カットサロン◇タムラ

内藤 亮

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 田村さんが会いたがっている、と伝えると、茜里は大きく目を見開いた。
「ほんと?」
「今度の日曜日、いかがですかって。お友達と遊ぶ予定とか、ある?」
「ないわ!」
 それからが大変だった。何を着て行こう、髪はどうしよう、と大騒ぎだ。
「茜里の髪、田村さんがアレンジしてくださるって」
「わあ! すてき!」
 茜里は両手を胸の前で組み、歓声をあげた。
 田村が招待したのは昼食だった。「大したことはしないから。準備するのはあの美佐緒さんだからね。気軽に遊びにきて」、と笑っていたが、手ぶらというわけにはいかない。 
 出かける支度をしていると、茜里が眠い目をこすりながら起きてきた。
「どこ行くの」
「吉田青果店。朝採りトマトを田村さんに持っていこうと思って。あのトマト、早く行かないと売り切れちゃうでしょ」
 田村への手土産となると、菓子や茶の類ではハードルが高すぎる。そういうことに関する知識は乏しいから、自分が食べて美味しいと思ったものを持っていくしかない。路地もので形が整っているとは言い難いが、完熟してから収穫したトマトの味は濃厚で、一度口にすると忘れられない。白い粉をふいて、いぼが刺さりそうなキュウリも土産にするつもりだった。
「私も行く!」
 梅雨の晴れ間の直射が頭の上から照り付けてくる。空にはもうすぐ夏だ、と思わせるような入道雲が浮かんでいた。トマトもキュウリもこれからどんどん安くなって美味しくなる。 
 キュウリは、ピクルス、ぬか漬け、浅漬けと、どんな漬物にしても美味しい。洋の東西を問わず、先人もこの野菜には漬物が合うと気が付いていたのだろう。甘いトマトは、生でも、煮ても、焼いても美味しい。
 つらつら考えていると、田村の言葉を思い出した。美佐緒は料理をしない、と言っていた。そのまま食べられる野菜だが、丸ごとの野菜は迷惑かもしれない。田村からの招待とはいえ、いち従業員が客として、しかも子供まで連れて行っていいものか。色々考え始めると、昼食会が急に億劫になってきた。昼食会は今日だ。いまさら断るわけにはいかない。
「どうしたの?」
「ん? 何でもないわ」
 野菜を手土産にするのは却下した。何を持っていくべきか。店内を歩き回っていると、店主が冷蔵の棚にサクランボを並べている最中だった。
「奥さん、ひとつどう? お勧めだよ」 
 アメリカンチェリーと佐藤錦が並んでいる。アメリカンチェリーは深めの透明容器にたっぷりと入っていた。茜里と二人なら迷うことなくこちらを買う。佐藤錦はウレタンクッションの敷かれた平たいトレイに行儀よく並んで入っていた。値段が大分違ったが、千怜は迷うことなく佐藤錦のパックを二つ、買った。
 箱から出したトマトとキュウリを冷蔵庫の野菜収納コーナーにしまっていると、茜里が不思議そうな顔をした。
「トマト、持っていかないの?」
「サクランボのほうが格好いいかなって」
「両方、持っていけばいいのに。キュウリもおすそ分けしたら?」
 婦人会とは違うのよ、と喉元まで出かけたが、そのあたりの違いを茜里に教えるのは嫌だった。結局、サクランボ、トマト、キュウリと、土産が大荷物になった。

「よくいらっしゃいました!」
 今日の美佐緒はすっきりとしたタイトスカートに半袖のコットンニットを着ている。控えめでいかにもホスト役らしい装いだった。
「こんにちは。今日はお招きありがとうございます」
 茜里が先に挨拶をしてくれたので、後ろに立っていた千怜は頭を下げるだけですんだ。
「まあ。こんにちは」
 茜里の挨拶に美佐緒は目を細めている。
「やあ、こんにちは。素敵なワンピースだね」
「ありがとう! おばあちゃんが縫ってくれたの」
 厳密にはひいおばあちゃん、だが、茜里の祖母といってもいいくらい希恵は若々しい。
 玄関から田村の家に入ったのは初めてだった。家の中も古めかしい造りで、廊下の突き当りにはステンドグラスがはまっていた。ステンドグラスから差し込む様々な色の光が、黒光りしている廊下を照らしていた。
