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【2】
30 夏の湖
しおりを挟む短くも過ごしやすい夏の季節、私とブレンダン様は隣りの領地との境にある湖へやって来ました。
山を越えた先にありましたから、馬車が去った後、私たち以外に人の姿はありません。
ブレンダン様は雪がとけた後、私に内緒で山小屋を新しく用意していたのです。
「アリソン、中を案内するからおいで」
新しい木の匂いがします。
部屋は温泉のついた別宅よりもこじんまりとしていますが、台所やお風呂などもひと通りありました。
「ブレンダン様、とても素敵!」
「喜んでもらえて嬉しいよ。夏の間に一緒に来ることができてよかった」
大きな木箱が置いてあって、食材が入っているようです。
使用人たちが準備してくれたのでしょう。
ブレンダン様の手料理が楽しみでしかたありません。
いつでも休めるようにベッドも綺麗に整えられていました。
座って柔らかさを試したくなりましたが、我慢します。
少し子どもみたいですもの。
「休みたくなったらいつでも言って」
「はい、まだ大丈夫です」
ブレンダン様が笑顔で私を見ています。
「それなら湖の周りを散策しようか」
「はい!」
山小屋の裏側には炊事場もあり、少し歩くと温泉もあるそうです。
この辺りはブレンダン様ほどの体長がある大きな鹿が出没するというので、見たい気持ちもありますが少し怖いと思いました。
「温泉に浸かっている時に現れたらと思うと」
「向こうもわざわざ近づいてくることはないだろう。万一の時は、裸でだって戦える」
「まあ……ブレンダン様」
少し想像してしまいました。
裸で剣を構えるブレンダン様を。
「アリソン、何を想像した?」
「だって……」
我慢できずに笑ってしまいます。
すると引き寄せられて頬に口づけを受けました。
「石がゴロゴロしているから、入るなら明日の昼間だな。足を切ったら大変だからね。そうだ……万一私が鹿と戦うことになったら、アリソンが石を投げて加勢してくれればいい」
「鹿に……私が石を投げるのですか?」
「そうだ。雪を投げるように」
「その話は忘れて下さい!」
冬に雪を丸めて投げ合った時、全然ブレンダン様に当たりませんでした。
ブレンダン様は当たらないように私に投げてきましたのに。
「私が石を投げたらブレンダン様に当たってしまいます」
「アリソンになら当てられてもいい」
ブレンダン様は笑いながら、腰を腕を回して抱きしめます。いつでも触れ合っていたいみたい――それは私も同じなのですけど。
「もう……ブレンダン様のいじわる」
胸に顔を埋めますと、髪を撫でて頭に頬をのせます。
大事にされている、愛されているとこんな時にも感じてしまいました。
「大好きです」
「いじわるされるのが?」
からかいを含んだ声に顔を上げました。
私が答える前にブレンダン様は唇を押し当てます。
「アリソンが可愛いのが悪い。だが、嫌われるのも困るな。この後は甘やかすことにしよう」
そう言って私を抱き上げました。
驚いて彼の首に腕を回します。
「ブレンダン様!」
「足元が滑りやすい。それに疲れ過ぎたら夜が楽しめないだろう?」
先ほど見た寝室が思い浮かんで、一瞬言葉に詰まりました。
「……大丈夫です。私も以前より体力がつきましたもの」
「そうか、ではここを抜ける間だけ待ってくれ」
ブレンダン様は慣れたようにでこぼこした小道を通り抜け、私を下ろしました。
少し歩くとブルーベリーの木がありましたので、今日食べる分だけ摘みます。
「戻って昼食にしよう」
屋敷で用意してもらったパンにはたっぷりのお肉が挟んであって、普段のピクニックよりとても豪華です。
もしかしたら、数日ブレンダン様の料理なので、料理長が心配したのかもしれません。
帰った時にどんなにおいしかったか、もっとしっかり伝えないといけないようです。
どうやら愛情という調味料で、私の味覚がごまかされていると思っているようでした。
確かに見た目は少し……だいぶ豪快ではありますが、ちゃんと食べやすく切って下さいますし、素材の味がよくわかっておいしいです。
