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第六章 匈奴襲来

第三十三話

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 始建国しけんこく二年(西暦十年)の春、右屠耆うしょき王を団長、右骨都うこつと侯を副団長とする匈奴フンヌ単于ぜんう国の外交使節団が、大新だいしん帝国と匈奴単于国の国境線である万里の長城――二百年以上前に大秦だいしん帝国が築いた総延長一万里(約四千キロメートル)の壁を越え、大新帝国へ入国した。護衛と監視を兼ねたしん軍の騎兵隊に前後左右を囲まれ、匈奴の使節団は帝都常安じょうあんへの道を騎行した。道中、輿が辺りの風景に目を凝らし、いざという時に備えて帝都までの地形を記憶しようと努めていると、輿の後ろを進んでいた須卜当しゅぼくとうが、通訳として使節団に同行していた盧芳ろほうに訊ねた。

うんも、この道を進んだのか?」

「だろうな。かんも新も、長城から帝都までの地理を、匈奴に詳しく知られたくはないはずだ。須卜居次しゅぼくきょじが通らされた道と同じ道を、おれたちも通らされているだろうよ。途中に城塞が幾つも建てられている、攻め進みにくい道をな」

「そうか」

「須卜居次の母も、この道を北上して匈奴に来たはずだ。須卜居次の母は夷陵いりょう……あー、つまり、帝国の南の方の生まれで、この辺りの地理をよく知らない。居次の母が単于の嫁に選ばれたのは、それも理由だろうな」

「用心深いことだ」

 戦国の七王国の時代に強行された乱開発と、それが原因で起きた塩害のせいで緑が乏しい関中かんちゅうの田野を、匈奴単于国の外交使節団は進んだ。数十日の旅を経て、大新帝国の帝都に到着した。皇帝の従弟であり、帝国の大司空だいしくう、すなわち監察長官である王邑おうゆうが、城門の前で輿を迎えた。王邑の馬車と馬を並べて、輿は帝都常安の大路を進んだ。王邑が陽射しに目を細めながら、通訳を介して云のことを輿に話した。云が太皇太后に可愛がられ、皇帝の長女である黄皇室主こうおうしつしゅ――かつて王氏一門が擁立した幼帝に嫁した女性とも、親しくしていることを話した。

「須卜居次には感謝しています。太皇太后と黄皇室主は、漢室に嫁がれた人ですから、漢室が廃された後は気が塞ぎ、自らを世間から遠ざけるようになられた。須卜居次は、太皇太后と黄皇室主が心を開かれている数少ない人であり、何も出来ない我らに代わり、お二人を慰めてくれています。本当に、ありがたいことです」

 匈奴単于国の外交使節団は、帝都の高級邸宅を宿所として提供された。使節団を宿所へ案内した王邑は、一人の武官を輿に紹介した。

「彼は竇融とうゆう。この邸の警備を担当します。何か不足があれば、彼に申しつけてください」

 王邑に紹介された男、竇融は輿に一礼した。

 数日、匈奴単于国の外交使節団は皇帝への拝謁を待たされた。待たされている間、王邑から饗応を受けた。寒気に耐えて花を咲かせた梅の園に連れて行かれ、酒で体を温めながら梅見をした。王邑は梅の美を讃える詩を詠み、大新帝国産の馬乳酒を輿に勧めた。帝都の上層民の間で馬乳酒が流行していることを話した。よく喋り、よく飲食し、警護の兵士たちにも馬乳酒を振る舞い、酒精で体を温めさせた。輿が見ている前で二度、衣服の裾を踏んで転びかけた。最後は酒を飲みすぎて泥酔し、竇融に背負われた。呂律が回らない舌で、こいつは本当に好い男なんですよ、と竇融を褒めた。

 帝都に到着してから七日が経ち、ようやく匈奴単于国の使節団は拝謁を許された。儀仗兵が左右に立ち並んだ場所を歩かされ、玉座から遠い場所で跪かされた。意味がわからない言葉を大声で言わされた。それが皇帝の長寿を願う言葉であることを、輿は後で盧芳から教えられた。