 茜里は物珍し気に辺りを見回して、
「魔法使いの家みたい!」
 と歓声をあげた。ここでそれを言うか。千怜はすぐにでも家に帰りたくなった。
「さ、こちらにどうぞ」 
 美佐緒が笑いを堪えている。 
 オークの丸テーブルの上には、駅前のブーランジェリーで買ったと一目でわかるデリカテッセンや、サンドイッチが並び、取り皿が置かれていた。
「つまらないものですが」
 千怜が土産を出すと、美佐緒が歓声をあげた。
「まあ、美味しそう! なんてみずみずしいお野菜なのかしら。さっそく皆で食べましょうよ! ありがとう、千怜さん。正巳、お二人を洗面所に案内してさしあげて」 
「うん」 
「あのう、おトイレ行きたいの」
「洗面所の隣だよ」
「ありがとう」
 田村がトイレのドアを開けてやると、茜里はさっさとトイレに入っていった。 
「千怜さんは?」
 田村が目に笑いを湛えたまま、たずねた。
「私は大丈夫です」
 居間に戻ると、美佐緒が千怜の持ってきた野菜とサクランボをシンクに並べたまま、思案中だった。
「お手伝いしましょうか」
「全部、お任せるわ」
 美佐緒はプラスチックの小さなまな板と、これまた小さなおもちゃのような包丁を千怜に渡すと、サクランボを洗い始めた。
「包丁、もう少し大きいのがありますか」
「ええ」
 不思議そうな顔をしながら美佐緒が三徳包丁を千怜に渡した。
「お塩、ありますか」
「ええ」
 トマトは櫛切り、キュウリは小さめの乱切りにして軽く塩もみした。三得包丁はほとんど新品で、切れ味は抜群だった。まな板はこれしかないらしい。
「手際がいいわねえ。キュウリは塩を振るのね」
 美佐緒が千怜の手元を覗き込んでいる。
「この方が食べやすいかなって。残った分はピクルスにしておきましょうか」
「ええ! お願い。私、ピクルス大好きなの」
「私もです。人参とか、玉ねぎのピクルスもおいしいですよね」
 千怜がそういうと、美佐緒は人参と玉ねぎをいそいそと出してきた。
「これも、お願い」
「お酢、ありますか」
「ええ。頂きものなのだけれど、どうしよかなって」
 美佐緒が取り出したのは、まだ封も切っていないワインビネガーだった。
「ピクルスに使うには上等すぎます」
「お酢はこれしかないのよ」
「でしたら、これで作りましょう。美味しいピクルスができますよ。夕方には食べられます。冷蔵庫に入れておけば数日はもちますから」
「嬉しいわ!」
 裕太と会う前の自分を見ているようだった。まともな料理を食べたことが無いから、料理をする習慣がなかった。独り暮らしを始めてからは、節約のため自炊せざるをえなかったが、パンを焼いてハムを乗せるくらいがせいぜいで、野菜、といえばちぎってそのまま食べられるレタスやトマトを食べるだけだったのだ。
 居間に戻ると、田村がさっそく茜里の髪をアレンジしていた。大きな姿見が置かれ、その前に置かれた椅子に茜里は座っている。
「母さんは、いっつもきちって髪を括るからいやなの」
 鏡に映ったアレンジを満足げに見ながら茜里が文句を言っている。髪はおくれ毛をたっぷりと残して、ゆったりと編まれていた。カントリーガール風で今着ているワンピースによく似合う。
「学校の時はそのほうがいいんだよ。勉強とか、体育の邪魔にならないでしょ? 帰るときまで髪が乱れないし」
「まあ、そうなんだけど」
 仕上げに田村が紫のコットンリボンを髪に編み込むと茜里が歓声を上げた。
「すてき!」
「さ、支度が出来たみたいだよ。お昼にしよう。食べたらまた、違うアレンジをしてあげる」
「嬉しい! ありがとう、田村さん」
 二人のやり取りを見ていた美佐緒が小さくため息をついた。
「私も茜里ちゃんみたいな孫が欲しいわ」
 美佐緒は息子のことをどこまで知っているのだろう。千怜は美佐緒の顔をそっと窺った。
「きれいだね! いかにも初夏って感じだ。テーブルが華やかになったよ」
