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「今日はカットサロンの面接があるから児童クラブで待っていて。体育館の入り口まで迎えに行くね」
「うん、分かった。面接、頑張って!」
いつの間にか、茜里は、寂しいとか、早く帰ってきて、と言わなくなった。
「おう、任せとけ! さ、行ってらっしゃい」
母たるもの、そう応えるしかない。
「行ってきます!」
カンカンカン、と勢いよく階段を下りる音がした。茜里は、学校生活にもすんなり馴染み、毎日を謳歌している。茜里のことは今のところ心配はいらない。あとはこの就職がうまくいけば万々歳なのだ。
老若男女、様々な人々の髪を切ってきた。手ごろな価格でカットのできるチェーン店だから、客の性別年齢はばらばらだった。馴染みの客もできて、かなりの数のカットを手掛けてきた。テクニックにはそれなりの自負もある。客層の違う店でも指名を受けるようになるまで時間はかからない、はずだ。
人を美しくする側のドレスコードは難しい。テクニックを駆使していかにも整えました、というのは不自然だし、ノーメークなどもってのほかだ。この仕事は、客をたててなんぼなのだ。千怜はいつものように眉を整え、薄いピンクベージュのリップクリームを塗った。髪はかなり短いから、手の加えようがない。香りのないムースで整えることにした。
髪が短いのは勤めるカットサロンを選ぶとき、最初は客として店の偵察に行ったからだった。なかなかこれ、といった店が見つからず、ショートカットになってしまったのだ。
準備を整えた千怜は、よしっと気合を入れ、玄関のカギを閉めた。
目指すカットサロンは同じ沿線上の高級住宅地の一角にあった。田園調布の駅前は、およそ生活臭のない店ばかりが並んでいる。廉価な価格帯のスーパーマーケットや、昔ながらの魚屋や八百屋が軒を連ねる千怜の住む町とはかなり雰囲気が違う。
駅前の広場はヨーロッパを模した石畳の円形広場になっていて、広場を囲むように洋菓子店やブティックが並んでいる。駅ビルも古いヨーロッパの建物を模した建物で、ティーラウンジやブティック、雑貨店、玩具店、書店がテナントとして入っていた。どの店の商品も、目玉の飛び出るような値段がついていて、千怜が財布を気にせずに入れる店は本屋くらいだった。
駅からは道路が放射線状に伸びて、住宅地へと続いている。千怜は左から三本目の坂道へと向かった。車道は車がすれ違うにはぎりぎりの幅しかなく、おのずと車が減速して走るようになっている。道の両脇は銀杏の並木になっていて、新緑の小さな葉が木々を覆っていた。紅葉の時期はさぞかし見事だろう。樹々を仰ぎながら歩いていると、頬に雨粒が当たった。
茜里に傘を持たせてよかった。朝はまだ太陽が顔を出していて、茜里は傘を持っていくのを嫌がったのだが、把手がアヒルの頭になっている子供用の傘など面接先に持っていくわけにはいかない。先方は履歴書で家族構成は知っているはずだが、職場で所帯の臭いはさせたくない。最後の最後になってようやく見つけたサロンなのだ。
口コミを参考にして店の目星をつけていったのだが、これという店が見つからず、あきらめかけていた時だった。最後はとうとう自分の切る髪がなくなって、茜里を連れて行くことになった。値段設定から、子供を連れて行くような店ではない、と分かってはいたが、仕方がない。茜里は長い髪が自慢だったから説得には苦労したが、いざ店に行ってみると、オーナーから小さなレディとして扱ってもらって大いに満足していた。
それにしても、立派な家が並んでいる。趣向をこらし威圧感がないよう工夫がされているが、どの家も敷地の中には容易に入れないようになっていて、入り口には防犯カメラとオートロックが必ず設置されていた。
緩い坂を上っていくと樹々に囲まれたこじんまりとした洋館が見えてくる。時代がかった洋館は遠くからでもかなり目立った。
洋館の庭に建てられているサンルームが千怜のめざしているカットサロンだ。この辺りの建物はかなり古い建物でも防犯設備を備えているのだが、田村の家はカットサロンになっているサンルームはもちろん、母屋にも、防犯カメラやオートロックの類は一切設置されていない。オーナーの田村はセキュリティには関心がないらしい。
千怜が呼び鈴を押すと、田村がドアを開けた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おはようございます。こちらこそ、よろしく」
美容に携わる者だけあって、田村の身だしなみには隙が無い。ベリーショートの頭は無香料のワックスで整えられ、念入りに手入れされた肌の上に整ったパーツが並んでいる。
田村はこの見た目だけでも十分に女性客を惹きつけるにちがいない。カラー、白髪染め、パーマ。女性の方が平均的に客単価が高い。固定客は女性が多いほうが有利なのだ。自分が男だったら、と思うのはこんな時だ。テクニックによほどの差がなければ、ほとんどの女性客は男性に髪を整えてもらう方を好む。それが美しい男性なら尚更だ。
千怜の目に最初に入ったのは、二つの練習用マネキンだった。
「準備ができたら、初めてください。着替えはバックヤードでどうぞ」
「面接は?」
「書類は拝見しましたから。少し休憩してから始めますか?」
「いいえ、大丈夫です」
田村が容貌を見ても、眉一つ動かさず、何も言わないのが気に入った。
大抵の男は千怜の容貌にばかり話が集中する。前にこの店に来たときは客としてだったから、気を遣っていたのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
サンルームの奥にはドアが二つ並んでいた。一つがトイレ、もう一つがバックヤードだ。
バックヤードは庭に面した大きな窓があって、窓辺には白い琺瑯びきの大きなシンクが備え付けられていた。作り付けの棚には藤籠が置かれ、部屋の隅に真新しい姿見が用意してあった。田村が気を利かせたらしい。千怜の口元に笑みが浮かんだ。手早く身支度を整えたら、戦闘開始だ。千怜はバックヤードのドアを開けた。
サロンの真ん中に、ライトで照らされたマネキンが並んでいる。千怜はそっと息を吐き、腹に力をいれた。
「では始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
「最初は女性、六十代くらい。ミドルボブのカットを」
「はい」
千怜が鋏を取り出すと、田村がほう、という顔をした。
この鋏は裕太の誕生日プレゼントだった。職人に特別に誂えてもらったもので、切れ味がいいのはもちろんだが、独特の刃の焼き入れが捉えた髪の毛を逃さない。裕太は華奢な手をしていたから、鋏は千怜の手にもしっくりと収まった。裕太はこの鋏を何度も使わないうちに病気になったのだ。
千怜はもう一度鋏をぎゅっと握り締めてから肩の力を抜き、気持ちを集中させた。
高齢になると頬の肉が弛み、眼窩がくぼんでくる。前髪は軽めにカットして顔に影がかからないようにする。サイドのボリュームは抑えつつ、程よい長さを保ってたるんだ頬が目立たないようにする。千怜が考案したミドルボブはチェーン店に通う女性たちにも好評だった。
鋏を置いた千怜は反射的に部屋の片隅に置かれている柱時計に目を遣った。カットの終了まで二十分。サロンにしてはカットにかける時間が短すぎる。うっかりしていた。ここは薄利多売のチェーン店とは違うのだ。
案の定、田村は驚いたような顔をしている。失敗したか、と思ったが、千怜は涼しい顔をして次の指示を待った。
「次は高校生。夏休みにちょっとヤンチャしちゃった、っていう感じの」
「女子高生ですか?」
「男子高校生。新学期だからカットに来た、って感じ?」
ここは男子高校生、ましてヤンチャをする高校生が来るようなカットサロンではない。ちらりと田村の顔を窺うと、唇の端にいたずらっぽい笑みを浮かべている。実力を隅なく知りたい、ということか。
「分かりました」
チェーン店ではそういう要望はしょっちゅうだった。新学期が近づくと、ピンクや緑に染まった鶏冠のような頭をした高校生がやってくる。そんな少年たちの顔がたちまち千怜の頭に浮かんだ。
襟足は短く。前髪は校則に違反しないぎりぎりの長さでシャギーをいれて野暮ったくならないようにする。
