3 / 38
深い森と異形の夢
しおりを挟む暗闇の中、山道を抜けると、急に道幅が広くなり車数も増えた。
遠くに煌びやかな街の灯りが見える。景色の中に徐々に大きな建物が姿を見せはじめる。
琥珀の世界には、ない景色だ。
これから暫く、外で生きる。
あらためてそれを実感して、鼓動が早くなるのを感じた。
「まだ、先は長い。少し寝ていろ」
尽が気遣うように言う。
色々聞きたいことはあるけれど、なんだかとても疲れていることに気づいた。
車の揺れと、車内に流れる耳慣れない言葉を綴ったゆったりとした音楽も相まって、琥珀の瞼はいつの間にか開くことができないぐらいに、ぴったりと閉じてしまった。
――夢を、見ているのだろう。
既視感のある夢だ。
夢の中ではそれを感じるのに、目覚めると夢の内容を全て忘れていることを、琥珀は知っていた。
ここ最近、儀式の日が近づくにつれてそれは顕著だ。
琥珀は森の中を歩いていた。
木々の隙間から日差しが差し込む、明るい森だ。
砂利が敷かれた申し訳程度の細い道を、より木々が生い茂る方へと進んでいく。
行かない方が良いのではないかと、思っている。
けれど夢の中の琥珀は足を止める気はないようで、躊躇なく真直ぐに森の奥へと進んでいた。
ざぁざぁ、ごうごうと鳴っているのは、水の音だ。
滝壺があるのだ。
奥へ奥へと進むにつれて、霧が濃くなり、視界も足場も悪くなっていく。
水の音は次第に強くなり、目的地が近いことを知らせてくれる。
「……神楽」
愛し気に、声が鼓膜を撫でる。
少し掠れた男の声は、鳴り響く滝の水音の中でも、まるで静寂の中名を呼ばれているような錯覚を感じるほどに近い。
近い。近いのだ。
琥珀はびくりと身を竦ませた。
するりと両腕が、琥珀の体に絡みつく。金縛りにあってしまったように体が動かない。
背後から、吐息が首筋にかかる。抱きすくめられている。絹のような肌触りの黒い着物が、さらりと体を撫でた。
誰かが、琥珀の体に凭れかかる様に、首筋に顔を埋めている。
男の着ているものと同じようなさらさらとした長い黒髪が、顔にあたる。
「待っていた。長い間。気が触れる程、長い間」
腰を抱いている腕に力が籠る。
ふと、腕の数がどうにも多いことに気づいた。
体が動かないため、視線だけをどうにか向けると、それは腕ではなかった。
大きな、硬い何か。
それは足だ。
「……ようやく、お前を私の元に」
琥珀の身長と同じぐらいあるかと思われる、巨大な百足の足が体中に纏わりついている。
悲鳴は喉の奥で凍り、息だけを飲み込んだ。
私は。
私は――
「神楽」
もう一度名前を呼ばれる。
呼吸が促迫し、頬が染まる。
どういうわけか――この異形の姿をした男に食べられたいと、心の底から望んでいた。
目覚めると、何故だか悲しい気持ちだった。
白い壁と白い天井が目に入り、琥珀はゆっくりと体を起こす。
いつもの畳敷きの四角い部屋ではない。柔らかいベッドの上だ。
小さい棚の上には、手のひらサイズの観葉植物が並んでいる。
壁に掛けられた時計は六時を示し、部屋の明るさから朝だということがわかる。
車の中で眠ったことは覚えている。
それから朝まで目覚めなかったらしい。
琥珀は警戒した猫のようにそろりとベッドから降りると、眠っていたせいで乱れた着物を整える。
かちゃりと扉を開き、隙間から外の様子を伺った。
フローリングの廊下に、扉が二つ。その先には、広い空間があるようだ。
琥珀のいる場所より明るいので、電気がついているのだろう。立ち止まっていても仕方ないのでそちらに向かうと、キッチンに立っている尽が琥珀の姿を見とめ顔をあげた。
「起きたか」
「ここは?」
「俺の家。寝てたのは、お嬢さん用の部屋だからベッドは綺麗だよ」
「私の、ベッド……」
感慨深げに琥珀は呟く。
琥珀の物。その言葉は初めてだった。
今まで琥珀の持ち物といえるものといえば、自分の体ぐらいのものだったからだ。
立ち止まっている琥珀の躊躇いに気づいたのか、尽は困ったように少し笑った。
「安心しろ、寝てるお嬢さんに何かする程、俺は飢えてない」
「あなたに殺されるとは思っていないけど……」
「俺がお嬢さんを殺してどうするんだ」
尽は肩を震わせてひとしきり笑う。何が面白いのか分からないが、良く笑う男だと思う。
