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29 動けない

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 馬丁が栗毛の牝馬に鞍と手綱を準備してくれていた。

「ありがとう」
「旦那様はプランセス以外乗りませんから」

 以前にも何度か乗ったが、その名の通り気位の高いお姫様のようで、ようやく慣れて甘える仕草をみせるようになり、とても気に入っている。

 ロゼールと似たところがあって可愛いが、それを彼女には言うつもりはない。
 彼女の拗ねる顔もとても愛らしいが。
 
 今日だって彼女に捧げるための買い物で、渡した時の笑顔を見るために行くようなものだった。
 女性に対して淡白なほうだと思っていたが、本気で好きになったら尽くしたくなるらしい。

 今までのマルスランを知っている者がこんなことをしてると知ったら、別人だと思うかもしれない。
 今はまだ表に出すわけにはいかないけれど。

「旦那様、森を通るつもりでしたら川の方へは向かわない方がいいですよ。この間の雨で橋が壊れたそうなので」
「そうか、ありがとう。では行ってくる」

 少し遠回りになるが今日は晴れている。
 マルスランは牝馬にまたがり森へ入った。
 騎士団に所属していた頃は、馬に乗ることも多かったから馬車に乗るよりも風を感じて気持ちいい。

 海風でこの領地の冬は厳しそうだ。
 だからこそ今、馬で駆けるのは楽しい。
 しかし、しばらく走ると急に牝馬のスピードが上がった。

「どうした? プランセス」

 手綱をきつく握り、マルスランが声をかける。
 何か様子がおかしい。
 やけに汗をかいていて、頭を振りながらさらにスピードを上げた。

「待て!」

 闇雲に走るから、枝が顔に当たり一瞬目の前が見えなくなる。
 その次の瞬間、マルスランは振り落とされた。








 目が覚めると、柔らかなベッドに横になっていた。
 ベッドの脇に白金の髪が見えて、あれは夢だったのかと思う。
 しかし、彼女を撫でようと腕を上げて痛みが走った。

「……っ」

 身体を起こそうにも、大袈裟に巻かれた包帯が目に入る。
 いや、牝馬から落ちたんだからいいほうなのかもしれない。

「……マルスラン……!」

 ロゼールの灰色の瞳が潤んだ。
 震える唇をきつく閉じてそのまま黙り込む。
 泣いてしまえばいいのにとマルスランは思う。

 手を伸ばすとかなり痛い、でもけなげに耐える彼女に触れて、安心させたかった。
 マルスランがもがいているのに気づいたロゼールの手が、シーツに滑り込んでそっと腕を撫でる。

「どうか動かないで。骨が折れているの。クレマン先生が手当てしてくれたわ。……頭は痛む? 吐き気は?」
「頭も痛くないし、吐き気もない。気になるのは、右肩だ」

 好きな女の前で痛いと言うのは嫌だった。

「肩の骨が外れていたそうよ。あの、頭が痛くなるようなら教えて欲しいって。……私の顔は見えているのよね?」
「……少し青みがかった美しい瞳が見える。俺の妻は美しいな」

 ロゼールが視線をそらした。
 言われ慣れているだろうに、ほんの少し耳が赤くなっているのが愛らしい。

「心配しているのに揶揄わないで。……先生を呼んでもらうわ」
「待って。その前に、口づけをしてほしい」

 立ち上がったロゼールが、擦り傷になっているであろう頬を撫で、そっと唇を重ねた。

「目覚めて、本当によかった……」

 抱きしめたいのに、歯がゆい。
 もう一度頬を撫でて、ロゼールがベルを鳴らすとバベットがやって来た。
 それからはクレマンがやって来てあちこち調べにっこり笑顔になる。

「さすが、騎士団に所属していただけありますな。頑丈でいらっしゃる。しばらくロゼールに甘えて安静に過ごすといいでしょう。まぁ、今夜は吐き気や頭痛がするようなら遠慮せずに呼んでほしいですな。大事なロゼールが悲しむのは見たくないのでね」
「……わかりました。ありがとうございます」

 そうだ。
 彼女は何人も見送って来たんだ。
 ようやく頭が回り始める。

「馬はどうなりました?」
「あぁ、死んだよ。ちょっと調べてみるから、考え事はせずにまず身体を治すように」
「それは残念ですね。とてもいい馬だったのに……」

 それから、牝馬の様子がおかしかったことを伝えた。

 あれは不慮の事故じゃない。
 多分みんな思っているだろうが、口に出さなかった。

「薬湯を飲んでもうひと眠りしなさい」
「はい、ありがとうございました」

 ロゼールと二人きりになると、彼女が甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
 結婚初日を思い出すとお互いずいぶん変わったものだと思う。

「ありがとう、ロゼール。俺達の関係が知られてしまったようだな」
「…………背中にたくさん跡を残すから」
「きっと、それだけじゃないだろう」

 頻繁に離れで逢っていたし、どこから漏れてもおかしくない。
 未だに葡萄酒に毒が含まれている。
 つかまえようと待ち構えている時は現れず、晩餐中に用意されるようになった。

 ここに来てマルスランに消えてほしいと考える人間が焦れてきたのかもしれない。

 一体誰が得をすると言うのだろう。
 それとも、王命であるのにマルスランに何かあったらロゼールが責められるのではないか。

 内心、王は王妃の愛人を処分できたと嗤うだろうが、表向きはロゼールに処罰を下すかもしれない。
 ともかく疑わしきことは一つずつ片付けていくしかなさそうだ。
 
「ロゼール、馬丁から話を訊きたいから逃げないようにしておいてほしい」
「……わかってる。屋敷の者に領地から出ないように伝えてある。でも、外からやって来たかもしれないから難しいけど」
「ありがとう。何か、証拠となるものが欲しいな」
「……ええ、そうね」

 幸せボケしていた。
 回復次第、少々手荒なことをしてでも怪しいと感じた者達と話す必要がありそうだ。
 

 




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