 皇帝へ宛てた単于の書簡と、匈奴単于国が大新帝国へ贈る牛馬の目録が、使節団から大新帝国側へ渡された。玉座の前まで運ばれてきた書簡を見た皇帝は、小声で側近に何事か伝えた。側近は頷き、匈奴の使節団の方へ体を向き直らせた。胸を僅かに反らし、大声で言葉らしきものを口にした。盧芳が皇帝の側近の言葉を匈奴単于国の公用語に訳した。

「書簡の封泥ふうでいに単于の印が押されていないが、これは本当に単于の書簡なのか、と訊ねている」

「あんなもの――」

 輿は立ち上がり、玉座の方を睨みつけた。左右に立ち並んでいた儀仗兵が、一斉に輿へ戟を突きつけた。輿は戟に怯むことなく玉座へ吼えた。

「――単于が使えるわけがない。匈奴単于国は新帝国の属国ではないし、単于と皇帝は君臣ではなく兄弟だ。金印の文字をもとに戻せ」

 座れ、と盧芳が輿の腕を引いた。使節団全員の命を危険に晒す気か、と輿の腕を下へ強く引いた。輿の後ろで床に膝をついていた須卜当が、右屠耆王、と輿を官職で呼び、こんな場所で匈奴の戦士を死なせるな、と抑えた声で諫めた。ぎ、と輿は奥歯を強く噛んだ。横を向き、どかりと床に胡坐で座した。おいおい、と盧芳が嘆くように頭上の朱い梁を仰いだ。皇帝の側近たちが眦を上げ、無礼であろう、と輿を非難した。輿を跪かせるよう、儀仗兵に命じようとした。

 待て、と皇帝の手が側近たちを制した。

 皇帝の体が玉座の上で蠢いた。高い冠が微かに揺れ、膨らんだ衣服が衣擦れの音を立てた。遊牧民である輿の目には、大きく威圧的な、それでいて馬にも槖駝ラクダにも乗れそうにない皇帝の姿は、酷く醜い怪物のように見えた。皇帝の肉体が玉座から立ち上がり、皇帝の赤い重瞳ちょうどうが匈奴人たちを映した。

 老いた狼に似た声が、皇帝の口から発せられた。輿は一瞬、ぎょ、と目を剥いた。反射的に手が武器を探した。手を戻しながら、何て声だ、と半面を顰めた。狼に似た声は長い時間、人語らしきものを広間に響かせた。輿は肩越しに盧芳を顧みた。

「おい、皇帝は何と言っている」

「ちょっと待て。よくわからない言葉が多すぎる」

「おまえは漢人だろうが」

「同じ漢人でも、住んでいる場所とか、身分の上下とかで、使う言葉が違うんだよ」

 皇帝が話し終えた。皇帝の側近が謁見の終了を告げた。匈奴単于国の使節団は宿所へ戻された。戻される途中、盧芳が前を歩く輿に耳打ちした。

「何だか難しい言葉を並べていたが、皇帝はどうやら、単于の要求を容れるつもりはないようだ」

「そうか。そんな気はしていた」

 翌日、匈奴単于国の外交使節団は帰国の途に就いた。単于への親書を携えた新帝国の外交官が、匈奴の使節団に同行した。来た時と同様、周りを新軍の騎兵隊に囲まれて使節団は道を進んだ。前を向いて馬を進める須卜当に、帝都の城壁を振り返りながら盧芳が馬を寄せた。

「本当に、須卜居次に会わなくていいのか?」

「同じことを何度も言わせるな」

 云には会わない。外交使節団の副団長に任命された時から、須卜当はそう決めていた。帝都で八年以上も暮らし、それなりに帝国の内情に詳しいであろう云と接触すれば、帝国に怪しまれ、警戒されるかも知れない。そうなれば、烏珠留単于が新帝国と戦うことを決意した時、国境の新軍を奇襲することが難しくなる。