今度はいつもより時間をかけてカットをした。それでも終了まで二十七分だった。客と雑談をしてカットの速度を落としたらもう少し時間は伸びるだろうか。
「染め直す場合は、青か緑系のダークブラウンを勧めます」
明るい色は黄色、ピンク、オレンジといった暖色系が多い。補色を補って彩度を落とすのが目的だ。黒髪は黒い染料を使ったから黒くなるというわけではない。真っ黒な染料は逆に不自然なのだ。
少し離れて千怜のカットを見ていた田村は、マネキンに近づいてカットを子細にチェックすると、
「いいね」
といった。
「ありがとうございます」
「今日からシフト、入ってみますか?」
「はい! よろしくお願いします」
勇んで店に立ったが、客は田村指定の予約客ばかりだ。田村はそういう馴染みの客一人一人に千怜を紹介した。
「今度うちにきた吉野さん。技術は折り紙付きです。いかがですか、たまにはご気分を変えて吉野さんにカットをしてもらのは。今はお試しキャンペーンで半額でカットできますよ」
「まあ、素敵ね。またの機会にお願いするわ」
どの客も品のいい笑みをうかべて千怜のカットを断った。ここの客は、半額だから、といってカットに飛びつくような客層ではない。新規の客でもない限り、千怜にお呼びがかることはなさそうだった。
「色々なお客さんが来るから」
田村はそう言って慰めてくれたが、客の年齢層は概して高めで、どの客も私だけのサロン、といった顔つきで店に入ってくる。あのご婦人方がライバルにこの店を教えるはずもない。新規の客が来るのはいつのことやら、だった。客が渋るから、洗髪もさせてもらえない。切り終えた髪の毛を掃除したり、染色後のシンクの洗浄をしているうちに、閉店の時間が近づいてきた。
田村が最後の予約客のカットを始めた。カットをするチャンスはもうなさそうだった。先客の使ったケープを片付けていると、若い男が店に入って来た。
「店長、カット、お願いできる?」
「いいけど、しばらく待ってもらわないと」
染色、パーマ、カットとフルコースの客だ。田村は染色とパーマを終えて、洗髪をしたところだった。
「困るよ。これからデートなんだ」
「僕だって困るよ。急にそんなことを言われたって」
「昌伸君、田村さんを困らしたらダメよ」
濡れ頭の客が男をたしなめた。地縁か、血縁か。若い男と知り合いのようだ。
「こちらは今度うちに来てくれた吉野さん。テクニックは僕が保証するよ」
「じゃあ……、お願いします」
「こちらへどうぞ」
昌伸は仏頂面のまま、椅子に座った。デートがなければそのまま家に帰っていたに違いない。
「どのくらいお切りしますか」
「整える程度で。そうだなあ、一センチくらい?」
昌伸が投げやりに言った。前髪が重たすぎて鬱陶しい。一センチと言わずバッサリと切ってしまいたい。
「お顔の輪郭が綺麗ですから、もう少し軽めのヘアスタイルもお似合いですよ」
提案はしてみたが、昌伸は自分の希望を通すだろう。細い足に吸い付くようなジーンズをはき、ライダース風の革ジャンを羽織っている。髪型からするとバンドでもやっていそうだ。ファッションにはこだわりがあるに違いない。
「私もね、切ったほうがいいと思うわ。その前髪、お化けみたいよ。昌伸君、バッサリ切ってもらいなさい」
隣でカットを始めた客が田村の手を止めさせて昌伸の方に首をのばした。
客同士が顔見知りなのだ。田村もこの家で育ったらしい。これからは顔見知りだらけの中で、たった一人、他所者としてやっていかないとなのだ。条件のいい職場なのに、スタッフが長続きしない理由が何となく分かった。
「鬱陶しい。そんな髪、お母さんは何もいわないの?」
「ええと……」
「私なら、娘がそんな髪型のボーイフレンドを連れてきたら即、交際をお断りするわ」
決定打となったようだ。昌伸は意を決したように顔をあげた。
「お任せします」
「よろしいのですか」
「はい」
そういうと、昌伸は口を引き結んだ。
「いかがですか」
カットをしていくうちに昌伸の顔が驚きに変わっていった。ザマアミロ。千怜は緩みそうになる口元を慌ててひきしめた。
「こうやって、ワックスをつけると違った雰囲気になりますよ」
切ったばかりの髪のワックスをつけると、優等生風の髪型が、たちまち尖った髪型になった。
「すげえ! ありがとう! ええと、」
