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黄泉への灯火
しおりを挟む水溜りのように広がり、階段から流れた血が尽の足元まで届いた。
糸の切れた人形のように動かない琥珀に駆け寄ることができたのは、彼女が殺されてから数秒遅れての事だった。
尽は琥珀の傍に膝をつく。
流れ落ちた血が、ぬるりと伸ばした手や、膝を濡らした。
「琥珀、どうして……何故、殺した……!」
「お前は神楽を憎んでいただろう。死ぬと、悲しむのか」
「何を馬鹿な……中身が神楽だとしても、この体は琥珀の物だ。それを、お前は……!」
那智は落ち着いた様子で、「大丈夫だ」と密やかに言う。
琥珀の体を抱き起そうとしていた尽の手が伸びる前に、それは起こった。
百足の足が突き刺さった、琥珀の体に空いた穴から、血の代わりに真っ黒い植物の蔦のようなものがうねうねと這いだしてくる。
それは琥珀の流れ出た血を養分とするように四方八方に広がって、複雑に絡まり合い瞬く間に足元を黒く埋め尽くした。
琥珀の胸には、ぽっかりと黒い穴が開いている。
やがで彼女の体も黒い何かに絡めとられて見えなくなり、穴は人が一人通れるぐらいの大きさまでに成長した。
那智は立ち上がると、その穴から一歩引いた処でその様子を見守る。
植物は那智を避けて成長しているようだ。
尽も足元に広がっていく植物が体の上を這い出そうとするので、仕方なく那智の傍へと避難した。
「八津房、私は確かに、神楽を愛していた。お前はそれ故私が琥珀を手に入れようとしていると思っていたのだろうが、少し違う」
「どういうことだ?」
「私が目覚めるときに決まって、神楽と同じ姿の少女が殺された。少女が殺されると、私は再び眠りにつかなければならなかった。神楽と同じ魂を持つものだと、薄々理解していたが、理由が分からなかった。私を封じるために、それは必要のない事だったからな」
植物の生長が止まり、岩屋に広がる黒い蔦の中心に、ひたすらに黒い穴が開いている。
那智は漆黒の穴をみつめながら、尽に向かって言葉を紡いだ。
「はじめのうちは、そこまで私が憎かったのかと思った。己の死を何度も見せる程に。お前の罪を忘れるなと言われている気になった。それほどまでに、漆間双樹が私を憎んでいるのだと、思った」
「俺には死んだ人間の気持ちは分からない。それに、お前の贖罪を聞いてられるほど、暇じゃない」
「そう焦らずともまだ時間はある。琥珀を助けたいのだろう。……私が琥珀を手元に置きたかったのは、無駄な殺戮を終わらせたかったから、いたずらに殺される少女たちが不憫だったからだ」
「……そうは見えなかったな」
「愛しさは、確かにあったように思う。神楽を、琥珀を殺すまでは、執着もあった。私も少しばかり狂っていたのかもしれない。今は頭にかかっていた霧が晴れたようだ」
あれだけ血が流れたというのに、那智は綺麗なままだ。
妖にも格があり、人に変化したときに自らの本性を隠すことができる者ほど、それが格が高いとされている。
土蜘蛛は、妖艶な女の姿をしていた。
しかし本来は蜘蛛と虎が混じったような醜悪な見た目をしている。
美しい女の姿に仮生してはいるものの、彼女の足や腕には、黒い縞模様があった。
隠すことが出来なかったのだろう。
那智にはそういったものがない。
「贄を捧げなければ、私の封印は徐々に解けるとは分かっていた。再度封じるために必要なのは、神楽が神楽として死ぬことだったのだろう。ひとつ前の巫女は漆間を愛していた。恐らく、最後まで自我を失わなかったのだと思う。命が消えるときまで、漆間を想っていたのだろう、哀れなことだ」
「封印が解けたら、琥珀を幽世へ連れていくつもりだったんだろう?」
「たとえ生き延びたとしても、殺されるために産まれたのだから、人の世では生き辛いだろう」
「それは、琥珀が決めることだ」
「そうだな。だが――繰り返す転生で神楽の魂は壊れてしまったが、琥珀は壊れていない。お前に外へと連れ出されたためか、琥珀は琥珀としての自我を、魂を持っている。それは普通ならば起こりえない転生により、妖と同じような力を帯びた、けれど人間の物だ。現世に残る妖にとってそれは、とても甘美な餌となる」