「おれが云にしてやれることは、仇を取ることだけだ」

「本当に、悔いはないんだな?」

「あるはずがない」

「右屠耆王」

 前を進む輿へ、盧芳は呼びかけた。

「あんたはどうなんだ?」

「云は死んだ。もういない」

「あの子は生きている」

「取り戻せないのなら、死んだも同然だ」

「どいつもこいつも」

 盧芳は空を仰いだ。これだから匈奴の誇り高い戦士というやつは、と口の中で罵りながら、再び帝都常安の城壁を振り返り、少しの間、遠ざかる城壁を眺めた。か、か、か、と馬蹄の音を響かせながら、匈奴の使節団は帝都から離れた。使節団が行く道の左右の畠では、煉瓦のように硬く乾いた畠の土を、農夫たちが耒耜すきで割り砕いていた。帝都の城壁が小さくなり、盧芳は目を前へ戻した。須卜当が帝都の城壁を見ていることに気づいた。須卜当は盧芳と目が合うと、何でもないような顔で前を向いた。今度は須卜当の目が輿のそれと合い、輿は咳払いをして前を見た。

 一輌の四輪馬車が、前を塞ぐように停車していた。匈奴の使節団を護衛していた新軍の騎兵隊長が馬車の許へ駆け、通行の妨げにならない場所へ移動するよう、馬車の馭者に命じた。馭者は髭が生えていない顔に愛想笑いを浮かべ、馬車を降りた。ちょこちょこと小太りの体を動かして騎兵隊長へ近づき、何かを手渡した。騎兵隊長は馬首を巡らして駆け戻り、指揮下の騎兵に何事か命じた。匈奴単于国の使節団を囲んでいた騎兵が、一斉に馬首を返した。

「何だ。おい、どうしたんだ」

 盧芳が近くの騎兵に訊ねた。騎兵は答えず、単于への親書を携えた外交官と共に、馬を止めた匈奴の使節団から離れた。小太りの馭者が戻り、道を塞いでいた四輪馬車が動き出した。蹄が地を打つ音、車輪が回る音を響かせ、箱形の車体が使節団に近づいてきた。黒い頭巾を目深に被り、斗篷状の外套を着た騎影が、箱形の車体の後ろに続いていた。輿の左手が、自衛のために携行していた馬上弓を掴んだ。

「油断するなよ、須卜当」

「言われるまでもない」

 須卜当の右手が矢箙へ伸びた。盧芳が輿と須卜当の前に馬を進ませた。右手を上げ、まだ射るなよ、と後方の二人を制しながら、自分たちが匈奴単于国の使節であることを、近づいてくる馬車に帝国の公用語で伝えた。

 箱形の車体の四輪馬車が停止した。馬車の後ろに続いていた黒頭巾の騎影が、馬車の横を通り抜けて盧芳の前に出た。盧芳は黒頭巾に素性を質した。

 須卜当の馬が、盧芳の横を通りすぎた。

 おい、と盧芳は制止の声を発した。須卜当、と輿も声を上げた。須卜当は気づかない様子で馬を進め、黒頭巾の前で馬を止めた。猛禽のような目を大きく見開き、黒頭巾を見つめた。須卜当の口が小さく動いた。

 風が吹いた。黒頭巾の手が上がり、黒頭巾の頭から頭巾が取り去られた。匈奴で最も美しい黒髪が、風の中に解き放たれた。風に靡く黒髪を眼に映しながら、須卜当は再び口を小さく動かした。

「云」

「須卜当さま」

 母、王昭君おうしょうくんに似た面立ちを、云は柔らかく微笑ませた。嘘だろう、と盧芳が呆然と呟いた。本当に云なのか、と輿が瞠目して訊ねた。云は二人の方へ目を向けた。

「わたしも、漢人の言葉を話せるようになりました、盧君期くんき

 君期、とは盧芳のあざなである。

「右屠耆王になられたと聞きました、兄上」

「云」

 輿は声を震わせた。おれは兄ではなく叔父だ、と言おうとした。言えば目から何か溢れる気がして、何も言わずに下を向いた。云は微笑し、須卜当へ目を戻した。

「また会えると、信じていました。会えた時は、わたしのために微笑んでくださるとも」

「そんな器用なことが――」

 須卜当は横を向いた。

「――おれに、出来るはずがない」

 こいつ、と盧芳が須卜当へ馬を近づけた。こんな時くらい笑え、と須卜当の脚を蹴りつけた。笑えなければ泣け、と更に蹴りつけた。うるさい、黙れ、と須卜当は蹴り返した。この、この、と盧芳は須卜当と子供のように蹴り合いながら、どうしてこんな場所にいるのか、云に訊ねた。云は背後の四輪馬車を目で示した。

