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一昨日はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。その翌日もまだ雨が降っていた。今日は久しぶりの晴天だ。皆、どこかに出かけたのだろう。
色々と理由をつけてはみたが、とにかく客が来ない。電話は何本かあったが、田村が休みだと伝えると、客はすぐに電話を切ってしまう。最初は意気込んでいたが、さすがにボディブローのようにこたえてくる。ずっと客のこないサロンに立っているのはかなりの苦行だった。
昼食の時間は田村の居る母屋に顔を出すのだが、これもまた、気が重い。田村は痛々しそうな顔をして、黙って極上の紅茶や緑茶を淹れてくれるのだ。
「いつも美味しいお茶をありがとうございます」
「あのさ、そんなに気を落とさないで」
「そういう風に見えますか、やっぱり?」
「そういう風に見えないよう、頑張ってるのが分かる」
「田村さんには参るなあ」
「千怜さんじゃないと、っていうお客さんもきっとでてくるから。まあ、気長に、ね」
「ありがとうございます。そろそろお店に戻ります」
「うん、よろしくね」
田村の目の腫れはほとんど分からないくらいになっている。そういえば、いつ田村は店に戻るのだろう。
それにしても、客がこない。千怜はトイレに行く時間も惜しんで電話の前にへばりついていた。道具のチェックをしてもう一度シンクに磨きをかけた。とはいえ、客が来ないから床もシンクも綺麗なままだ。悶々としていると、ようやく電話が鳴った。
「カットサロンタムラです」
「店長はまだお休み?」
まただ。仕方がないのだ。千怜は努めて声のトーンを明るくした。
「ご心配おかけしました。来週から店に出ます」
「そう。これから伺ってもいいかしら?」
「はい! お待ちしています」
自分を指名してくれる客なのだ。よほど舞い上がっていたらしく、名前をきくのを忘れてしまった。今のところ、千怜が髪を切った女性の客は木本だけだ。電話口の声のトーンは低かったから、木本ではないのは確かだった。
もう一度、店内が整っているかチェックをする。待っているときも美しく。突然、佐野の言葉が頭をよぎった。急いで落ち着いた顔を作り、客を待つ。
「こんにちは」
「野中さん! こんにちは!」
「ま! 名前、覚えていてくださったの!」
突然の来店に千怜も驚いたが、野中はそれ以上に驚いたらしい。
「昌伸さんは、ここにきて初めてのお客様でしたから。ペチちゃんとナナちゃん、元気ですか」
愛犬の名前を出すと野中はさらに驚いた顔をした。
「二匹でいたずらばっかりしてるわ。今日は貴女にカットしてもらいたくて。ほら、店長がいる時だと頼みづらいじゃない?」
「半額キャンペーンは終わったのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ」
鏡越しに千怜をしげしげと見ていた野中が言った。
「あなた、せっかくのその容貌を利用することは考えないの?」
「?」
「モデルさんとか。玉の輿を狙うとか。そっちの方が面白いでしょ?」
「そういう業界には、このくらいの顔の人なんて沢山いますよ。それよりも、色々な方を綺麗にする方が楽しいんです。自分の顔は歳をとる以外、変化なんてないんですから」
「いいお答えねえ」
野中が惚れ惚れとした顔をした。
「ええと、どのくらいお切りしましょうか?」
野中のヘアスタイルは緩やかにパーマのかかった長めのボブだった。いかにも奥様といった雰囲気の、品のあるカットだ。いつ切ったのかは分からないが、バランスは保たれていて、まだ切る必要はなさそうだった。
「昌伸を見ていたら、短めも悪くないかなあって思って。イメージチェンジしてみたくなったの。この歳でおかしいかしら?」
「そんなことはありませんよ。お似合いだと思います」
野中が安心したように微笑んだ。
「一センチくらい切りましょうか?」
「もう少し切ってみて。お任せするわ」
「はい」
「パーマはどうなさいますか?」
「染色もパーマもいらないわ。あのね、」
野中が声をひそめた。
