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海が見えた
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せっかくだから上がって休んで行ってもらいなさいと祖母に薦められ、風花は孝太とミオを部屋に通した。
「だいたいさあ、孝太も後ろにいたんなら、声かけるでしょうよ、普通。ストーカーじゃないんだからさあ。ははあん、坂の下からうちらのスカートの中を覗こうとしてたんでしょ」
さっきからもっぱらの話題は、孝太がいつの間にか二人の後ろをついて来ていたことだ。
「風花ちゃんとミオが楽しそうに話をしてたからな。邪魔しちゃ悪いだろ」
と言いながら、孝太は立ち上がって窓から外を眺めている。
「ん? 風花ちゃん、だと? ちょっと孝太、いつの間にちゃんづけで呼ぶほど風花と仲よくなったのよ」
じっとりとミオに問い詰められるが、孝太はどこ吹く風で、
「うっわ、すっげえ景色」
と叫んだ。
「なになに」
ミオがすぐに孝太の言葉に反応して窓際に立ち上がり、
「わあ、本当だ。尾道水道の絶景ポイント発見って感じ!」
と、孝太と肩を並べて景色を見ていた。
確かに風花の祖母の家から眺める尾道の景色は絶景だ。本土と向島《むかいしま》に挟まれた、海というより、まるで大河のような尾道水道に太陽の光が反射してキラキラと輝いている。
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」
窓から外へ向かい、少し芝居がかった口調でミオが口ずさんだ。
「文学のこみちにあった詩だよね」
風花が聞くと、ミオがゆっくりと頷いた。
「うん。林芙美子先生の放浪記」
ミオは再び海に向かって続きを朗読する。
汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。
風花はそれを黙って聞きながら、東京での雑音から逃げるように尾道を訪ねた去年の暮れの頃を思い出していた。
「ちょっと散歩しようか」
去年、冬休みを利用して風花は祖母の家を訪ねはしたが、あまり他人に会いたくなくて、数日は家に引きこもっていた。そんなある日の午後、祖母が二人で散歩をしようという。
いくら温暖な瀬戸内地方とはいえ、真冬はやはり寒い。顔に当たる冷たい風をマフラーで隠すように、急な坂道を祖母と横に並んで白い息だけを見つめながら、山肌を上へ上へと歩いた。
どれくらい歩いただろう。祖母が「着いた」とだけ言った。大きな岩に囲まれたような、お寺のような場所。千光寺と書いてある。そこから更に岩とお寺の隙間をすり抜けて細い山道を登って行くと、大きな石に文字が彫られている場所に辿り着いた。そこから尾道水道が眺望できる。
「普通はここまでロープウェイか車で登るんだけどね」
でも、たまに歩いて登りたくなるんだよね——
祖母がぽつりとつぶやいた。
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海は懐かしい」
ゆっくりと噛み締めるように、祖母が石碑の文字を読み上げた。
風花が尾道に来たのは、たぶん生まれて初めてのはずだ。それなのに、石碑の向こうに見える尾道水道の風景がその詩とともにスッと胸に沁み入ってきて、なぜだか涙が溢れてきて、やがて止まらなくなった。
祖母は何も言わず背中を撫でる。やがて涙がおさまるのを待って、また二人で坂道を下って帰った。ゆっくり、ゆっくり眼下に光る尾道水道を眺めながら、風花は突然、尾道で暮らしてみたいと思った。
本当に思いつきだということはわかっている。でも、胸の中に湧き上がった衝動を風花は抑えることができない。
「おばあちゃん、私こっちの高校を受けてもいい?」
思い切ってそう聞くと、祖母はにっこりと笑い深く頷いた。
祖母が出してくれた山盛りの苺を、三人で食べた。尾道の近くで採れた苺だという。
「うめえ」
孝太がたった一言つぶやき、ミオが本当に美味しそうに食べた。
きっとこの二人とは、絶対にいい友達になれると風花は思った。
「かるた部のことは、本当に無理しなくていいからね」
帰り際、ミオは明るく言う。彼女なりに気を遣ってくれている。
風花は「うん」とだけ返事をした。実はミオにはあえて言わなかったが、風花の気持ちはすでに固まっていたのだ。
「ねえ、おばあちゃん。百人一首って知ってる? 競技かるたっていうの」
晩御飯を食べながら祖母に聞く。
「あら、これでも昔は強かったのよ」
祖母が力こぶを作るように、右腕を曲げて見せた。
「えっ、おばあちゃんやってたの?」
「まかせなさい。近所の中学校でも教えてたんだから」