「吉野、と申します」
「吉野さん。次回もよろしく!」
「あれ、昌伸君、僕をふるのかい?」
田村が冗談めかして言うと、
「うん!」
と昌伸は悪びれることなく言い、千怜に大きく手を振りながら店を出て行った。
「初めてのお客さんに新しいヘアスタイルを提案するなんて。吉野さんは大胆だね」
「あの方の輪郭はボリュームの少ない髪型のほうが似合うと思ったので。それに……、ショートカットにしたほうが、お店にいらっしゃるまでの期間が短くなりますから」
似合っていれば客はその髪型を保ちたい、と思うものだ。ベリーショートなら整った輪郭を保てるのは二週間、客がなんとか我慢してもせいぜい三週間だ。
「なるほど! そういわれればそうだな。気がつかなかった」
自分もベリーショートなのに気が付かなかった、は、ないだろう。物件所有者の経営は呑気なものだ。千怜は呆れたが、おかげで従業員も厚遇されているのだ。偉そうなことは言えない。
「ちょっと一服してから帰りませんか? もう人は来ないだろうし」
ギャルソンエプロンを外しながら田村が言った。閉店時間までまだ少しあるが、予約客はもういない。帳のおりてきた住宅街をわざわざ探索する者もいないだろう。
「ありがとうございます。娘を迎えに行ってやりたいので。すみません」
「そうだった。うっかりしてたよ。あ、靴、もっと楽なのでいいよ。こんな感じ?」
田村はズボンのすそをちょっと上げて自分の靴をみせた。
「ありがとうございます。そうさせていただきます。失礼します」
「また明日!」
また明日。明日からこのサロンに勤めることができるのだ。
いつの間にか雨がやんで、街灯に照らされたアスファルトが鈍く光っていた。
駅前広場のブーランジェリーは、ナントカ賞をとったパティシエが開いた店だそうで、田村が言うには、いつ行っても客の長い行列が出来ているそうだ。
「開店の日、僕も並んで買ったんだ。オレンジタルトとトマトスフレが絶品だよ」
わざわざ並んで菓子パンを買う田村の気が知れないが、土産にしたら茜里が喜ぶに違いない。
店は閉店間際で、棚はほとんどからになっていたが、ショーケースの中にオレンジタルトが三つと、ブラックベリーのタルトが一つ、残っていた。う、っとなる値段だったが、一つしか買わないのでは恰好が悪い。
「それ、全部お願いします」、と言うのはいい気持ちだった。
「各駅停車をご利用のお客様は次の停車駅でお乗り換えください」
アナウンスで目を覚まし、あわてて電車をおりた。このまま急行に乗っていたら、沿線ぐるり旅になるところだった。無事に電車を乗り換えて一息つくと、手に持ったブーランジェリーの紙袋から甘い香りが漂ってきた。
今日は駅から小学校へと続く長い上り坂が全く苦にならなかった。走るようにして体育館に迎えに行くと、茜里もランドセルをカチャカチャいわせながら駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。どうだった?」
裕太とそっくりの目が自分を見上げている。裕太が茜里と一緒に答えを待っているかのようだった。
「ばっちりよ」
そういうと、茜里が抱きついてきた。
「さすがね! お母さん、おめでとう!」
「ありがとう」
「あ、それなに?」
横文字の書かれた上質紙の紙バックを茜里が目ざとく見つけた。
「茜里にお土産」
「わーい! 今日はお祝いね!」
「ええ!」
いつものように茜里を抱き上げた。汗と埃と日向の匂いがする。
茜里はいつの間にか、幼児のふにゃふにゃとした身体から持ち重りのする身体になっていた。背も随分伸びた。抱っこはそろそろ卒業なのだろう。
「うん、分かった。面接、頑張って!」
いつの間にか、茜里は、寂しいとか、早く帰ってきて、と言わなくなった。
「おう、任せとけ! さ、行ってらっしゃい」
母たるもの、そう応えるしかない。
「行ってきます!」
カンカンカン、と勢いよく階段を下りる音がした。茜里は、学校生活にもすんなり馴染み、毎日を謳歌している。茜里のことは今のところ心配はいらない。あとはこの就職がうまくいけば万々歳なのだ。