「トリートメントで染まる便利なヘアカラーを見つけたのよ。自分で染めてみたの。どうかしら?」
「綺麗に染まってますよ。お上手ですね」
「よかった。店長には内緒よ」
田村のカットのあと、自分がカットをするのだ。パーマも染色もなし、となるとカットの技術がダイレクトにでる。久しぶりの緊張感がよみがえってきた。野中は顔の輪郭が昌伸とよく似ている。もっと活動的なヘアスタイルも似合いそうだった。
丁寧なカットだ。改めて田村の技術に惚れ惚れとしながら、千怜は野中の髪に慎重に鋏をいれていった。
「いかがでしょう? 後ろはこんな感じです」
綺麗な項が見えるくらいまでカットをした。手鏡で後姿を見せると、野本の顔がぱっと輝いた。
「まあ、なんだか若返ったみたい!」
シャギーを入れすぎると以前の髪型に戻すとき苦労する。控えめなシャギーにして、ぎりぎりまで短く切ってみた。軽くなった髪型はこれからの季節向きだと思う。
「こういうのもいいわね!」
野中が料金を払っていると、田村が顔を出した。
「お久しぶりです」
「お加減はもういいの?」
「はい、おかげさまで。そろそろ身体をならさないと、と思って。あ、そこ、いいよ。僕が掃くから」
「でも」
「初日はまずアシスタントから、だろ? 会計お願いします」
田村がいたずらっぽくお辞儀をした。
「いいですね、そのカット」
「でしょ。今度もまた、吉野さんお願いしようかしら」
「参ったなあ。またお客さんを取られそうだ」
「じゃ、また」
「ありがとうございました」
二人で並んでお辞儀をすると、野中は笑いながら手をふって店を出て行った。
「やっていけそうじゃない? もう少し休んでようかな」
「ずる休みはいけませんよ。待っているお客様が沢山いらっしゃるんですから」
「はいはい」
田村はまだ何か言いたそうだ。
「どうなさいました?」
「ごめん。野中さんとのやり取り、立ち聞きしちゃったんだんだ。他人を綺麗にするのが楽しい、か。いいねえ」
ということは、野中とのやり取りをずっと聞いていたのだろうか。そういえば、田村はカットが終わったころを見計らったように出てきたのだ。
そのまま店に残るのかと思っていたら、田村は、後はよろしく、と母屋に引っ込んでしまった。
色々と理由をつけてはみたが、とにかく客が来ない。電話は何本かあったが、田村が休みだと伝えると、客はすぐに電話を切ってしまう。最初は意気込んでいたが、さすがにボディブローのようにこたえてくる。ずっと客のこないサロンに立っているのはかなりの苦行だった。
昼食の時間は田村の居る母屋に顔を出すのだが、これもまた、気が重い。田村は痛々しそうな顔をして、黙って極上の紅茶や緑茶を淹れてくれるのだ。
「いつも美味しいお茶をありがとうございます」
「あのさ、そんなに気を落とさないで」
「そういう風に見えますか、やっぱり?」
「そういう風に見えないよう、頑張ってるのが分かる」
「田村さんには参るなあ」
「千怜さんじゃないと、っていうお客さんもきっとでてくるから。まあ、気長に、ね」
「ありがとうございます。そろそろお店に戻ります」
「うん、よろしくね」
田村の目の腫れはほとんど分からないくらいになっている。そういえば、いつ田村は店に戻るのだろう。
それにしても、客がこない。千怜はトイレに行く時間も惜しんで電話の前にへばりついていた。道具のチェックをしてもう一度シンクに磨きをかけた。とはいえ、客が来ないから床もシンクも綺麗なままだ。悶々としていると、ようやく電話が鳴った。
「カットサロンタムラです」
「店長はまだお休み?」
まただ。仕方がないのだ。千怜は努めて声のトーンを明るくした。
「ご心配おかけしました。来週から店に出ます」
「そう。これから伺ってもいいかしら?」
「はい! お待ちしています」
自分を指名してくれる客なのだ。よほど舞い上がっていたらしく、名前をきくのを忘れてしまった。今のところ、千怜が髪を切った女性の客は木本だけだ。電話口の声のトーンは低かったから、木本ではないのは確かだった。
もう一度、店内が整っているかチェックをする。待っているときも美しく。突然、佐野の言葉が頭をよぎった。急いで落ち着いた顔を作り、客を待つ。
「こんにちは」