 トマトの赤、キュウリの青、佐藤錦の柔らかい紅色。鮮やかな野菜と果物は、田村が言うようにデリカテッセンと並んでもなんら遜色はない。茜里のアドバイスを容れてよかった。千怜は胸をなでおろした。
「渚君はドッジボールが凄く上手なの。渚君が投げたボールで相手はどんどん外野にでちゃうのよ。敵チームがみんな渚君を狙うんだけど、どんなボールもとっちゃうの」
 茜里はいつのまにか田村の隣に座っている。
「へえ、すごいね。茜里ちゃんはドッジボール得意なの?」
「私はダメ。逃げ回ってばっかり。でもね、渚君の傍にいると、全部ボールを取ってくれるから安心なの」
 二人の様子をみていた美佐緒がそっとため息をついた。
「ごちそうさまでした! 美味しかったです!」
「余ったタルトは、持ってお帰りなさい」
「ありがとう!」
「片付けはお母さんと二人でやるから」
「いいの?」
「もちろんですよ。今日の主役は茜里ちゃんなんだから」
 主役、と言われ、茜里の顔がぱっと輝いた。
「ありがとう!」
 手招きをしている田村の許へ茜里は小走りにかけて行った。  
「母さん、写真撮って!」
 写真を撮ってやると、
「次は田村さんと」
 とリクエストされた。
「僕にもその写真、送ってくれる?」
「はい」 
「じゃあ、今度はちがう髪型ね」
 田村が言うと、茜里はいそいそと椅子に座った。
 「私たちはお茶にしましょうか。冷たい緑茶でいい?」
「はい、お願いします」
 玉露に大きな氷が浮かんでいる。
「おいしいです!」
 田村が茶を淹れるのが上手なはずだ。
「私だって、お茶くらいは淹れられるのよ。正巳から色々きいてるんでしょ」
 千怜が返事に詰まっていると、美佐緒が笑った。
「幸いね、私の傍にはいつも料理の上手な人がいるのよ。おかげでこの歳までそのままきちゃったの」
「こんなに美味しいお茶を淹れてくださるんですから。料理もお上手なはずですよ」
「どうかしらねえ。茜里ちゃんはお父さん似?」
 すっかり田村と打ち解けている茜里を見ながら、美佐緒が言った。 
「ええ、多分」 
「ちょっとした仕草が父親と似てたりして。子供って不思議よね」
「あの子がいてくれてよかったって、思います」
「私もよ。正巳を見ていると別れた相手を思い出すのだけれど。何も残っていないよりはいいかなって」
「素敵ですね」
 美佐緒が笑いながら手をひらひらさせた。
「そういうんじゃないのよ。あの頃のおバカさんで無謀だった自分もひっくるめて懐かしいなあって思うの」
「私はまだまだだわ」
「紆余曲折しているうちが人生の花よ」
「そんなものですか?」
「ええ」
 美佐緒が自信たっぷりに頷いた。
 今度は髪をほどいて、リボンと小さな編み込みがアクセントになっている。ほどいた三つ編みが丁度いい具合に残っていて、茜里の髪は全体に緩くウエーブがかかっていた。
「お姫様みたい!」
「姫、お気に召していただき、光栄です」
 田村がかしこまったお辞儀をすると、茜里も椅子から立ち上がり、ワンピースの裾をつまんで気取ったお辞儀をした。
「茜里、そろそろお暇しないと」
 いつの間にか、太陽が大きく傾いている。
「はあい。そうだ! お母さん、みんなの写真、撮って!」
「せっかくだから、庭で撮ろうよ」
 田村が提案し、ガーデンチェアーを持ってきた。
「前の人はここに座って。前列は母さんと茜里ちゃんね。僕たちは後ろに立つから」
「ここが点滅して五秒後にシャッターがおります」
 千怜が説明すると、一同は緊張した面持ちで頷いた。
「では撮ります」
 シャッターを押す前に、田村が茜里の髪をさっと櫛をいれると、茜里は目を丸くした。
「女優さんみたいよ」
 美佐緒に言われ、茜里ははにかんだように肩をすくめた。
 何枚か写真を撮った。撮影が終わった途端に皆がいい顔をするので、千怜はこっそりとスナップを撮っておいた。あとでこの写真も一緒に送るつもりだ。
「またいらっしゃい」
「はい!」
 茜里がにこにことして返事をした。
「今日はありがとうございました」
「駅まで送っていくよ」
「でも……」 
 駅までの道は熟知しているのだが。
「いいでしょ、お母さん」