老若男女、様々な人々の髪を切ってきた。手ごろな価格でカットのできるチェーン店だから、客の性別年齢はばらばらだった。馴染みの客もできて、かなりの数のカットを手掛けてきた。テクニックにはそれなりの自負もある。客層の違う店でも指名を受けるようになるまで時間はかからない、はずだ。
人を美しくする側のドレスコードは難しい。テクニックを駆使していかにも整えました、というのは不自然だし、ノーメークなどもってのほかだ。この仕事は、客をたててなんぼなのだ。千怜はいつものように眉を整え、薄いピンクベージュのリップクリームを塗った。髪はかなり短いから、手の加えようがない。香りのないムースで整えることにした。
髪が短いのは勤めるカットサロンを選ぶとき、最初は客として店の偵察に行ったからだった。なかなかこれ、といった店が見つからず、ショートカットになってしまったのだ。
準備を整えた千怜は、よしっと気合を入れ、玄関のカギを閉めた。
目指すカットサロンは同じ沿線上の高級住宅地の一角にあった。田園調布の駅前は、およそ生活臭のない店ばかりが並んでいる。廉価な価格帯のスーパーマーケットや、昔ながらの魚屋や八百屋が軒を連ねる千怜の住む町とはかなり雰囲気が違う。
駅前の広場はヨーロッパを模した石畳の円形広場になっていて、広場を囲むように洋菓子店やブティックが並んでいる。駅ビルも古いヨーロッパの建物を模した建物で、ティーラウンジやブティック、雑貨店、玩具店、書店がテナントとして入っていた。どの店の商品も、目玉の飛び出るような値段がついていて、千怜が財布を気にせずに入れる店は本屋くらいだった。
駅からは道路が放射線状に伸びて、住宅地へと続いている。千怜は左から三本目の坂道へと向かった。車道は車がすれ違うにはぎりぎりの幅しかなく、おのずと車が減速して走るようになっている。道の両脇は銀杏の並木になっていて、新緑の小さな葉が木々を覆っていた。紅葉の時期はさぞかし見事だろう。樹々を仰ぎながら歩いていると、頬に雨粒が当たった。
茜里に傘を持たせてよかった。朝はまだ太陽が顔を出していて、茜里は傘を持っていくのを嫌がったのだが、把手がアヒルの頭になっている子供用の傘など面接先に持っていくわけにはいかない。先方は履歴書で家族構成は知っているはずだが、職場で所帯の臭いはさせたくない。最後の最後になってようやく見つけたサロンなのだ。
口コミを参考にして店の目星をつけていったのだが、これという店が見つからず、あきらめかけていた時だった。最後はとうとう自分の切る髪がなくなって、茜里を連れて行くことになった。値段設定から、子供を連れて行くような店ではない、と分かってはいたが、仕方がない。茜里は長い髪が自慢だったから説得には苦労したが、いざ店に行ってみると、オーナーから小さなレディとして扱ってもらって大いに満足していた。
それにしても、立派な家が並んでいる。趣向をこらし威圧感がないよう工夫がされているが、どの家も敷地の中には容易に入れないようになっていて、入り口には防犯カメラとオートロックが必ず設置されていた。
緩い坂を上っていくと樹々に囲まれたこじんまりとした洋館が見えてくる。時代がかった洋館は遠くからでもかなり目立った。
洋館の庭に建てられているサンルームが千怜のめざしているカットサロンだ。この辺りの建物はかなり古い建物でも防犯設備を備えているのだが、田村の家はカットサロンになっているサンルームはもちろん、母屋にも、防犯カメラやオートロックの類は一切設置されていない。オーナーの田村はセキュリティには関心がないらしい。
千怜が呼び鈴を押すと、田村がドアを開けた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おはようございます。こちらこそ、よろしく」
美容に携わる者だけあって、田村の身だしなみには隙が無い。ベリーショートの頭は無香料のワックスで整えられ、念入りに手入れされた肌の上に整ったパーツが並んでいる。
田村はこの見た目だけでも十分に女性客を惹きつけるにちがいない。カラー、白髪染め、パーマ。女性の方が平均的に客単価が高い。固定客は女性が多いほうが有利なのだ。自分が男だったら、と思うのはこんな時だ。テクニックによほどの差がなければ、ほとんどの女性客は男性に髪を整えてもらう方を好む。それが美しい男性なら尚更だ。
