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「そろそろ帰らないと。家をずっと空けているのも心配だし」
「お母さんだけ帰ったらだめ? 夏休みが終わるまでここに居たいの」
「いいんじゃない。こっちでも茜里は立派な戦力になるし」
希恵が言い添えた。
茜里はここでも自分の居場所を確保しつつある。婦人会ではアイドル扱いだし、亜希子ちゃんもいる。坊さんの幸雄にも会いに行くつもりらしい。
「一人で電車に乗って帰ってくるのよ? その頃には、もう仕事が始まっているもの」
茜里がうっ、という顔をしたが、希恵が笑いながら言った。
「大丈夫よ。乗り換えのメモを書いてあげるわ。分からなくなったら周りの人に聞けばいいんだし」
「そっか。そうだよね! ありがとう、おばあちゃん」
一人で電車に乗るのも勉強だ。私が送っていく、と言わないのが希恵のいいところなのだ。小学校二年の夏休み。茜里の小さな冒険だ。
「これでたっぷり遊べるわ」
「宿題も、ちゃんとやるのよ」
「任せとけって」
茜里は男の子のような口振りで言った。最近、こんな口振りがちょいちょいと混じるのは、岬君の影響らしい。
バス停まで二人が見送りに来た。今度ここに来れるのは秋休みの時だろうか。もしかしたら、茜里は一人で行く、というかもしれない。
バスがよちよちと坂を上ってきた。
「じゃあ、先に帰るね。希恵さん、いろいろありがとう」
千怜は一番後ろの席に座り、手を振った。バスは速度を上げ、二人の姿がたちまち小さくなった。
千怜は車窓へと目を移した。山々は濃い緑色をまとい、すっかり夏の様相だ。窓をあけると、湿った土と樹々の香りがどっと流れ込んできた。
千怜は大きく深呼吸して故郷を香りを胸にしまった。
一人きりで過ごす夏休みは、何年ぶりだろう。何をしようか。カットサロンタムラの夏季休暇はあと十日もあるのだ。
「お盆休みだけだったら、何処に出かけても混んでいてくたびれるだけでしょ? ゆっくりできないよ」
蒸し暑い東京から脱出して長期バカンスを楽しもう、という客ばかりだから、カットサロン◇タムラの夏は暇なのだそうだ。
「暑くてくたびれるし。夏に休むのは理にかなってるんだよ」
「そんなことでいいんですか」
「いいのいいの。この暑いさ中、ピアノの発表会もないでしょ。結婚式も真夏はやらないよ。海外挙式は別だけどね」
「まあ、そうですね」
そういう仕事のやり方もあり、なのだろう。いつも綱渡りの生活だったから、長期休暇など考えたこともなかったのだ。
千怜の提案でヘアメイクの予約も取ることにしたのだが、今のところ、息子や娘の見合い写真が必要になった、という客が数名、来ただけだ。
七五三、お茶会や園遊会、歌やピアノ、バイオリンの発表会。いずれも大々的な催しは秋以降に行われるのだ。
メイクはほとんど勉強していない、という田村だったが、千怜が手ほどきをするとあっという間にメイクも上手くなった。田村も頭の中の画が明確なのだろう。
「メイクも面白いね。しっかし、千怜さんはなんでもできるなあ。老若男女問わず、メイクアップできるんだもの」
「数だけはこなしてますから。それだけです」
「またまた、ご謙遜を」
才能とは何だろう。天性の閃きを持つ者もいるのだろうが、今のところそういう人物には会ったことが無い。ただ言えることは、師匠と仰ぐ人々は皆努力家で、どんな仕事も黙々とこなしていた。それを見習ってきただけだ。
「真野さん親子、喜んでくれましたね」
「そうだね。千怜さんのメイク、すごくよかった」
「若い方はもともときれいなんですから、簡単です。凄いのは田村さんの方ですよ。あのお母さんが別人ですもの。メイクの勉強、始めたばかりだなんてとても思えません」
