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八津房尽と檻の中の那智
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――できれば共に生きたいなどと、そんなことができるはずがないのに。
拙いながら懸命に、まるで親鳥を追う雛のように慕ってくれた琥珀に、自分が言おうとした言葉を思い出し、なんて自分勝手なのだろうかと自責の念に苛まれる。
尽は仄暗い岩屋の中でたたらを踏んで、自分自身を嘲笑った。
那智が体に乗り移ったことを覚えている。
自分自身が戻ってきたことを、手指を動かして確認した。
(……どういうことだ。封印の綻びから僅かな時間思念は飛ばせても、体を支配し操る事などできなかった筈だ)
だから尽は、那智の目を盗みある程度自由に行動できていた。
(それだけ、封印が綻びたということか)
石を切り出したような広い岩屋の左右には、整然と石燈籠が並んでいる。
狐火が青白く灯り、ゆらゆらと揺れるたびに影の形を変化させた。
石造りの床は鏡面のようにつややかに磨かれ、奥には階段がある。
階段の先には石櫃のような祭壇が置かれ、植物をモチーフにした美しいレリーフが施されている。
それは森に無数に住んでいた木霊や、滝を中心として住んでいた水霊が、自分の住居にまるで興味のなかった那智のために勝手に作り上げた装飾である。
那智が禁呪のせいで封印の眠りについてしまってから、悲しみからか徐々に華美になっていった印象だ。
その精霊たちも、もういない。
現世が息苦しくなったためか、幽世に住処を変えてしまった。
今現世に残っているのは、那智のように遠い昔に封印されたモノか、人の世に馴染み、人のふりをして暮らしているモノ、人の世に紛れ人を食うモノの三通りだ。それらは皆、力の強い妖である。
どちらにせよ、関わって良い事はない。
祭壇の前の階段に、那智がくつろいだように座っている。
彫刻のように、人間味のない美しい姿だった。
長く艶のある黒髪が、滝のように広がっている。
白い肌に、金の瞳が忌々しい新月の夜を連想させて、不愉快な気分になる。
黒い羽織と黒い着物は、金の糸で縁どりがされている。
彼らの人に変化している時の衣服は、正確には体の一部なので、本来の性質を表している場合が多い。
中には人のように、様々な衣服を纏うことが好きな妖もいるが、那智にはそういった遊び心はないらしい。
那智の膝を枕にして、琥珀が眠っている。
彼女の髪を那智は指先にからめ弄んでいる。琥珀は随分と小さく見えた。
「……琥珀を返せ」
「返せ、とは、異な事をいう。元々お前の物ではない」
確かにそうだ。
琥珀に何をしてやれた、と自問自答する。
騙して連れ出し、漆間涼を殺すように諭した。
いなくなった彼女を無理やり取り戻し、腹立ち紛れに穢そうと思った。
――尽は琥珀を禁呪の檻から取り戻した後、半日ほど昏倒するように眠っていた。
目覚めたのは夜になってからだ。
腕の火傷が治り、動けるようになると、琥珀がいなくなっていることに気づいた。
影虎が連れ戻しにきたのかと思った。
昏倒している間、完全に意識を失っていた。
身体に触れる琥珀の体温が心地良く、消耗も相まって耐えられずに眠ってしまったのだろう。まともに眠ったのは、久々だった気がする。
その間に、影虎に琥珀を連れていかれた可能性はある。彼も一応弱小とはいえ術者だ。
しかし、狗神に居場所を探らせると、琥珀は漆間涼と共にいた。
――何も告げず、漆間涼の元に行ったのか。
漆間涼は琥珀に惹かれている。
その肌に触れ、かつて昴が陽詩にしたように、彼女を穢すかもしれない。
ならば誰より先に手に入れてしまおうと考えた。
甚振り泣かせ、懇願させて囲い込み、自分のものにしてしまいたかった。
冷静ではなかった、というのは言い訳だ。
あの時は確実に、自分の意思でそうしようとしていた。
「八津房、あの時私の元に来たお前は、本来ならば死ぬ筈だった。私の力を与え、その体を修復したのだから、お前は私ととても近しい存在だ。わかっている筈。お前の琥珀を求める感情は、私に呼応しているだけのものだと」
那智に言われ、尽は口角を歪めた。
(そんなことは、分かっている、理解している)
だから一歩引いたところで彼女を観察するように、見ているつもりだった。
琥珀に向けた優しさも言葉も、彼女が尽と己を呼ぶ声に感じる愛しさも、どれが本当でどれが嘘なのか、自分にも分からない。
「あんたが余計な事をしてくれたせいで、俺は蜘蛛に食い荒らされた体のまま、長い時を生きる羽目になった。まったく酷い話だ」