千怜の目に最初に入ったのは、二つの練習用マネキンだった。
「準備ができたら、初めてください。着替えはバックヤードでどうぞ」
「面接は?」
「書類は拝見しましたから。少し休憩してから始めますか?」
「いいえ、大丈夫です」
田村が容貌を見ても、眉一つ動かさず、何も言わないのが気に入った。
大抵の男は千怜の容貌にばかり話が集中する。前にこの店に来たときは客としてだったから、気を遣っていたのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
サンルームの奥にはドアが二つ並んでいた。一つがトイレ、もう一つがバックヤードだ。
バックヤードは庭に面した大きな窓があって、窓辺には白い琺瑯びきの大きなシンクが備え付けられていた。作り付けの棚には藤籠が置かれ、部屋の隅に真新しい姿見が用意してあった。田村が気を利かせたらしい。千怜の口元に笑みが浮かんだ。手早く身支度を整えたら、戦闘開始だ。千怜はバックヤードのドアを開けた。
サロンの真ん中に、ライトで照らされたマネキンが並んでいる。千怜はそっと息を吐き、腹に力をいれた。
「では始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
「最初は女性、六十代くらい。ミドルボブのカットを」
「はい」
千怜が鋏を取り出すと、田村がほう、という顔をした。
この鋏は裕太の誕生日プレゼントだった。職人に特別に誂えてもらったもので、切れ味がいいのはもちろんだが、独特の刃の焼き入れが捉えた髪の毛を逃さない。裕太は華奢な手をしていたから、鋏は千怜の手にもしっくりと収まった。裕太はこの鋏を何度も使わないうちに病気になったのだ。
千怜はもう一度鋏をぎゅっと握り締めてから肩の力を抜き、気持ちを集中させた。
高齢になると頬の肉が弛み、眼窩がくぼんでくる。前髪は軽めにカットして顔に影がかからないようにする。サイドのボリュームは抑えつつ、程よい長さを保ってたるんだ頬が目立たないようにする。千怜が考案したミドルボブはチェーン店に通う女性たちにも好評だった。
鋏を置いた千怜は反射的に部屋の片隅に置かれている柱時計に目を遣った。カットの終了まで二十分。サロンにしてはカットにかける時間が短すぎる。うっかりしていた。ここは薄利多売のチェーン店とは違うのだ。
案の定、田村は驚いたような顔をしている。失敗したか、と思ったが、千怜は涼しい顔をして次の指示を待った。
「次は高校生。夏休みにちょっとヤンチャしちゃった、っていう感じの」
「女子高生ですか?」
「男子高校生。新学期だからカットに来た、って感じ?」
ここは男子高校生、ましてヤンチャをする高校生が来るようなカットサロンではない。ちらりと田村の顔を窺うと、唇の端にいたずらっぽい笑みを浮かべている。実力を隅なく知りたい、ということか。
「分かりました」
チェーン店ではそういう要望はしょっちゅうだった。新学期が近づくと、ピンクや緑に染まった鶏冠のような頭をした高校生がやってくる。そんな少年たちの顔がたちまち千怜の頭に浮かんだ。
襟足は短く。前髪は校則に違反しないぎりぎりの長さでシャギーをいれて野暮ったくならないようにする。
今度はいつもより時間をかけてカットをした。それでも終了まで二十七分だった。客と雑談をしてカットの速度を落としたらもう少し時間は伸びるだろうか。
「染め直す場合は、青か緑系のダークブラウンを勧めます」
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少し離れて千怜のカットを見ていた田村は、マネキンに近づいてカットを子細にチェックすると、
「いいね」
といった。
「ありがとうございます」
「今日からシフト、入ってみますか?」
「はい! よろしくお願いします」
勇んで店に立ったが、客は田村指定の予約客ばかりだ。田村はそういう馴染みの客一人一人に千怜を紹介した。
「今度うちにきた吉野さん。技術は折り紙付きです。いかがですか、たまにはご気分を変えて吉野さんにカットをしてもらのは。今はお試しキャンペーンで半額でカットできますよ」