娘はともかくとして、母親はくすんだ顔色をしていて、不幸を一身に背負ったような顔をしていた。それがどうだ。田村にメイクが施されると、表情まで明るくなり、まるで別人のようになったのだ。
「そういってもらうと嬉しいけど。真野さんが聞いたら怒るよ」
「すみません」
千怜は肩をすくめた。
「メイクも面白いね。ヘアとの兼ね合いとか、まだまだ勉強しないとだなあ。お金が入るのもやっぱり嬉しいし」
「やっと経営に目覚めましたね」
「うん、そうかも」
「秋からは本格始動ですよ!」
千怜が発破をかけると、
「これじゃあ、どっちが経営者かわからないね」
そう言って田村は笑った。
電車から降りたとたん、ねっとりとした空気が肌にまとわりついてきた。村の爽やかな暑さとは大違いだ。もう少し希恵の家にいるべきだったと後悔したが、あとの祭りだ。
アパートまで歩いただけで汗だくになった。ドアのカギを開けるとむっとした空気が押し寄せてくる。急いで窓を開けると、午後の生温い風が部屋を吹き抜けた。クーラーも一応設置してあるが、学生時代からの癖がぬけず、一人のときはクーラー暖房の類はほとんど利用しない、というかできないのだ。
シャワーを浴び、洗濯物を済ませて一息ついていると、玄関のブザーが鳴った。
「今晩は」
ドアの覗き穴から外を見ると、魚眼レンズで歪んだ田村の姿があった。千怜はヨレヨレのランニングシャツを急いで新しいTシャツに着替えた。ハーフパンツは、まあ、大丈夫だろう。もう一度、千怜は鏡で全身の露出度をチェックしてからドアを開けた。
「よくいらっしゃいました」
「やあ、突然でごめん。部屋の電気がついていたから。ひょっとしたらいるかなあって。時々、このあたりを散策していたんだ」
ということは、田村は休み中、しょっちゅうアパート周辺に来ていたのだろうか。田村以外の男がこんなことをしたら、警戒心マックスになるところだ。
「茜里ちゃんは?」
田村が部屋の奥を覗き込んだ。
「希恵さんの所です」
「三人で食事にでも行こうと思って来たんだけれど……。あ、これ、溶けちゃうから冷凍庫に入れてくれる?」
田村は大きなアイスクリームの箱を千怜に手渡した。
「まあ、こんなに沢山! ありがとうございます」
「食事は済んだ?」
「まだです」
隣に住んでいる大学生が帰ってきて、玄関先に立っている田村の姿に気が付いて、おや、という顔をした。
「そこは蚊に刺されますから、どうぞ」
千怜がいうと、田村はそそくさとあがってきた。窓を閉めてクーラーのスイッチを入れようとすると、田村が言った。
「そのままでいいよ。ここ、いい風が通るんだね」
「クーラーじゃなくていいんですか」
「もちろん。簾に朝顔か。いいねえ」
小さなベランダに置いてある朝顔の鉢に田村は目を細めた。
「茜里が一年生の時、学校で貰った鉢なんです。今の朝顔ははその時の子孫なんです」
朝方に咲いた花はとっくにしぼんでしまったが、茎には蕾が沢山ついている。
「へえ。物持ちがいいなあ。ちゃんと花が咲くんだ」
感心したように田村が言った。植物に物持ちがいい、はおかしいだろう、と思ったが、田村が朝顔の種をちまちまと採取する事はなさそうだ。
家を空けていたから冷蔵庫は空にしてある。適当な食料を買って、後は一人でダラダラと過ごすつもりだったのだが、アイスクリームだけもらって、はい、さようなら、というわけにはいかない。かといって、田村と食事をするのも仕事の延長のようで億劫だった。
千怜が思案していると、田村が言った。
「夕飯、一緒に食べに行かない?」
田村の恰好はかなりキチンとしている。店の選択を任せたら、目を剥くような値段の店に連れていかれそうだった。茜里が一緒なら貴重な経験だと思って値段には目をつぶるが、一人の時、無駄な出費は避けたい。
「近くにタイ料理の店があるんです。なかなかの味ですよ。そこはどうですか」