 茜里はまだまだ田村と一緒に居たいらしい。
「食後の散歩がてら、ね」
 田村もそう言って茜里に加勢した。

 目の前を茜里と田村が並んで歩いている。夕日が照り付けて二人の背中が赤く染まっている。
 茜里の入学式をひかえた春休みだった。一家そろって動物園に出かけた。あの日も、千怜は、こうやって夕日に赤く染まる裕太と茜里の背中を見ていたのだ。
 その夜、裕太は急に熱を出した。翌日、近所の医者に診てもらうと、すぐに大きな病院を紹介されて、裕太はそのまま入院した。それきり、裕太が自分の足で家に帰ることはなかったのだ。
 不意に地面が傾いだような気がした。千怜は立っていられなくなり、思わず路肩の電柱に手をついた。
 ぱっと田村が振り返った。
「千怜さん?」
 二人が急ぎ足で戻ってきた。
「なんでもないです」
 茜里も電信柱にしがみついたままの千怜を心配そうに見上げている。
「今日は暑かったから。ちょっと目が回っただけです。ほら、ね」
 千怜は、元気よくその場で足踏みをして見せた。もう大丈夫、というのに、二人は千怜を挟むようにして歩いている。
「三人が並んで歩くと迷惑でしょ」
 千怜が言っても、二人はフォーメーションを崩そうとしない。三人並ぶのをようやくやめたのは、駅に近づいて人が増えてからだった。
「今日はありがとうございました」
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
「もう平気です」
 千怜は田村に目くばせしてみせた。心配そうな顔をしている茜里に、田村はやっと気が付いたようだ。
「今日は暑かったからね。ゆっくり休んで。茜里ちゃん、また遊びにおいで。待ってるよ」
「はい!」
 家までの道のりも、茜里は終始ご機嫌だった。
「そのリボン、頂いたの?」
「うん! きれいでしょ」
 そう言って、茜里は自慢気にリボンを見せた。手には様々な色のコットンリボンが握られている。田村がいつリボンを渡したのか、迂闊なことに全く気が付かなかった。
「そんなにたくさん……」
 千怜が呆れた顔をすると、茜里が慌てて言った。
「ちゃんとありがとうは言ったわ。お母さん、月曜日はこの青いリボンをつけてね!」
 やれやれ、だ。
「ええ。でも髪はきっちり括るわよ」
「学校はそのほうがいいんでしょ。分かってるって。私のアドレス、田村さんに教えてもいい? 田村さんのアドレスは教えてもらってるの」
「ええ、いいわよ」
 一瞬、返事が遅れてしまった。田村が好きなのは男性だ。俗な思考をするのは嫌だが、茜里を守るためには、つい用心深くなる。
「よかった! 私がアドレス交換したいって言ったら、田村さんはお母さんがいいっていったら、だって。なんで?」
「知らない人にアドレスを教えたらいけないって、学校で習ったでしょう?」
「田村さんは知らない人じゃないのに。へんなの」
 ご機嫌だった茜里が、家が近づくにつれて口数が減り、夕食の頃には黙り込んで、ため息ばかりついている。
「どうしたの」
「あのねえ、田村さんが新しいお父さんだったら、って思っちゃったの。お空のお父さんに怒られる?」
「大丈夫よ。茜里が元気にしてるのがお父さんは一番嬉しいんだから。田村さんと仲良くしたって怒らないわ」
 千怜がそう言うと、茜里はホッとした顔をした。
「そっか。そうだよね。お父さん、優しいもん」      
「明日から学校でしょう。そろそろお風呂、入りなさい」
「うん」
 風呂場から茜里の調子はずれの歌が聞こえてくる。
 音程が外れているのはご愛敬だ。裕太も音痴だった。二人が合唱をすると、微妙な音程の狂いがなんともいいがたいハーモニーを奏でていた。大真面目に歌っている二人には申し訳ないが、笑いを堪えるのに苦労したものだ。
 不意に喉元に熱い塊がこみあげてきた。全く、今日はどうかしている。茜里が風呂から上がる音がした。千怜は慌てて涙を拭った。
 
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