「まあ、素敵ね。またの機会にお願いするわ」
どの客も品のいい笑みをうかべて千怜のカットを断った。ここの客は、半額だから、といってカットに飛びつくような客層ではない。新規の客でもない限り、千怜にお呼びがかることはなさそうだった。
「色々なお客さんが来るから」
田村はそう言って慰めてくれたが、客の年齢層は概して高めで、どの客も私だけのサロン、といった顔つきで店に入ってくる。あのご婦人方がライバルにこの店を教えるはずもない。新規の客が来るのはいつのことやら、だった。客が渋るから、洗髪もさせてもらえない。切り終えた髪の毛を掃除したり、染色後のシンクの洗浄をしているうちに、閉店の時間が近づいてきた。
田村が最後の予約客のカットを始めた。カットをするチャンスはもうなさそうだった。先客の使ったケープを片付けていると、若い男が店に入って来た。
「店長、カット、お願いできる?」
「いいけど、しばらく待ってもらわないと」
染色、パーマ、カットとフルコースの客だ。田村は染色とパーマを終えて、洗髪をしたところだった。
「困るよ。これからデートなんだ」
「僕だって困るよ。急にそんなことを言われたって」
「昌伸君、田村さんを困らしたらダメよ」
濡れ頭の客が男をたしなめた。地縁か、血縁か。若い男と知り合いのようだ。
「こちらは今度うちに来てくれた吉野さん。テクニックは僕が保証するよ」
「じゃあ……、お願いします」
「こちらへどうぞ」
昌伸は仏頂面のまま、椅子に座った。デートがなければそのまま家に帰っていたに違いない。
「どのくらいお切りしますか」
「整える程度で。そうだなあ、一センチくらい?」
昌伸が投げやりに言った。前髪が重たすぎて鬱陶しい。一センチと言わずバッサリと切ってしまいたい。
「お顔の輪郭が綺麗ですから、もう少し軽めのヘアスタイルもお似合いですよ」
提案はしてみたが、昌伸は自分の希望を通すだろう。細い足に吸い付くようなジーンズをはき、ライダース風の革ジャンを羽織っている。髪型からするとバンドでもやっていそうだ。ファッションにはこだわりがあるに違いない。
「私もね、切ったほうがいいと思うわ。その前髪、お化けみたいよ。昌伸君、バッサリ切ってもらいなさい」
隣でカットを始めた客が田村の手を止めさせて昌伸の方に首をのばした。
客同士が顔見知りなのだ。田村もこの家で育ったらしい。これからは顔見知りだらけの中で、たった一人、他所者としてやっていかないとなのだ。条件のいい職場なのに、スタッフが長続きしない理由が何となく分かった。
「鬱陶しい。そんな髪、お母さんは何もいわないの?」
「ええと……」
「私なら、娘がそんな髪型のボーイフレンドを連れてきたら即、交際をお断りするわ」
決定打となったようだ。昌伸は意を決したように顔をあげた。
「お任せします」
「よろしいのですか」
「はい」
そういうと、昌伸は口を引き結んだ。
「いかがですか」
カットをしていくうちに昌伸の顔が驚きに変わっていった。ザマアミロ。千怜は緩みそうになる口元を慌ててひきしめた。
「こうやって、ワックスをつけると違った雰囲気になりますよ」
切ったばかりの髪のワックスをつけると、優等生風の髪型が、たちまち尖った髪型になった。
「すげえ! ありがとう! ええと、」
「吉野、と申します」
「吉野さん。次回もよろしく!」
「あれ、昌伸君、僕をふるのかい?」
田村が冗談めかして言うと、
「うん!」
と昌伸は悪びれることなく言い、千怜に大きく手を振りながら店を出て行った。
「初めてのお客さんに新しいヘアスタイルを提案するなんて。吉野さんは大胆だね」
「あの方の輪郭はボリュームの少ない髪型のほうが似合うと思ったので。それに……、ショートカットにしたほうが、お店にいらっしゃるまでの期間が短くなりますから」
似合っていれば客はその髪型を保ちたい、と思うものだ。ベリーショートなら整った輪郭を保てるのは二週間、客がなんとか我慢してもせいぜい三週間だ。
「なるほど! そういわれればそうだな。気がつかなかった」
自分もベリーショートなのに気が付かなかった、は、ないだろう。物件所有者の経営は呑気なものだ。千怜は呆れたが、おかげで従業員も厚遇されているのだ。偉そうなことは言えない。