本格的なタイ料理だが、日本人向きにアレンジしてあるから食べやすい。場所柄もあって、値段設定も良心的だ。店主のユッティナムの夢は母国で店を開くことだそうだ。単身赴任で頑張っている姿をみていると、千怜は他人事のようには思えず、つい応援したくなるのだ。
「この近所? 気が付かなかった」
「路地にある小さいお店ですから。ちょっと分かりずらいんです」
「面白そうだね」
「着替えてきます。少し待っていてください」
千怜は田村に麦茶をすすめ、着替えと化粧品を持ってユニットバスのドアを閉めた。一部屋しかないアパートだから、完全な個室はここしかないのだ。
支度を済ませてユニットバスから出てくると、田村が目を丸くした。
「支度、早っ」
「カジュアルな店ですから。これくらいで大丈夫です」
「そういう意味じゃなくてさ。すごくきれいだ」
「どうも」
千怜はごくあっさりと礼を述べた。人様の性癖をとやかく言う権利はないが、こういう賛辞を受けても、田村だと気楽だった。
「あの時の口紅だね! よく似合ってる」
唇に薄く塗った色だけであの時買った口紅だとすぐに分かったのは、やはり仕事柄だろう。秋からはメイクの仕事も本格始動する。大いに期待できそうだ。
「この色、どんな服にも合わせやすくて重宝しています。そろそろ行きましょうか」
商店街から路地に入り、古ぼけたアーケードの中に店はある。靴屋や昔ながらの洋品店にまじって、最近できたカフェやパン屋がごちゃごちゃと並んでいた。その一角にユッティナムの店はある。
店はもとタコ焼き屋だった。店内は人一人がやっと通れるような通路とカウンター席、調理場でいっぱいだ。
「ミューさん、今晩は!」
「千怜さん、久しぶり! そこ、どうぞ」
ユッティナムが今空いたばかりの席を勧めると、カップルがにっこりとして席をつめてくれた。
「ありがとう!」
「ミューさん? 猫?」
「ニックネームです。本名だと日本の人には覚えずらいでしょう」
ユッティナムが説明した。しなやかな動きが猫のようなユッティナムにぴったりのニックネームだ。
「初対面とか、ビジネスの時は本名を使うそうですけれど。ニックネームっていっても名刺に印刷してるくらいで、日本よりもずっと汎用性が高いそうですよ」
忙しそうなユッティナムに代わって千怜が補足説明をした。
「なるほど。ここは行きつけなの?」
「ええ。茜里と一緒に時々来るんです」
大きな中華鍋で炒め物をしていたユッティナムが、振り返った。
「あと、千怜さんはね、僕のムエタイ教室の生徒。あなたもムエタイ、やりませんか」
「えっ」
「ストレス解消にもってこい、ね」
「ムエタイってあのキックボクシングみたいなやつ?」
「ええ。ハイキックが相手に決まると爽快ですよ」
田村の目が更に大きくなった。ユッティナムは笑いをかみ殺している。
「どうぞ」
出されたグラスの氷水にはライムのスライスが浮かんでいた。ユッティナムの店はこういうちょっとした心遣いが嬉しい。寒くなると氷水が温かいお茶になるのだ。
夏の暑い日に台所に立つのは億劫だ。皆がそう思うらしく、店の席はほとんど埋まっていた。一人で店を切り盛りしているから、混雑すると途端に忙しくなる。
ユッティナムがカウンターの端に座っている夫婦に料理を出し終わると、レジの方から客の声がした。
「お会計、おねがいします」
若いカップルは大人しく会計を待っていたらしい。ユッティナムは手を拭きながら急いでレジへと向かった。
カップルはまたね、とユッティナムに手を振りながら店を出て行った。
「ナンのお替り、お願い」
「はいよ!」
ユッティナムは厨房に小走りに戻ってきた。
「一人でよくやるなあ」
「お店を持つのが夢なんですって」
これだけ人気があるのならもっと大きな店を借りてもよさそうなものだが、人を雇う金が惜しい。ユッティナムが言うには、一人で目配りをできるのはこの広さが限界なのだそうだ。