「そんな事より、体、気持ち悪いだろ? シャワーを浴びて着替えてこい。色々話したいことはあるだろうが、まだ時間はあるんだ。焦ることはない」
「……着替え」
「まさか一人で風呂に入って着替えもできないとかいうのか? 一緒に入った方が良いのか?」
「できる。大丈夫。着替えが、無いと思って」
琥珀は首を振ると、困ったように眉を寄せた。
「あぁ、それなら部屋のクローゼットに入ってる。適当に買っておいたから、適当に着ると良い」
「……ありがとう」
白い着物以外の洋服を着るのかと思うと、妙に心が逸った。
琥珀はこくりと頷くと、急いで部屋に戻り、壁にあった扉を開く。
そこには色とりどりの洋服がハンガーにかけてあり、その下の棚には、下着などが並んでいた。
クローゼットの前で暫く悩み、飾り気の少ない群青色のワンピースを手に取る。着替えを持ってリビングに戻ると、「風呂はあっち」と尽が指さすので、言われるままそちらに向かった。
琥珀のいた隠家は、石造りの湯舟と木製の木桶がある古めかしい風呂だった。しかし尽の家は、真っ白い室内に、真っ白い風呂。おっかなびっくり蛇口をひねると、頭上から温かいお湯が滝のように落ちてきたので、琥珀は小さく悲鳴を上げる。
驚いて並んでいた洗髪剤のボトルを床に落としてしまい、けたましい音が浴室に響いた。
「大丈夫か?」
心配になって見に来たのだろう、扉の向こうから尽の声がする。
「大丈夫」
内心とても慌てていたが何とかそれだけ返すと、納得したのか足音が遠ざかっていった。
生まれて初めて風呂に入る幼子になってしまったようだ。
おぼつかないながらになんとか風呂をすませると、洋服に着替えた。
鏡に映る自分がまるで知らない人間のようで、琥珀は首を傾げる。
浴室を後にしリビングに戻ると、テーブルの上にパンやコーヒーが並んでいた。
「あぁ、可愛いな琥珀。良く似合う」
じっくりと琥珀の姿を見た後、尽は穏やかにそう言った。
可愛いのだろうか。
可愛いとは、どういう意味だろう。
琥珀は内心首を傾げる。
言われたことのない言葉だ。よくわからない。
「着物は捨てさせて貰うぞ。あれは贄の衣装だろう。ろくでもない。まぁあれはあれで、似合ってはいるけどな」
「ありがとう、尽。……どうやって返せばいいのか」
「気にするな。好きでやってるし、これからも好きで世話を焼かせてもらう。だから、お前は黙って世話を焼かれていれば良い」
リビングの中途半端な位置で立ち止まっている琥珀の腰に手を回すと、尽はダイニングテーブルの椅子に座る様に促す。
礼儀正しく腰かけた琥珀に満足げに目を細めると、自分もその前に座った。
「さぁ、飯にしよう。お前が知りたいことを、ついでに話してやる」
焼かれたパンの上にバターが溶けて、香ばしい香りが鼻腔を擽る。
頂きますと小さく言って、琥珀はそれを千切り口に入れた。
甘い。
静かにパンを千切って口に運んでいると、黙って琥珀の姿を眺めていた尽が口を開いた。
「……どうにも、先送りにしたい気分だが、そういう訳にもいかない。百足と巫の、どうしようもなく愚かな昔話をしようか」
琥珀は口に入れたパンを飲み込むと、頷いた。
0
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
白い結婚三年目。つまり離縁できるまで、あと七日ですわ旦那様。
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
異世界に転生したフランカは公爵夫人として暮らしてきたが、前世から叶えたい夢があった。パティシエールになる。その夢を叶えようと夫である王国財務総括大臣ドミニクに相談するも答えはノー。夫婦らしい交流も、信頼もない中、三年の月日が近づき──フランカは賭に出る。白い結婚三年目で離縁できる条件を満たしていると迫り、夢を叶えられないのなら離縁すると宣言。そこから公爵家一同でフランカに考え直すように動き、ドミニクと話し合いの機会を得るのだがこの夫、山のように隠し事はあった。
無言で睨む夫だが、心の中は──。
【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】
4万文字ぐらいの中編になります。
※小説なろう、エブリスタに記載してます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる