったような気がする。今日はいつにもまして身体がズキズキとして熱を持ったようになっているが、この心地よさは、一度味わうと病みつきになるのだ。
「お疲れさん」
ユッティナムが笑顔で言った。
「今日はありがとうございました」
「ちいちゃん、強くなったね。ほら、これ見てよ」
ガルフの肩にはあざが出来ていた。
「わ、ごめん!」
「お互い様。あ、彼氏が来てるよ。僕、怒られちゃうかも」
ガルフはちらりと舌を出すと、千怜の肩越しに会釈をした。ガルフは子供の頃から日本で暮らしているから、四人の中では日本語が一番達者だ。見た目はエキゾチックだが、若者の流行り言葉など、千怜よりもよく知っているくらいなのだ。
「彼氏なんていませんよ」
千怜が振り返ると、田村が体育館の入り口に立っていた。
常連客の一人、天野が無類の格闘技好きで、ユッティナムに教室を開くよう勧めたのだ。
「でも、ムエタイはねぇ」
ユッティナムはそういって、最初は教室の開催に乗り気ではなかった。
母国のタイでは、貧乏からのし上がるための手段としてムエタイを学ぶ者が多く、ムエタイは貧困層のスポーツとみなされていた。ユッティナムもそういう若者の一人だったのだ。
試合には多額の掛け金がかけられ、場末の試合でもファイトマネーはけっこうな額となる。ひと昔前までは、八百長試合もしょっちゅうだった。
「だからさ、そういうダークなイメージは昔の話でしょ。ムエタイ、オシャレって思ってるよ、今の若い人は」
「そんなもの?」
「少なくとも、日本ではそうだよ。試しにやってみたら。生徒が増えればここのお客さんも増えるだろうし」
「ほんと?」
店を開いたばかりの頃だ。日本語もまだおぼつかないユッティナムは藁にもすがる思いだったにちがいない。
「本当だとも。収入が増えるし、日本人をよく知るチャンスだよ」
ユッティナムはちょっと考えていたが、よろしくお願いします、と天野に頭を下げた。
「お、やっと乗り気になったか。俺、市役所に知り合いがいるからさ。申請書の出し方、教えるよ」
「ありがと。あと、ええと、スケット頼んでもいい?」
天野はユッティナムが助っ人という言葉を知っているのに驚いたような顔をしたが、すぐに力強く請け負った。
「勿論いいよ。申請書に指導者の人数を明記すれば問題ない」
格闘技というと許可が下りづらい。健康増進を前面に打ち出せ、という天野のアドバイス通りに書類を書いて提出し、めでたく教室開催となったのだ。
生徒の募集要項は、近隣の住民に店を宣伝するのが目的だから、近所のスーパーマーケットの掲示板に張ってもらうことにした。
初日のメンバーは、生徒が天野と千怜、あとは学生のような若者の合わせて三人だった。講師のほうが生徒よりも人数が多いが、初日だからまあ、こんなものだろう。そういって天野と千怜はユッティナムを慰めた。
次の開催日も人数は似たりよったりで、天野と千怜は、再びユッティナムを慰めることになった。
「やっぱり、見た目も大事だと思うんです」
「だよなあ。もうちょっとこう、着る物とかも小綺麗にしてさ。垢ぬけた雰囲気にしないと。生徒が集まらないよ」
「デモね、友達はみんなお金ナイよ」
そういうユッティナム自身も、野暮ったいヘアスタイルとくたびれたシャツがせっかくの容貌を台無しにしていた。
「仕方ねえなあ」
「まず、ヘアスタイルですね。カットは私がやります」
そうした経緯で、講師陣のコーディネーターは千怜がつとめることになった。ブライトとガルフは学生、シントーは自動車の部品工場で働く研修生だ。近隣に住んでいるそうで、ユッティナムの店に来るようになったのが知り合うきっかけだったそうだ。
一口にタイ人といっても中華系、南洋系、無国籍風と顔立ちはバリエーションに富んでいる。ユッティナムはヨーロッパ系がどこかで混じっているらしい顔立ちで、シントーはどちらかというとアジア系、学生の二人は南洋系の顔立ちをしていた。千怜は各々に似合ったヘアカットをし、講習会の前には髪が乱れないよう、ジェルで整えるよう指導した。
飽食ができるような金持ちは一人もいないから、皆、身体が細い。折角だから、スポーツインストラクター風の身体にぴったりとした揃いのウェアを着せることにした。
「スポーツウェアの代金は天野さんと私が立て替えておきました。代金の返済は余裕ができたときでいいです」
千怜がそういうと、三人は一様にホッとした顔をした。
天野と千怜は、服くらいプレゼントするつもりだったのだが、ユッティナムがタダで物を貰うのはいやだ、と反対したのだ。
丁寧な指導と、千怜のコーディネートもものをいったのだろう。可愛い男の子が丁寧に指導してくれる、とまず主婦の間で話題になった。ユッティナムは二児の父親だが、優しくていい、とこちらも人気だ。目新しい格闘技に興味を持つ人も思いのほか多くいて、生徒はどんどん増えていった。おかげで四人の指導者は大忙しだ。
「ナムさん、いっそムエタイの先生になったほうが稼げるんじゃないの?」
天野がいうと、ユッティナムはとんでもない、というように顔の前で手を大きく振った。
練習は、本場タイの試合と同じようにワイクルー・ラムムアイを舞うことから始まる。ムエタイの選手は試合の前に舞を舞う。舞は、自分の師と両親に感謝を捧げ、神に勝利を願う意味があるそうだ。
民族楽器で奏でられる独特の旋律に合わせて四人が舞い始めると、小学校の体育館が本場タイの試合会場のようになる。四人のイケメン(?)が舞うワイクルー・ラムムアイはエキゾチックで絵になった。今では、舞を覚えるのが主たる目的で講習会に通う生徒がいるほどなのだ。
舞が終わると、次は空突き、空蹴りの練習をする。ムエタイの攻撃は、パンチ、キック、肘打ちの三つに大別される。パンチや肘うちもバリエーションがあるから、一通り練習をするだけでも、空突きや空蹴りをかなりの回数こなすことになる。次はペアを組み、攻撃と防御のコンビネーションの練習をする。最後に整理体操をして講習会は終了だ。
ここまでの練習でかなりの運動量がある。運動不足の解消にちょっと参加してみよう、という生徒がほとんどだから、みな汗だくになって息を切らしている。
後半は試合形式のスパーリングだ。ここからは自由参加で、実際に殴り合いをしてもいいし、見学だけしてもいいことになっている。
「千怜さんも、久しぶりにスパーリング、どう?」
ユッティナムが声をかけた。
「いいですね!」
千怜がファイティングポーズをとってみせると、おおこわ、と天野が首をすくめた。
対戦の組み合わせは生徒の力量や体格を考慮してユッティナムが決めるのだが、千怜の相手は大抵ユッティナムだ。
父親に似たらしく、千怜は背が高くリーチも長い。女にしては筋力もある。仕事がかなりの肉体労働だから、スタミナをつけようとランニングをしていたら、いつのまにかスパーリングでも息が上がらなくなっていた。試合の後半になってもバテずに蹴りを次々と繰り出せる生徒はそうそういない。
そのうち、スパーリングで千怜にこてんぱにやられた相手が講習会に来なくなった。来なくなった生徒の中には、男性もいた。こちらはプライドの問題も大いに関係していたのだろう。
「ガルフ、相手してあげて」
ユッティナムが言った。ガルフは四人の中で一番背が高く、力も強いのだ。千怜が困惑していると、ユッティナムが言った。
「そろそろ、ちゃんとした試合形式でやってみようよ。ガルフなら千怜さんが何をしたってびくともしないから。思いきりやってごらん」
「ミューさんは?」
初めての試合形式ならなおさら、いつも相手をしてくれるユッティナムのほうが安心だ。
「講師が怪我をしたら困るもの。千怜さん、パワフルだから」
ユッティナムが戯けてクルリ、と目をまわした。ユッティナムは千怜と同じくらいの背恰好だ。相手に怪我をさせないよう配慮しながら、素人の無茶な攻撃をしのぐのは確かに大変だろう。
「分かりました。私が相手でいいの?」
千怜はガルフの方に向きなおった。いかにガルフといえども、女が相手では、やりづらいに違いない。
「うん、いいよ」
ガルフが笑顔で答えた。
キックボクシングとよく似ているが、ムエタイでは肘打ちと膝蹴りが認められている。肘も膝も身体の中で最も硬い部分だから破壊力がある。そのうえ、膝蹴りは相手の首元を捕まえての膝蹴りもありだから、かなりのダメージだ。プロの試合は技を駆使した膝蹴りの応酬が迫力たっぷりで、天野曰く、そこがムエタイの面白いところなのだそうだ。とはいうものの、肘打ちと膝蹴りは素人には危険なので、講習会では禁止されている。