「なるほどね」
「辛いの、平気ですか?」
「ちょっと苦手かな」
「お肉系と魚介類どちらが好きですか」
「魚介類」
「だそうです。私もこっちの魚介類のコースをお願いします」
「オーケー、後は任せて」
「オーダー、それでいいんだ?」
「夜はコースで、二種類しかメニューがないんです」
「調味料、沢山あるね」
カウンターの上にずらりと並べられた調味料の瓶を見て、田村が驚いたように言った。
「味の微調整は自分の好みでするんですって」
「へえ」
最初のスープが運ばれてきた。ブリブリとしたエビがたっぷり入っている。スープを一口、口にした田村は目を瞠った。
「これはなかなか」
ユッティナムが新しく仕入れたというタイビールをしきりに勧めるから、千怜も久しぶりに飲んだ。アルコールで火照った頬に夜風が心地いい。日中はまだまだ暑いが、日が落ちると微かに秋の気配が漂っている。
「久しぶりに飲んだわ」
大きな伸びをしていると、お母さんって大変だね、と 田村が言った。
「過渡期は終わりましたから」
育児の過渡期はとうに終わった。裕太を思うと胸の奥が軋むが、今はただ、それだけだ。それだけ、と思うことにしている。
「エスニック料理って苦手だったけれど」
「言ってくださればよかったのに」
「せっかく千怜さんと一緒なんだから。新しい味を試してみようと思って」
「お気に召しました?」
「うん。ミューさんのタイ料理はいいね。白いご飯にも合いそうだ。明日も食べたいくらいだよ」
「それは良かったわ」
「また来てもいいかな?」
「ええ。でも、茜里が帰ってくるのは八月の末ですよ」
「僕は千怜さんに会いたいんだ」
〝も〟の字を抜いたのは田村なりの礼儀だろう。
「もうすぐ電車がきますよ」
「うん」
田村は振り返ると、もう一度手を大きく振った。何か言ったようだが、警音器がカンカンと鳴り始めて声が聞こえない。
折角の夏休みなのに、今年の田村は暇を持て余しているのだろう。気の毒に。そう思いながら千怜も手を振り返した。
「お母さんだけ帰ったらだめ? 夏休みが終わるまでここに居たいの」
「いいんじゃない。こっちでも茜里は立派な戦力になるし」
希恵が言い添えた。
茜里はここでも自分の居場所を確保しつつある。婦人会ではアイドル扱いだし、亜希子ちゃんもいる。坊さんの幸雄にも会いに行くつもりらしい。
「一人で電車に乗って帰ってくるのよ? その頃には、もう仕事が始まっているもの」
茜里がうっ、という顔をしたが、希恵が笑いながら言った。
「大丈夫よ。乗り換えのメモを書いてあげるわ。分からなくなったら周りの人に聞けばいいんだし」
「そっか。そうだよね! ありがとう、おばあちゃん」
一人で電車に乗るのも勉強だ。私が送っていく、と言わないのが希恵のいいところなのだ。小学校二年の夏休み。茜里の小さな冒険だ。
「これでたっぷり遊べるわ」
「宿題も、ちゃんとやるのよ」
「任せとけって」
茜里は男の子のような口振りで言った。最近、こんな口振りがちょいちょいと混じるのは、岬君の影響らしい。
バス停まで二人が見送りに来た。今度ここに来れるのは秋休みの時だろうか。もしかしたら、茜里は一人で行く、というかもしれない。
バスがよちよちと坂を上ってきた。
「じゃあ、先に帰るね。希恵さん、いろいろありがとう」
千怜は一番後ろの席に座り、手を振った。バスは速度を上げ、二人の姿がたちまち小さくなった。
千怜は車窓へと目を移した。山々は濃い緑色をまとい、すっかり夏の様相だ。窓をあけると、湿った土と樹々の香りがどっと流れ込んできた。
千怜は大きく深呼吸して故郷を香りを胸にしまった。
一人きりで過ごす夏休みは、何年ぶりだろう。何をしようか。カットサロンタムラの夏季休暇はあと十日もあるのだ。
「お盆休みだけだったら、何処に出かけても混んでいてくたびれるだけでしょ? ゆっくりできないよ」