那智は不思議そうに首を傾げる。
「死にたくないと言ったのはお前だ。土蜘蛛に復讐することを望み、生かしてほしいと懇願した。私は望みを叶えた」
それは尽が人として生きていた頃の話だ。
気が遠くなるほどの遠い昔、神楽や双樹が生きていた頃の事。
尽が琥珀に教えた自分自身の話は、半分は真実で半分は虚構だった。
かつて神楽が禁呪の贄として滝壺に身を捧げた新月の夜、尽の故郷も滅んだ。
土蜘蛛に食い荒らされた人間の、腕や脚といった残り滓が、村中に転がっていた地獄のような景色を覚えている。
「確かにあの時、土蜘蛛が村を荒らし、応戦した俺は死なない程度に体を食い荒らされた。術者なんて、あんたや土蜘蛛の前じゃ児戯のようなもんだ。全く歯が立たなかった。あいつ……土蜘蛛は、わざわざ俺に見せつけながら皆を食ったよ」
「お前が自分の話をするとは、珍しい。土蜘蛛は、……あの女は、胡蝶と言ったか。お前に執着していたようだから、お前が苦しむのが愉快だったんだろう」
「あぁ、そうだろう。あいつが特に執拗に、甚振りながら殺したのは、茉莉、……俺の許嫁だったからな」
「本来ならば、土蜘蛛が己の食料庫であるお前の故郷の人々を、唐突に皆殺しにするなどあり得ない事だ。たとえ私が封印されて、己の側の脅威がなくなったとしても、多少暴虐にはなれどそこまでの事はしない」
胡蝶とて、馬鹿ではないと、那智は考えるように言う。
封印の力が強い間は石櫃で眠り続け、起きたとしても身体の苦痛に蹲り呻いていた那智ばかり見てきたので、随分穏やかになったものだと思う。
愛しげに、眠る琥珀を髪を撫でているのが見ていられなくて、尽は視線を逸らす。
「許嫁と、婚姻の日取りでも決めたのか。胡蝶はお前が他の女を愛する事を、許せなかったのだろう。都合の良い事に、私はここに封じられた。邪魔する者がいなくなり、女を殺し、お前が大切にしている者たちを殺し、お前を苦しめる事にしたのだろうな」
「馬鹿馬鹿しい。そんな理由で……!」
「執着は人を狂わせる。その意味では、妖も人と変わらない」
「あんたもその一人だったな」
那智に皮肉を言ったものの、人の事は言えないと自嘲する。
皆を殺した後、土蜘蛛は絶望と憎しみで壊れかけた尽を暫く飼い殺すつもりだったようだ。
死にたいと思ったが、半死半生で逃げ出して那智の元へ行ったのは、復讐の為だった。
那智は封印されてしまったとは知らず岩屋に駆け込み、石櫃にいた彼を叩き起こし縋った。
『土蜘蛛を殺す理由が私にはない。お前を生かすことはできる』と、気怠げに彼は言った。憎い土蜘蛛を殺すためには死ぬわけにはいかない。何も考えず、そうしてくれと頼み込んだ。
那智は分かったと頷くと、己の血を尽に与え、すぐにまた眠りについた。
そうして尽は人間ではなくなった。
那智の言う通り、尽は死ななかった。
死ねなかった。だが、それは生きているとは言えなかった。
那智の力が僅かに戻り、石櫃から起きることができるのは、十数年に一度滝に真っ白な少女が落とされる新月の夜だけだ。
苦しげに彼は起き上がり、蜘蛛に食い荒らされ骨が覗いている尽の体に、己の血を与えることを繰り返した。
傷は僅に癒えたが、失われた肉や臓腑が戻るのに、随分と時間がかかった。
頭がおかしくなるほど長い間、尽は腐らず、虫に食われるようなこともなく、ただ動けずに石櫃の前に寝転がっていた。
時が経つにつれ、土蜘蛛への復讐心も、愛していた筈の女への執着も、徐々に薄れていく。
ひたすらに孤独で、退屈で、体を苛む痛みだけがまだ生きているのかと思い出させてくれる。
死んだほうが良かったと何度も思った。
那智に頼んでみたこともあったが、彼は面倒そうに『約束は果たす決まりだ』と答えた。
陽詩が死んだ時、代わり映えのない日々に変化が起こった。
ほんの数刻しか目覚めていられなかった那智に、力が戻ったというのだ。『漆間昴が巫を穢した』と、彼は抑揚の無い声で言った。
そして、尽の身体を完全に癒した。作り変えたといっても良い。
髪の色も、目の色も変わった。
尽は動けるようになると、ただ只管死にたかったので、那智に刃向かうことにした。
幽世でずっと待っていてくれていた狗神を彼に差し向けた次の瞬間、百足の足が腹から生えた。
腹に風穴があき、死ぬことができたと思ったが、目を開けると無傷に戻っていた。
『お前の体の大半は、私の力を使いできている。言わば私の半身のようなもの。私が望まない限り、死ぬことはできない。お前に頼みがある』と那智は言う。
――そこで知ったのだ、漆間双樹と、覡神楽の話を。
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