「二人で一週間は楽に過ごせるほどの食料が届いている。相変わらず、みんな心配性だな」
「そうですね」
「いざとなったらこの食料に釣りや狩りをして一月くらいこもることも出来るのだが」
ブレンダン様ならできるでしょう。
想像して楽しくなります。
今回は三日だけなので残念ですが、夫がのんびりする時間も減ってしまうのでちょうどいいかもしれません。
「この夏は無理でも、次もまた連れて来てくださるでしょう?」
「もちろんだよ。また来年も来よう」
また一つ楽しみが増えました。
明るい未来の約束が増えるのはいつも嬉しいですから。
日が落ちて空気がひんやりしてきました。
夏でも夜になると厚手の上着が欲しくなるくらい寒くなるそうです。
短い秋の頃では薄氷が張るのだとか。
夕食はブレンダンさまが分厚いお肉と野菜を焼いてパンを添え、散策中に見つけたブルーベリーをデザートに食べました。
「いちごはもう終わりだが、ラズベリーもあるはずだ」
「ぜひ探してみたいですね」
ブレンダン様が教えてくださったので、明日は温泉を楽しむことと、ラズベリー探しとなりそうです。
小さな風呂から上がり、おしゃべりを楽しみました。それから普段なら寝室へ向かう頃、ブレンダン様からたくさん着込むように言われて首をかしげると。
「先に見せたいものがあるんだ」
そろそろ日付けが変わる頃でしょう。
不思議に思いながらも上着を重ねました。
ブレンダン様はさらにショールを私の肩にかけ、外へ向かいます。
想像していたより空気が冷たくて、息も白いです。
「こんな夜更けになんでしょう?」
「すぐにわかるよ」
どうやら湖へ向かっているようです。
ブレンダン様はランタンを片手に、もう片手は私の背中に回したまま。
暗くて少し、怖いと思ってしまいました。
「アリソン、ほら、空を見て」
緑がかった淡い光が現れ始めました。
「まぁ!」
真夏に見ることができるなんて。
上を向く私が転ばないように、ブレンダン様が支えながら先へと進みました。
光が空一面に広がると、暗闇の中に木の影が映ります。
湖はひらけていて、よく見えるのかもしれません。
「アリソン、今度は前を見て」
想像と違いました。
大きな湖に淡い光が映し出されています。
空でも水面でもゆらゆらと揺れていました。
とても神秘的で、別の世界のようで――。
「…………」
「湖が凍らない今しか見えないんだ」
「……とても、綺麗です」
今にも妖精や湖の女王が現れそうに思いました。
「ブレンダン様、連れて来てくださってありがとう」
「喜んでもらえてよかった。やっぱり一週間はここに残りたいな」
「でも帰らないと……」
「なんとかする」
ブレンダン様が力強く言いました。
夫なら本当になんとかしてしまいそうです。
無理はしないで、そう伝えながらも嬉しいと思いました。
明日もまた見ることができるかもしれない。
それに、一日でも長くここに二人で過ごせたらどんなに幸せでしょう、って。
私はわがままになってしまったかもしれません。
「ブレンダン様……」
「大丈夫だよ、我が家の使用人たちは有能だからね。迎えの馬車が来た時に伝えて調整しよう」
ブレンダン様は私に甘過ぎます。
夫の腕の中に飛び込んで、きつく抱きしめました。
「嬉しい。ありがとう、ブレンダン様」
夫と一緒にいると嬉しいことや楽しいことがたくさんあって、幸せです。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
「はい」
私を抱き上げて、心なしかブレンダン様が足早に山小屋へ向かいました。
きっと早起きはできないでしょう。
風が吹いて、さらに冷え込んできました。湖が近いからでしょうか。
「寒くなってきたな」
「そうですね」
ブレンダン様の首にもかかるようにショールを巻きつけました。
一緒に包まれてひとつになったみたいです。
「温かいよ、ありがとう」
重ねられた唇はひんやりしていました。
「早く、戻りましょう」
ブレンダン様が山小屋の階段を駆けあがります。
扉の中に入った後、私は夫に身をゆだねることにしました。
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