蒸し暑い東京から脱出して長期バカンスを楽しもう、という客ばかりだから、カットサロン◇タムラの夏は暇なのだそうだ。
「暑くてくたびれるし。夏に休むのは理にかなってるんだよ」
「そんなことでいいんですか」
「いいのいいの。この暑いさ中、ピアノの発表会もないでしょ。結婚式も真夏はやらないよ。海外挙式は別だけどね」
「まあ、そうですね」
そういう仕事のやり方もあり、なのだろう。いつも綱渡りの生活だったから、長期休暇など考えたこともなかったのだ。
千怜の提案でヘアメイクの予約も取ることにしたのだが、今のところ、息子や娘の見合い写真が必要になった、という客が数名、来ただけだ。
七五三、お茶会や園遊会、歌やピアノ、バイオリンの発表会。いずれも大々的な催しは秋以降に行われるのだ。
メイクはほとんど勉強していない、という田村だったが、千怜が手ほどきをするとあっという間にメイクも上手くなった。田村も頭の中の画が明確なのだろう。
「メイクも面白いね。しっかし、千怜さんはなんでもできるなあ。老若男女問わず、メイクアップできるんだもの」
「数だけはこなしてますから。それだけです」
「またまた、ご謙遜を」
才能とは何だろう。天性の閃きを持つ者もいるのだろうが、今のところそういう人物には会ったことが無い。ただ言えることは、師匠と仰ぐ人々は皆努力家で、どんな仕事も黙々とこなしていた。それを見習ってきただけだ。
「真野さん親子、喜んでくれましたね」
「そうだね。千怜さんのメイク、すごくよかった」
「若い方はもともときれいなんですから、簡単です。凄いのは田村さんの方ですよ。あのお母さんが別人ですもの。メイクの勉強、始めたばかりだなんてとても思えません」
娘はともかくとして、母親はくすんだ顔色をしていて、不幸を一身に背負ったような顔をしていた。それがどうだ。田村にメイクが施されると、表情まで明るくなり、まるで別人のようになったのだ。
「そういってもらうと嬉しいけど。真野さんが聞いたら怒るよ」
「すみません」
千怜は肩をすくめた。
「メイクも面白いね。ヘアとの兼ね合いとか、まだまだ勉強しないとだなあ。お金が入るのもやっぱり嬉しいし」
「やっと経営に目覚めましたね」
「うん、そうかも」
「秋からは本格始動ですよ!」
千怜が発破をかけると、
「これじゃあ、どっちが経営者かわからないね」
そう言って田村は笑った。
電車から降りたとたん、ねっとりとした空気が肌にまとわりついてきた。村の爽やかな暑さとは大違いだ。もう少し希恵の家にいるべきだったと後悔したが、あとの祭りだ。
アパートまで歩いただけで汗だくになった。ドアのカギを開けるとむっとした空気が押し寄せてくる。急いで窓を開けると、午後の生温い風が部屋を吹き抜けた。クーラーも一応設置してあるが、学生時代からの癖がぬけず、一人のときはクーラー暖房の類はほとんど利用しない、というかできないのだ。
シャワーを浴び、洗濯物を済ませて一息ついていると、玄関のブザーが鳴った。
「今晩は」
ドアの覗き穴から外を見ると、魚眼レンズで歪んだ田村の姿があった。千怜はヨレヨレのランニングシャツを急いで新しいTシャツに着替えた。ハーフパンツは、まあ、大丈夫だろう。もう一度、千怜は鏡で全身の露出度をチェックしてからドアを開けた。
「よくいらっしゃいました」
「やあ、突然でごめん。部屋の電気がついていたから。ひょっとしたらいるかなあって。時々、このあたりを散策していたんだ」
ということは、田村は休み中、しょっちゅうアパート周辺に来ていたのだろうか。田村以外の男がこんなことをしたら、警戒心マックスになるところだ。
「茜里ちゃんは?」
田村が部屋の奥を覗き込んだ。
「希恵さんの所です」
「三人で食事にでも行こうと思って来たんだけれど……。あ、これ、溶けちゃうから冷凍庫に入れてくれる?」