「あの御方が、導いてくださいました」

 馬車の側面の窓を閉ざしていた布が開かれた。一枚の円い銅鏡が、女と思しき手に支えられて窓から出てきた。銅鏡は鏡面に盧芳、須卜当、輿の姿を順に映し、馬車の中の貴人に見せた。云や、と老いた女の声が馬車の中から云に呼びかけた。そこにいる男が云の兄かい、と訊ねた。

「はい。わたしの兄です」

 そうだろう、と老いた女の声は頷いた。昭君の面影がある、と穏やかに微笑んだ。云は兄たちの方へ目を戻し、馬車の中にいる貴人を紹介した。

漢室かんしつの太皇太后です」

 馬車の窓から出ている銅鏡が、錦の衣に幾重にも包まれている影を映した。匈奴の使節団が僅かに騒めいた。太皇太后とは誰だ、と数人が眉を顰めて周りに訊ねた。皇帝の伯母だ、と盧芳が説明した。馬から下りるよう皆を促し、自らも下馬しようとした。馬車から出ている銅鏡が、太皇太后が手を上げて制止する様を映した。

「馬を下りずともよい。匈奴の民は馬上で敬礼すると、云から聞いている」

「しかし、太皇太后、ここは匈奴単于国ではなく、大新帝国です」

「いつの世であろうとも、わたしの心が漢室と共にあるように、どこの国に身を置こうとも、そなたらの心は匈奴と共にあるはず。大漢だいかん帝国は礼の国であり、礼は――」

 ごほ、と太皇太后は咳き込んだ。銅鏡に映る太皇太后の影が傾き、馬車に同乗していた女の手に支えられた。

「匈奴の人々よ」

 若い女の声が、馬車の中から聞こえた。

「匈奴の人々よ、聞いてください。わたしは、漢室の定安ていあん太后です」

 定安太后、とは皇帝の長女、黄皇室主が過去に与えられていた称号である。

「太皇太后は仰せです。大漢帝国は礼の国であり、礼は敬うことから始まると。太皇太后は漢室の后として、匈奴の人々の心を敬うことを望んでおられます」

 定安太后の言葉を、云が匈奴の公用語に訳して匈奴の使節団に伝えた。戸惑う匈奴の使節団に、定安太后は語りかけた。

「匈奴の人々よ、太皇太后は仰せです。匈奴の美しき娘、云が、匈奴の地を離れて長安へ来ることになったのは、偏に太皇太后のせいであると」

「それは――」

 須卜当の手が矢箙の矢を掴んだ。それはどういうことだ、と矢箙から矢を引き抜こうとした須卜当を、云の手が制した。今は話を聞いてあげてほしい、と眼差しで訴えながら、云は定安太后の話を通訳した。数十年前、当時の単于が大漢帝国の良家の娘を求めた時のことを、定安太后は話した。後宮を管理していた皇后、王政君おうせいくんが、後宮で横行していた不正に気づかず、そのせいで王昭君が匈奴へ送られたことを話した。

「太皇太后は、自らの過ちを悔やまれました。王昭君を大漢帝国へ戻す方法はないものかと、お考えになりました。しかし、良案を思いつく前に、王昭君は亡くなりました」

 王昭君の死が匈奴単于国から伝えられた時、王政君は自らの過ちを改めて悔いた。弔意を示す書簡を単于へ送り、数日、喪に服した。その後、王政君が属している王氏一門は、王政君の兄、王鳳おうほうの下で繁栄し、王鳳の死後、衰退した。往時の繁栄を懐かしむ日々の中で、王政君は王昭君に娘がいること、今も匈奴で生きていることを知り、そして、王鳳の死から約二十年後、王鳳が死に際して推挙した男、人格高潔な王莽おうもうが大漢帝国の実権を掌握した。