勝敗は加点方式で、キックのほうがポイントが高いから、試合はおのずと足技の応酬になる。採点方法はプロの試合と同じだ。膝蹴りが使えないから、互いに距離を取っての足技が続くことになる。バリエーションが豊富な足技の応酬は、派手で華麗だから、ルールを知らない初心者が見ていても面白い。今日の練習も、見学のギャラリーが体育館の窓から顔をのぞかせていた。
試合が始まれば、男も女も関係ない。力を尽くすのが指名してくれたユッティナムとガルフに対する礼儀、というものだ。千怜は一礼をすると、試合に神経を集中させた。
千怜がどんな攻撃を仕掛けてもガルフは悠々とうけとめてしまう。深淵というニックネーム通り、攻撃が全て吸い込まれてしまうのだ。ようやくハイキックが決まったと思ったのも束の間、ガルフの強烈なミドルキックがもろに入り、千怜は後方へ吹っ飛んでしまった。
こういう時のために、スパーリング中は、見ている生徒や講師がぐるりと周りを囲んで緩衝材の代わりになっている。天野の脂肪たっぷりの腹がクッションとなったおかげで、千怜は壁に激突しないで済んだ。
「大丈夫?」
「ええ」
天野にお辞儀をして、千怜は試合に戻った。
ガルフの攻撃をなんとか凌ぎ、反撃する。応酬が続くうちに雑念が消えて頭が空っぽになっていくのが分かる。試合中は、自分の息遣いとガルフからの衝撃だけしか感じない。
千怜がもう一度、渾身のミドルキックを放った瞬間、ガルフのローキックが決まった。
「時間です」
セコンドをしていたシントーの声が響いた。互いに挨拶をして、試合は終わった。見ていた生徒が、度肝を抜かれたような顔をしている。
攻撃で受けた傷に痛みを感じるのは試合が終わってからだ。身体のあちらこちらが痛むが、無心になって汗をかいた後は、頭が冴えて目や耳まで良くなったような気がする。今日はいつにもまして身体がズキズキとして熱を持ったようになっているが、この心地よさは、一度味わうと病みつきになるのだ。
「お疲れさん」
ユッティナムが笑顔で言った。
「今日はありがとうございました」
「ちいちゃん、強くなったね。ほら、これ見てよ」
ガルフの肩にはあざが出来ていた。
「わ、ごめん!」
「お互い様。あ、彼氏が来てるよ。僕、怒られちゃうかも」
ガルフはちらりと舌を出すと、千怜の肩越しに会釈をした。ガルフは子供の頃から日本で暮らしているから、四人の中では日本語が一番達者だ。見た目はエキゾチックだが、若者の流行り言葉など、千怜よりもよく知っているくらいなのだ。
「彼氏なんていませんよ」
千怜が振り返ると、田村が体育館の入り口に立っていた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
好きになっちゃったね。
青宮あんず
大衆娯楽
ドラッグストアで働く女の子と、よくおむつを買いに来るオシャレなお姉さんの百合小説。
一ノ瀬水葉
おねしょ癖がある。
おむつを買うのが恥ずかしかったが、京華の対応が優しくて買いやすかったので京華がレジにいる時にしか買わなくなった。
ピアスがたくさんついていたり、目付きが悪く近寄りがたそうだが実際は優しく小心者。かなりネガティブ。
羽月京華
おむつが好き。特に履いてる可愛い人を見るのが。
おむつを買う人が眺めたくてドラッグストアで働き始めた。
見た目は優しげで純粋そうだが中身は変態。
私が百合を書くのはこれで最初で最後になります。
自分のpixivから少しですが加筆して再掲。
騎士団寮のシングルマザー
古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。
突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。
しかし、目を覚ますとそこは森の中。
異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる!
……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!?
※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。
※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる