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亡者の巣
しおりを挟む蔦で覆われた暗い虚を潜り抜けると、その先も暗闇が広がっている。
「金烏」
尽は、呪符を取り出すと言った。
呪符が光り、その名の示す通り炎を身に纏った烏が現れる。
鳥に照らされて、暗闇が輪郭を明らかにした。
そこは地の底に続いていそうな坂だった。
坂の側面も上部も、苔に覆われた岩でできていて、洞窟のようになっている。
広さは大人が二人並んであるいてもゆとりがある程度の物だ。
光源は一つもない。地面は凸凹しており、見るだけで歩き難そうな事が分かる。
黄泉平坂と呼ばれるこの坂を降りた先に、冥府がある。
尽は金烏に照らされた道を下に向って降りていく。
金烏も地霊たちも、陽炎も、皆一様に『冥府になど行きたくない』と言っている。
しかし、尽が望むのならばと渋々付き合ってくれるようだ。
狗神だけは、そんな彼らを情けないと叱咤していた。
黄泉国とも呼ばれているそこは、主であるイザナミが治めている、死者の国である。
輪廻の円環から外れた罪人達と、現世への過ぎた干渉が咎められた神や妖の償いの檻だ。
罪人たちは亡者となり、永遠に近い時を苦しみ続けるのだという。
彼らは終わらない渇きと飢えに苦しめられ、出口などない冥府を彷徨い続ける。
彼らの救いは高天原に昇り、魂が清められて再び何かに生まれ変る事だが、そんな日は一生来ない。
冥府に幽閉されるということは、それだけの、許されない罪を犯したという事だからだ。
――そこに、カグツチがいる。
カグツチは、イザナギとイザナミの息子だが、生まれ出た瞬間に母体を激しく傷つける程に力の強い炎神だった。
カグツチは色を好み酒を好み争いを好んだ。
人が代償さえ払うのならば良い事も悪い事もなんでも叶えたと言われている。
実際のところは悠久の昔に冥府に幽閉されているので、尽には分からない。
ただ、そう言い伝えられているというだけだ。
しかし、幽閉された今でも禁呪に力を貸して楽しんでいるのだから、あながちその言い伝えも間違いではないのだろう。
カグツチを産んだ時に傷を負ったイザナミは、その傷が原因で死んでしまったという。
嘆いたイザナギは、彼女を生き返らせたかったので冥府へと降りた。
暗闇の中彷徨う彼女の魂をみつけて連れ帰ろうとすると、イザナミは「冥府を抜けるまでけしてうしろを振り返らないで欲しい」と言った。
しかし、彼女がちゃんとついてきているのかが心配になり、振り返ってしまった。
暗闇の中にいたのは、腐乱し変色したイザナミだった。
イザナミは怒り、イザナギを殺そうとした。
彼女を残して逃げ帰ったイザナギは、冥府に蓋をしたと言われている。
それ以来、イザナミは冥府の管理者となっている。
そして、彼女は己の息子であるカグツチの在り方を見るに見かねて、高天原を治めているもう一人の息子、天照と共に彼を幽閉した。
尽が知っているのは遠い昔に教えられた伝承だった。
現在でも神話として本などに残っているが、信じる者など殆ど存在しないだろう。
かつて人間として生きていた時に、黄泉平坂を下る羽目になるなどとは考えたこともなかった。
先の見えない深い闇の溜まった回廊が、下へ下へとどこまでも続いている。
ゆるゆるとした長い坂は平衡感覚を狂わせ、軽いめまいを生じさせた。
まるで化け物の体内に潜り込んでいくような薄気味の悪さを感じさせる作りだと、尽は思う。
どこまで降りたのだろうか、徐々に蒸し暑さを感じ始めると、通路の先に光が灯っているのが見えた。
金鳥を還らせて、小さく息をつく。
回廊を抜けて開けた場所に出た。
神殿のような作りのそこは、いくつかの扉がある。
開いている扉がカグツチの元へと続いているのだろう。呼ばれているのは間違っていない筈だ。
扉をくぐると、更に部屋があり、分かれ道になっている。
一つの道には、壁に炎が灯っていた。ご丁寧な事だと思いながら、その道を進んでいく。
すると、地を這うような苦し気な声が、耳に響き始める。
亡者たちの嘆く声だ。
この先に彼らが居る。
しかし、立ち止まるわけにはいかなかったので、燃える様に赤く染まっているその先の部屋へと足を踏み入れた。
そこは亡者の巣だった。
釜のように円形に抉られた地面に、腐乱した体の亡者たちが無数に折り重なり蠢いている。
亡者たちは、赤くぼこぼこと煮立つ溶岩の中に体を半ば沈めて、苦しみ呻いていた。
その真ん中に一本橋があり、更に奥へと続いている。
橋と溶岩との間にはかなりの距離があり、亡者達が襲ってくるとは思えなかったが、尽は一応陽炎に、姿を隠せるかと聞いてみる。