食事中だったが、祖母はそう言うとそそくさと椅子から立ち、隣の部屋に行くと、やがてかるた部で見たものと同じような箱を持って帰ってきた。
特訓ね。祖母はとても嬉しそうな顔でそう言った。
「だいたいさあ、孝太も後ろにいたんなら、声かけるでしょうよ、普通。ストーカーじゃないんだからさあ。ははあん、坂の下からうちらのスカートの中を覗こうとしてたんでしょ」
さっきからもっぱらの話題は、孝太がいつの間にか二人の後ろをついて来ていたことだ。
「風花ちゃんとミオが楽しそうに話をしてたからな。邪魔しちゃ悪いだろ」
と言いながら、孝太は立ち上がって窓から外を眺めている。
「ん? 風花ちゃん、だと? ちょっと孝太、いつの間にちゃんづけで呼ぶほど風花と仲よくなったのよ」
じっとりとミオに問い詰められるが、孝太はどこ吹く風で、
「うっわ、すっげえ景色」
と叫んだ。
「なになに」
ミオがすぐに孝太の言葉に反応して窓際に立ち上がり、
「わあ、本当だ。尾道水道の絶景ポイント発見って感じ!」
と、孝太と肩を並べて景色を見ていた。
確かに風花の祖母の家から眺める尾道の景色は絶景だ。本土と向島《むかいしま》に挟まれた、海というより、まるで大河のような尾道水道に太陽の光が反射してキラキラと輝いている。
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」
窓から外へ向かい、少し芝居がかった口調でミオが口ずさんだ。
「文学のこみちにあった詩だよね」
風花が聞くと、ミオがゆっくりと頷いた。
「うん。林芙美子先生の放浪記」
ミオは再び海に向かって続きを朗読する。
汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。
風花はそれを黙って聞きながら、東京での雑音から逃げるように尾道を訪ねた去年の暮れの頃を思い出していた。
「ちょっと散歩しようか」
去年、冬休みを利用して風花は祖母の家を訪ねはしたが、あまり他人に会いたくなくて、数日は家に引きこもっていた。そんなある日の午後、祖母が二人で散歩をしようという。
いくら温暖な瀬戸内地方とはいえ、真冬はやはり寒い。顔に当たる冷たい風をマフラーで隠すように、急な坂道を祖母と横に並んで白い息だけを見つめながら、山肌を上へ上へと歩いた。
どれくらい歩いただろう。祖母が「着いた」とだけ言った。大きな岩に囲まれたような、お寺のような場所。千光寺と書いてある。そこから更に岩とお寺の隙間をすり抜けて細い山道を登って行くと、大きな石に文字が彫られている場所に辿り着いた。そこから尾道水道が眺望できる。
「普通はここまでロープウェイか車で登るんだけどね」
でも、たまに歩いて登りたくなるんだよね——
祖母がぽつりとつぶやいた。
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海は懐かしい」
ゆっくりと噛み締めるように、祖母が石碑の文字を読み上げた。
風花が尾道に来たのは、たぶん生まれて初めてのはずだ。それなのに、石碑の向こうに見える尾道水道の風景がその詩とともにスッと胸に沁み入ってきて、なぜだか涙が溢れてきて、やがて止まらなくなった。
祖母は何も言わず背中を撫でる。やがて涙がおさまるのを待って、また二人で坂道を下って帰った。ゆっくり、ゆっくり眼下に光る尾道水道を眺めながら、風花は突然、尾道で暮らしてみたいと思った。
本当に思いつきだということはわかっている。でも、胸の中に湧き上がった衝動を風花は抑えることができない。
「おばあちゃん、私こっちの高校を受けてもいい?」
思い切ってそう聞くと、祖母はにっこりと笑い深く頷いた。
祖母が出してくれた山盛りの苺を、三人で食べた。尾道の近くで採れた苺だという。
「うめえ」
孝太がたった一言つぶやき、ミオが本当に美味しそうに食べた。
きっとこの二人とは、絶対にいい友達になれると風花は思った。
「かるた部のことは、本当に無理しなくていいからね」
帰り際、ミオは明るく言う。彼女なりに気を遣ってくれている。
風花は「うん」とだけ返事をした。実はミオにはあえて言わなかったが、風花の気持ちはすでに固まっていたのだ。
「ねえ、おばあちゃん。百人一首って知ってる? 競技かるたっていうの」
晩御飯を食べながら祖母に聞く。
「あら、これでも昔は強かったのよ」
祖母が力こぶを作るように、右腕を曲げて見せた。
「えっ、おばあちゃんやってたの?」
「まかせなさい。近所の中学校でも教えてたんだから」
食事中だったが、祖母はそう言うとそそくさと椅子から立ち、隣の部屋に行くと、やがてかるた部で見たものと同じような箱を持って帰ってきた。
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