「つまり、現世に置いておいたら、すぐに食われるってことか」
「幽世へ行き、私の傍に居れば、安らかに暮らせるだろう。辛い思いはしなくてすむ」
そういって、那智は黒い穴を指さした。
尽はそれをはじめて見る。
幽世に居る尽の妖たちは、皆一様に、それを忌避しているようだった。
「私が殺したのは、壊れた神楽の魂だ。もう、殆どまともな形をしていなかった。けれど、冥府に居るカグツチが、一度手に入れた魂をそう簡単に返すわけがない。恐らく壊れた神楽はいらなくなった。その代わり、美しい形をしている琥珀を囲ったのだろう」
「琥珀は、冥府に居るのか?」
「カグツチはまだ遊び足りないらしい。私が開くつもりだった道反の大神が、勝手に開いたのだから、来いと誘っているのだろう」
尽は、カグツチの姿を思い出す。
檻に囚われた琥珀を助けるために、禁呪に触れていた時に現れた彼は、確かに「遊んでやろう」と言っていた。
その遊びとやらは、まだ終わっていないのか。
それとも、可能性を残して此方を試しているのか、どちらにしろ性格が悪い。
「お前が行くというのなら、私は残り琥珀の器の命を繋ごう。再び魂が戻れば、琥珀は生きることが出来る」
「随分と、親切だな。何か裏があるんじゃないか?」
「私は私の望みの為に、お前の命を強引に繋いだ。お前の命に責がある。お前が生きるために琥珀が必要だというのなら、無理に幽世には連れて行かない。お前に力を貸し、琥珀を守る事が、私にできる贖罪だと考えている」
尽は何か言おうとしたが、それ以上の皮肉は出てこなかった。
かつて尽が瀕死の状態で那智の元を訪れたのは、八津房が過去何度か那智に力を借りていたからだ。
土蜘蛛は決まり事として赤子を食べる以外に、時々暴れて不幸にもその場に遭遇した人を食った。
今でいう、ヒステリーというものだろう。
八津房の術士は那智の力を借りて、土蜘蛛に傷を負わせて、土蜘蛛の住む森の御殿へと帰らせることを繰り返していた。
尽は姿を見たことはなかったが、那智は慈悲深い。
助けを求められて、断ることはないと、教えられていた。
無駄に生かされた事にまだ蟠りはあるが、結局それは自分で蒔いた種だ。
彼を恨むのは、間違っているのだろう。
分かっているのだが、素直に礼を言う気にはなれなかった。
「那智、お前ならカグツチに勝てるのか?」
「カグツチは神だ。勝ち目などはない」
「そうか。なら、俺が行こうがお前が行こうが、同じような物だな。少しでも可能性があるのなら、譲ろうかと思ったが、それなら俺が行く」
尽はそういうと、躊躇なく蔦の中心の黒い穴の中に飛び込んだ。
尽の体を飲み込むと、四方八方に伸びていた蔦がするすると中心へと戻っていく。
穴が閉じると、そこには動かない琥珀の体が横たわっていた。
那智はその傍へと跪き、胸の傷へと手を翳す。胸の傷が綺麗な皮膚に戻り、青白かった皮膚が次第に赤みを取り戻していく。
胸が上下に動き、呼吸をし始めたことが分かると、その体を抱き上げて、祭壇の上の石室にそっと寝かせた。
傷がふさがり眠っているだけのように見える、
魂のない空っぽの琥珀の体から粒子が巻き上がり、薄ぼんやりとした女の姿を形作る。
那智は少しだけ微笑むと、彼女に手を伸ばす。
「神楽。すまなかった。……私は、お前の妹を殺した」
那智が言うと、粒子でできた女は首を振る。
「そして、お前を殺した。壊れていてもお前だとは分かっていたが、お前を選ぶことを、しなかった」
『良いのです、那智様』
「……お前の妹を殺したとき、愉しかったことを覚えている。私は血に酔っていた。私は、本来残虐な獣なのだと、思い知った。壊れたお前を傍に置けば、獣に戻ってしまうような気がした」
『身勝手な私を救ってくださり、感謝しております。私はとうの昔に死にました。琥珀も、陽詩も……他の少女たちも、私が生を奪った。私は間違えてしまったのです』
神楽は微笑む。
『どうか、琥珀を守ってください。私に生を奪われた、最後の子です。あなたは、優しい。私はそれをよく知っています』
ありがとう、と言うと、神楽は風にとける様に消えていった。
那智は暫く彼女の影を追うように、何もない空を見ていた。
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