彼は、あるいは彼女かもしれないが、ともかく陽炎は『あの醜悪な物は目が見えない代わりに鼻が良いから無理だ』と囁くような小さな声で言った。
それなら強行突破するしかないだろう。
亡者との戦い方など分からない。
地霊たちが頭の中で挙って『馬鹿だ無謀だ尽はおかしくなった』と騒ぎ立てたが、無視をすることにした。
尽が木でできた橋へと足を一歩踏み出すと、それはかたりと音を立てる。
音に反応したように亡者達が一斉に此方を向いた。
眼球はない。本来目があっただろう場所には、虚が開いている。
しかし、尽を見ているという事は分かる。しかし、彼らと通路である橋とは、かなり距離がある。
ざわりざわりと不快な言葉で何やら騒いでいるようだが、気にせずに前に進むことにする。
騒ぐだけだった亡者たちは、徐々に一つに重なり始めた。
何やら不穏な空気を感じ、尽は足を止めて呪符を取り出す。
折り重なった亡者の群れは一つの形を作る。それは巨大な髑髏だ。
いくつもの体が重なりできた髑髏は、溶岩の中から首をもたげる。
首も、背骨もその巨大な骨のひとつひとつが、重なった亡者でできた髑髏は尽に向って口を広げた。
食べようとしているのだろう。
那智によって傷を負わされた狗神たちが、自分たちを呼べと言う声が頭に響く。
できれば傷が言えるまで休ませたいが、仕方ない。「白、黒」と言うと彼らは呪符が変化し姿を現した。
空を泳ぎ素早く髑髏に飛び掛かると、その体を食いちぎる。
亡者を飲み込んだ白と黒の体が、傷を負っていたせいでくすんだ色から、徐々に元の輝きを取り戻していく。
『亡者と言えど腐っても人の魂。あまりおいしくないけど、我らの血肉となるのです』
得意げに黒が言う。彼らの声は少年に近い。口ぶりも、時折幼さが垣間見える。
体を食いちぎられた髑髏は、けれどそれでも数が減らない亡者たちによって瞬く間に元に戻った。
『全てをという訳にはいきません。尽様、今のうちに』と白が言う。
狗神たちの言う通り、彼らが髑髏の相手をしている間に、さっさと通り抜けようとしたが、髑髏は尽にしか興味がないようで、橋の奥へと巨大な手を伸べて、そのまま体を捕まえようとする。
大きく橋が揺れて、欄干へとしがみ付いた。
溶岩の中に落とされたら、いくら人ではない尽と言えども無事で済むとは思えない。
「風伯!」
落ち着いた男の声がする。
途端に強い風が部屋中に巻き起こった。
竜巻が髑髏を抉り、亡者の体へと戻す。一つ塊になれなくなった彼らは、ばらばらとばらけて、溶岩の中に落ちていった。
橋の揺れがおさまったので、尽は素早く走り抜ける。
背後からもう一つの足音が響いてくる。
橋を渡り切り亡者の巣を抜けると、薄暗く何もない部屋へと出た。
背後の足音を振り返ると、漆間涼が肩で息をしながら、膝に手をついて体を曲げていた。
「良かった、追いついた」
乱れた呼吸を整えると、彼は安堵したようにそういう。
「漆間か。……よくもまぁ、ここまで来れたな」
「うん。俺も声が聞こえるようになったから。あんたは琥珀を助けに行くんだろ?」
涼の傍には、緑色の女が浮かんでいる。
風伯、と先程名を呼んでいた。恐らく漆間双樹がかつて失ってしまったものなのだろう。
少し前なら、漆間涼という存在に対し苛立ちを感じていたのだが、今は不思議とそれは起こらない。
ただの人間が黄泉平坂を降ってくるとは、無謀すぎるだろうと呆れるばかりだ。
「俺もいく」
「相手は神だ、何もできない」
たとえ彼に風伯がいたとしても、敵う物ではない。
何を言っているのかと眉を潜めると、涼は首を傾げた。
「だって、それを知ってて八津房は琥珀を助けに行くんだろ? あんたにとって琥珀がそれだけ大切って事だろうし、俺にとってもそうだから」
「思ったことを臆面もなく言えるお前が少し羨ましいよ」
尽は薄く笑った。
それは彼が若いからだろうか。
尽もかつては若かったが、そんな風に素直に自分の気持ちを言葉にしたことは無かったように思う。
遠い昔に、結婚を誓った茉莉にさえ、『決められたことだから、しかたなく』という態度を貫いていた。
千年前の話だ。昔すぎて、もうその顔も声も、思い出せない。
「漆間。無事に帰れるのかどうかすら分からない、お前は帰った方が良い」
「八津房、琥珀を助けるために、あんたは自分が死んでも良いと思ってるだろ? それじゃ駄目だと、思う」
だから帰らないと、頑なに涼は言う。
風伯は微笑み、尽は深い溜息をついた。
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