田村は大きなアイスクリームの箱を千怜に手渡した。
「まあ、こんなに沢山! ありがとうございます」
「食事は済んだ?」
「まだです」
隣に住んでいる大学生が帰ってきて、玄関先に立っている田村の姿に気が付いて、おや、という顔をした。
「そこは蚊に刺されますから、どうぞ」
千怜がいうと、田村はそそくさとあがってきた。窓を閉めてクーラーのスイッチを入れようとすると、田村が言った。
「そのままでいいよ。ここ、いい風が通るんだね」
「クーラーじゃなくていいんですか」
「もちろん。簾に朝顔か。いいねえ」
小さなベランダに置いてある朝顔の鉢に田村は目を細めた。
「茜里が一年生の時、学校で貰った鉢なんです。今の朝顔ははその時の子孫なんです」
朝方に咲いた花はとっくにしぼんでしまったが、茎には蕾が沢山ついている。
「へえ。物持ちがいいなあ。ちゃんと花が咲くんだ」
感心したように田村が言った。植物に物持ちがいい、はおかしいだろう、と思ったが、田村が朝顔の種をちまちまと採取する事はなさそうだ。
家を空けていたから冷蔵庫は空にしてある。適当な食料を買って、後は一人でダラダラと過ごすつもりだったのだが、アイスクリームだけもらって、はい、さようなら、というわけにはいかない。かといって、田村と食事をするのも仕事の延長のようで億劫だった。
千怜が思案していると、田村が言った。
「夕飯、一緒に食べに行かない?」
田村の恰好はかなりキチンとしている。店の選択を任せたら、目を剥くような値段の店に連れていかれそうだった。茜里が一緒なら貴重な経験だと思って値段には目をつぶるが、一人の時、無駄な出費は避けたい。
「近くにタイ料理の店があるんです。なかなかの味ですよ。そこはどうですか」
本格的なタイ料理だが、日本人向きにアレンジしてあるから食べやすい。場所柄もあって、値段設定も良心的だ。店主のユッティナムの夢は母国で店を開くことだそうだ。単身赴任で頑張っている姿をみていると、千怜は他人事のようには思えず、つい応援したくなるのだ。
「この近所? 気が付かなかった」
「路地にある小さいお店ですから。ちょっと分かりずらいんです」
「面白そうだね」
「着替えてきます。少し待っていてください」
千怜は田村に麦茶をすすめ、着替えと化粧品を持ってユニットバスのドアを閉めた。一部屋しかないアパートだから、完全な個室はここしかないのだ。
支度を済ませてユニットバスから出てくると、田村が目を丸くした。
「支度、早っ」
「カジュアルな店ですから。これくらいで大丈夫です」
「そういう意味じゃなくてさ。すごくきれいだ」
「どうも」
千怜はごくあっさりと礼を述べた。人様の性癖をとやかく言う権利はないが、こういう賛辞を受けても、田村だと気楽だった。
「あの時の口紅だね! よく似合ってる」
唇に薄く塗った色だけであの時買った口紅だとすぐに分かったのは、やはり仕事柄だろう。秋からはメイクの仕事も本格始動する。大いに期待できそうだ。
「この色、どんな服にも合わせやすくて重宝しています。そろそろ行きましょうか」
商店街から路地に入り、古ぼけたアーケードの中に店はある。靴屋や昔ながらの洋品店にまじって、最近できたカフェやパン屋がごちゃごちゃと並んでいた。その一角にユッティナムの店はある。
店はもとタコ焼き屋だった。店内は人一人がやっと通れるような通路とカウンター席、調理場でいっぱいだ。
「ミューさん、今晩は!」
「千怜さん、久しぶり! そこ、どうぞ」
ユッティナムが今空いたばかりの席を勧めると、カップルがにっこりとして席をつめてくれた。
「ありがとう!」
「ミューさん? 猫?」
「ニックネームです。本名だと日本の人には覚えずらいでしょう」
ユッティナムが説明した。しなやかな動きが猫のようなユッティナムにぴったりのニックネームだ。