「ちょっと一服してから帰りませんか? もう人は来ないだろうし」
ギャルソンエプロンを外しながら田村が言った。閉店時間までまだ少しあるが、予約客はもういない。帳のおりてきた住宅街をわざわざ探索する者もいないだろう。
「ありがとうございます。娘を迎えに行ってやりたいので。すみません」
「そうだった。うっかりしてたよ。あ、靴、もっと楽なのでいいよ。こんな感じ?」
田村はズボンのすそをちょっと上げて自分の靴をみせた。
「ありがとうございます。そうさせていただきます。失礼します」
「また明日!」
また明日。明日からこのサロンに勤めることができるのだ。
いつの間にか雨がやんで、街灯に照らされたアスファルトが鈍く光っていた。
駅前広場のブーランジェリーは、ナントカ賞をとったパティシエが開いた店だそうで、田村が言うには、いつ行っても客の長い行列が出来ているそうだ。
「開店の日、僕も並んで買ったんだ。オレンジタルトとトマトスフレが絶品だよ」
わざわざ並んで菓子パンを買う田村の気が知れないが、土産にしたら茜里が喜ぶに違いない。
店は閉店間際で、棚はほとんどからになっていたが、ショーケースの中にオレンジタルトが三つと、ブラックベリーのタルトが一つ、残っていた。う、っとなる値段だったが、一つしか買わないのでは恰好が悪い。
「それ、全部お願いします」、と言うのはいい気持ちだった。
「各駅停車をご利用のお客様は次の停車駅でお乗り換えください」
アナウンスで目を覚まし、あわてて電車をおりた。このまま急行に乗っていたら、沿線ぐるり旅になるところだった。無事に電車を乗り換えて一息つくと、手に持ったブーランジェリーの紙袋から甘い香りが漂ってきた。
今日は駅から小学校へと続く長い上り坂が全く苦にならなかった。走るようにして体育館に迎えに行くと、茜里もランドセルをカチャカチャいわせながら駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。どうだった?」
裕太とそっくりの目が自分を見上げている。裕太が茜里と一緒に答えを待っているかのようだった。
「ばっちりよ」
そういうと、茜里が抱きついてきた。
「さすがね! お母さん、おめでとう!」
「ありがとう」
「あ、それなに?」
横文字の書かれた上質紙の紙バックを茜里が目ざとく見つけた。
「茜里にお土産」
「わーい! 今日はお祝いね!」
「ええ!」
いつものように茜里を抱き上げた。汗と埃と日向の匂いがする。
茜里はいつの間にか、幼児のふにゃふにゃとした身体から持ち重りのする身体になっていた。背も随分伸びた。抱っこはそろそろ卒業なのだろう。
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ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。
寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない!
スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
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◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
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・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
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その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
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