「太皇太后は、わたしの父、王莽に相談されました。王昭君の娘を、大漢帝国へ戻すことは出来ないかと。父は、太皇太后の願いを叶えました。王昭君の娘を差し出すよう単于に要求し、差し出された須卜居次を太皇太后の前に連れてきました。太皇太后は喜ばれました。少しではあるが、己の過ちを償えたと。しかし――」

 ごほ、ごほ、と咳をする音が、馬車の中から響いた。

「――須卜居次と過ごす内に、太皇太后は気づかれました。須卜居次は、王昭君の娘ではあるが、匈奴の女なのだと。王昭君が故郷から引き離されたように、王昭君の娘も故郷から引き離されたのだと」

「わたしは――」

 振り絞るような声が、馬車の中から聞こえた。

「――また、過ちを犯した。過ちを償おうとして、同じ過ちを繰り返した。わたしは愚かな女だ。しかし、天は愚かな王政君に、過ちを正す最後の機会を与えてくれた。今こそ、過ちを正す時だ」

 ごほごほ、と太皇太后は激しく咳き込んだ。云は反射的に馬車を顧みた。八年間、母のように接してくれた人が、苦しそうに胸を押さえている様が、馬車の窓から出ている銅鏡の鏡面に見えた。思わず馬を寄せようとした云を、来てはならない、と鏡の中の太皇太后が右手を上げて制した。太皇太后は定安太后に支えられながら息を整え、自らの声で匈奴単于国の使節団に伝えた。

「匈奴の人々よ、王昭君の娘、云を、匈奴単于国へ返す」

 銅鏡を見ている云の瞳が、微かに揺れた。

 太皇太后の皺だらけの手に筆の持ち方を教えられた時のことを、云は思い出した。亡き母、王昭君の故郷を共に訪ねた日のことを思い出した。母の故郷を流れる大河、長江ちょうこうを渡る風の肌触りを思い出した。長江の河面に映る黄金色の夕陽の輝きを思い出した。輝きを眺めながら母のことを考えていると、太皇太后が近くへ来て、裘を肩にかけてくれたことを思い出した。

 云は前を向いた。何度も声を詰まらせながら、太皇太后の言葉を訳して匈奴単于国の使節団に伝えた。数秒の間を置いて、使節団の男たちが喜びの声を上げた。お帰りなさい、と一人が言い、他の数人も続いた。

 盧芳が云の横を過ぎ、太皇太后の馬車へ馬を近づけた。太皇太后に感謝の言葉を伝え、その一方で、云を返すことを皇帝は了承しているのかと質問した。了承していなければ大変なことになるのではないかと心配した。定安太后の声が盧芳の質問に答えた。

「匈奴の人よ、太皇太后は仰せです。遠くない未来、この国と匈奴単于国を嵐が襲うと。その嵐を止めることは、わたしたちには出来ません。嵐から須卜居次を守ることも、わたしたちには出来ません。けれども、居次を嵐から逃がすことは出来るはずです」

 しかし、と盧芳は云を気にしながらも更に質問した。皇帝が単于に差し出させた云を独断で逃がせば、太皇太后と定安太后の命が危うくなりはしないか。

「太皇太后は仰せです。自分は齢八十を越えた、もう十分に長く生きたと。それよりも、須卜居次を匈奴へ戻すことの方が大事であると」

 あなたはどうなのか、と盧芳は定安太后に訊ねた。

「匈奴の人よ、これを見てください」

 馬車の窓から出ていた銅鏡が、僅かに角度を変えた。馬車の中にいる定安太后の肉体の一部が、鏡面に映し出された。映し出されたものを見て盧芳は息を呑んだ。それはどうしたのかと定安太后に訊ねた。

「わたしは父に命じられて漢室の后となり、太后となりました。后となるに際しては、父母の家へ戻らないことを誓い、太后となりて後は、二家へ嫁がないことを誓いました。わたしの父は、それでこそ王氏の女であると喜びました。しかし、それから数年の後、父は漢室の天下を奪うと、わたしから太后の称号を剥ぎました。まるで未婚であるかの如く、わたしを他家へ嫁がせようとしました。この傷は、死して誓いを守らんとして、己の手でつけた傷です」