「初対面とか、ビジネスの時は本名を使うそうですけれど。ニックネームっていっても名刺に印刷してるくらいで、日本よりもずっと汎用性が高いそうですよ」
忙しそうなユッティナムに代わって千怜が補足説明をした。
「なるほど。ここは行きつけなの?」
「ええ。茜里と一緒に時々来るんです」
大きな中華鍋で炒め物をしていたユッティナムが、振り返った。
「あと、千怜さんはね、僕のムエタイ教室の生徒。あなたもムエタイ、やりませんか」
「えっ」
「ストレス解消にもってこい、ね」
「ムエタイってあのキックボクシングみたいなやつ?」
「ええ。ハイキックが相手に決まると爽快ですよ」
田村の目が更に大きくなった。ユッティナムは笑いをかみ殺している。
「どうぞ」
出されたグラスの氷水にはライムのスライスが浮かんでいた。ユッティナムの店はこういうちょっとした心遣いが嬉しい。寒くなると氷水が温かいお茶になるのだ。
夏の暑い日に台所に立つのは億劫だ。皆がそう思うらしく、店の席はほとんど埋まっていた。一人で店を切り盛りしているから、混雑すると途端に忙しくなる。
ユッティナムがカウンターの端に座っている夫婦に料理を出し終わると、レジの方から客の声がした。
「お会計、おねがいします」
若いカップルは大人しく会計を待っていたらしい。ユッティナムは手を拭きながら急いでレジへと向かった。
カップルはまたね、とユッティナムに手を振りながら店を出て行った。
「ナンのお替り、お願い」
「はいよ!」
ユッティナムは厨房に小走りに戻ってきた。
「一人でよくやるなあ」
「お店を持つのが夢なんですって」
これだけ人気があるのならもっと大きな店を借りてもよさそうなものだが、人を雇う金が惜しい。ユッティナムが言うには、一人で目配りをできるのはこの広さが限界なのだそうだ。
「なるほどね」
「辛いの、平気ですか?」
「ちょっと苦手かな」
「お肉系と魚介類どちらが好きですか」
「魚介類」
「だそうです。私もこっちの魚介類のコースをお願いします」
「オーケー、後は任せて」
「オーダー、それでいいんだ?」
「夜はコースで、二種類しかメニューがないんです」
「調味料、沢山あるね」
カウンターの上にずらりと並べられた調味料の瓶を見て、田村が驚いたように言った。
「味の微調整は自分の好みでするんですって」
「へえ」
最初のスープが運ばれてきた。ブリブリとしたエビがたっぷり入っている。スープを一口、口にした田村は目を瞠った。
「これはなかなか」
ユッティナムが新しく仕入れたというタイビールをしきりに勧めるから、千怜も久しぶりに飲んだ。アルコールで火照った頬に夜風が心地いい。日中はまだまだ暑いが、日が落ちると微かに秋の気配が漂っている。
「久しぶりに飲んだわ」
大きな伸びをしていると、お母さんって大変だね、と 田村が言った。
「過渡期は終わりましたから」
育児の過渡期はとうに終わった。裕太を思うと胸の奥が軋むが、今はただ、それだけだ。それだけ、と思うことにしている。
「エスニック料理って苦手だったけれど」
「言ってくださればよかったのに」
「せっかく千怜さんと一緒なんだから。新しい味を試してみようと思って」
「お気に召しました?」
「うん。ミューさんのタイ料理はいいね。白いご飯にも合いそうだ。明日も食べたいくらいだよ」
「それは良かったわ」
「また来てもいいかな?」
「ええ。でも、茜里が帰ってくるのは八月の末ですよ」
「僕は千怜さんに会いたいんだ」
〝も〟の字を抜いたのは田村なりの礼儀だろう。
「もうすぐ電車がきますよ」
「うん」
田村は振り返ると、もう一度手を大きく振った。何か言ったようだが、警音器がカンカンと鳴り始めて声が聞こえない。
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