「野中さん! こんにちは!」
「ま! 名前、覚えていてくださったの!」
突然の来店に千怜も驚いたが、野中はそれ以上に驚いたらしい。
「昌伸さんは、ここにきて初めてのお客様でしたから。ペチちゃんとナナちゃん、元気ですか」
愛犬の名前を出すと野中はさらに驚いた顔をした。
「二匹でいたずらばっかりしてるわ。今日は貴女にカットしてもらいたくて。ほら、店長がいる時だと頼みづらいじゃない?」
「半額キャンペーンは終わったのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ」
鏡越しに千怜をしげしげと見ていた野中が言った。
「あなた、せっかくのその容貌を利用することは考えないの?」
「?」
「モデルさんとか。玉の輿を狙うとか。そっちの方が面白いでしょ?」
「そういう業界には、このくらいの顔の人なんて沢山いますよ。それよりも、色々な方を綺麗にする方が楽しいんです。自分の顔は歳をとる以外、変化なんてないんですから」
「いいお答えねえ」
野中が惚れ惚れとした顔をした。
「ええと、どのくらいお切りしましょうか?」
野中のヘアスタイルは緩やかにパーマのかかった長めのボブだった。いかにも奥様といった雰囲気の、品のあるカットだ。いつ切ったのかは分からないが、バランスは保たれていて、まだ切る必要はなさそうだった。
「昌伸を見ていたら、短めも悪くないかなあって思って。イメージチェンジしてみたくなったの。この歳でおかしいかしら?」
「そんなことはありませんよ。お似合いだと思います」
野中が安心したように微笑んだ。
「一センチくらい切りましょうか?」
「もう少し切ってみて。お任せするわ」
「はい」
「パーマはどうなさいますか?」
「染色もパーマもいらないわ。あのね、」
野中が声をひそめた。
「トリートメントで染まる便利なヘアカラーを見つけたのよ。自分で染めてみたの。どうかしら?」
「綺麗に染まってますよ。お上手ですね」
「よかった。店長には内緒よ」
田村のカットのあと、自分がカットをするのだ。パーマも染色もなし、となるとカットの技術がダイレクトにでる。久しぶりの緊張感がよみがえってきた。野中は顔の輪郭が昌伸とよく似ている。もっと活動的なヘアスタイルも似合いそうだった。
丁寧なカットだ。改めて田村の技術に惚れ惚れとしながら、千怜は野中の髪に慎重に鋏をいれていった。
「いかがでしょう? 後ろはこんな感じです」
綺麗な項が見えるくらいまでカットをした。手鏡で後姿を見せると、野本の顔がぱっと輝いた。
「まあ、なんだか若返ったみたい!」
シャギーを入れすぎると以前の髪型に戻すとき苦労する。控えめなシャギーにして、ぎりぎりまで短く切ってみた。軽くなった髪型はこれからの季節向きだと思う。
「こういうのもいいわね!」
野中が料金を払っていると、田村が顔を出した。
「お久しぶりです」
「お加減はもういいの?」
「はい、おかげさまで。そろそろ身体をならさないと、と思って。あ、そこ、いいよ。僕が掃くから」
「でも」
「初日はまずアシスタントから、だろ? 会計お願いします」
田村がいたずらっぽくお辞儀をした。
「いいですね、そのカット」
「でしょ。今度もまた、吉野さんお願いしようかしら」
「参ったなあ。またお客さんを取られそうだ」
「じゃ、また」
「ありがとうございました」
二人で並んでお辞儀をすると、野中は笑いながら手をふって店を出て行った。
「やっていけそうじゃない? もう少し休んでようかな」
「ずる休みはいけませんよ。待っているお客様が沢山いらっしゃるんですから」
「はいはい」
田村はまだ何か言いたそうだ。
「どうなさいました?」
「ごめん。野中さんとのやり取り、立ち聞きしちゃったんだんだ。他人を綺麗にするのが楽しい、か。いいねえ」
ということは、野中とのやり取りをずっと聞いていたのだろうか。そういえば、田村はカットが終わったころを見計らったように出てきたのだ。
そのまま店に残るのかと思っていたら、田村は、後はよろしく、と母屋に引っ込んでしまった。
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