 一度は死のうとした定安太后が今も生きているのは、云がいたからである。定安太后が自傷した直後、定安太后が住む定安館を太皇太后が訪れた。定安太后が称号を剥奪されたと聞き、定安太后を慰めようと定安館に足を踏み入れた太皇太后は、定安太后の手首から床に滴る血液を見て動顚した。早く出血を止めるよう周りの女官に命じたが、定安太后は気力を振り絞り、自らの血で濡れた短刀で女官たちを威嚇した。女官たちが恐れ慄いて身を竦ませる中、太皇太后の供をしていた云だけが刃を恐れず、すたすたと定安太后に近づいた。定安太后に組みついて短刀を奪い、定安太后の手首に絹布を強く巻いて止血を試みた。定安太后は抵抗した。匈奴の女に何がわかろうか、と暴れて云から短刀を奪い返し、云を刺そうとした。その時、太皇太后が叫んだ。

 やめよ。云には夫がいるのだぞ。云には子供もいるのだぞ。云を死なせてはならぬ。そなたも、死んではならぬ。

「わたしは、死を恐れはしません」

 馬車から出ている銅鏡が、きらりと陽を弾いて空を映した。

「しかし、云が命を惜しまないことを望みはしません。云には、夫がいる。子供もいる。妻に死なれる悲しみは、夫に死なれる悲しみと、大きくは違わないはずです。母に死なれる悲しみは、父に裏切られる悲しみと、大きくは変わらないはずです。わたしは、わたしが悲しんだように、云の夫や子供を悲しませたくはありません」

 盧芳と定安太后が何を話しているのか、須卜当が云に訊ねた。盧芳が太皇太后と定安太后の身を案じていることを、云は須卜当に話した。太皇太后と定安太后が命を懸けて云を逃がそうとしていることも、併せて話した。云の話を、輿も須卜当の後ろで聞いていた。おい、漢人、と輿は盧芳を呼んだ。

「太皇太后とやらに伝えろ。云のことは、あんたのせいではない。おれたちのせいだ。おれたちが弱く、帝国の要求を拒めず、そのせいで云は帝国に連れ去られた。断じて、あんたの過ちではない」

 盧芳は輿の言葉を訳して馬車の中へ伝えた。輿は息を吸い、更に声を張り上げた。

「云を匈奴へ返してくれて感謝する。だが、おれたちは多分、云を守れはしないだろう。云は長くは生きられないだろう。もしかしたら、あんたより先に死ぬかも知れない。しかし、これだけは約束できる。あんたが返してくれた云が、おれたちより先に死ぬことはない」

 そうだろう、と輿は肩越しに後ろへ叫んだ。その通りだ、と匈奴単于国の使節団の男たちが応じた。須卜居次を先に死なせはしない、と競うように声を上げた。我らは須卜居次のために顔を切らず、と一人が言い、別の一人が続けて、須卜居次は我らのために髪をる、と叫んだ。我らは顔を切らず、居次は髪を剪る、と匈奴の男たちは自らの胸を拳で叩きながら繰り返した。男たちの言葉を、盧芳は帝国の言語に訳して太皇太后と定安太后に伝えた。

「あー……と、顔を切るとか、髪を剪るとかいうのは、匈奴の風習です。匈奴では――」

「匈奴では死者を弔う時、男は己の顔を切り、女は自らの髪を剪る。云が教えてくれました」

 友よ、と定安太后は云に呼びかけた。

「太皇太后が、最後に顔を見せてほしいと」

「わかりました」

 云は馬車の窓へ馬を寄せた。馬車の中の太皇太后が、定安太后に支えられて窓に身を寄せた。太皇太后の皺だらけの手が、云の顔へ伸ばされた。太皇太后の手が云の髪に触れ、云の頬に触れた。云や、云や、と太皇太后の口が声を絞り出した。

「云や、おまえのことは忘れない。どれほど遠く離れようとも、忘れはしない」

「わたしもです。決して忘れません」

 頬に触れている太皇太后の手に、云は自らの手を添えた。枯れた枝のような太皇太后の指が、云の頬を流れ落ちたもので僅かに濡れた。
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