あなたのつがいは私じゃない

束原ミヤコ

文字の大きさ
上 下
31 / 56

一年後の春

しおりを挟む


 メルティーナは、粉挽き小屋でひかれた小麦粉をもって家に戻った。
 春風の心地よい日である。メルティーナの以前よりものびた髪や、身につけているエプロンを風が揺らした。
 小川の側の小さな家である。一階には可愛らしいキッチンやリビングがある。二階には寝室だけ。
 森を背にしている小さな村の外れ、森の小道を進んだ先に、その家は建っていた。

 かつてはジュリオの遠縁の親戚夫婦が住んでいたが、病で亡くなったあとは手つかずで放置してあった場所だ。一年前、ジュリオはこの家にメルティーナを逃がした。
 幾ばくかの金を与え、村の者たちにメルティーナのことを『ジュリオの血縁で、わけありの不幸な娘』と説明をした。
 人のいい村人たちはそれを信じ、何かとメルティーナの世話を焼いてくれた。
 
 メルティーナが村に馴染むまでは少し時間がかかったが、今はすっかり一人で生活することができるようになっていた。
 元々メルティーナは物覚えのいいほうだった。裁縫や編み物も得意で、細々した手作業が好きだったのである。
 
 メルティーナはよく働いた。言われたことはなんでもやったし、一つも文句を言わなかった。
 ──体を動かしていたほうが、余計なことを考えずにすんだからだ。

 何もしていないと、ディルグのことばかり考えてしまう。
 彼と過ごした日々。彼の声。体温や、香り。
 思い出にひたり、思い出に溺れ死にそうになる。
 だから、寝る間を惜しんで働き続けた。

 畑も耕したし、女性たちと一緒に糸紡ぎや機織りも手伝った。
 料理も手伝い、粉ひきもしたし、荷運びもした。
 そうして──今では、粉ひき小屋の女主人に請われて、パン作りするようになっていた。

 パン生地の中に、甘芋やゴマや、チーズ、ナッツ類などを練り込んで焼くメルティーナのパンは、村では人気だ。焼き上がりを女主人の元に届けると、それを売ってくれる。
 メルティーナはさほど金を必要としていなかったが、女主人は売上金の六割をメルティーナにくれた。

 パン作りを仕事にすると、メルティーナの日々は更に忙しくなった。
 昼過ぎに挽き終わった小麦粉を取りに行き、それから卵や他の材料を買いに行く。
 パン種を切らさないように管理して、暗くなる前には眠ってしまう。
 朝は日が明けやらぬうちから起きて、パン生地を作り発酵させて、釜に火を入れて焼く。
 
 貴族令嬢だったときとはまるで違う暮らしだ。
 充実は──していると言えば、嘘になってしまう。

 何をしていても、どれほど忙しくても、誰かに親切にしてもらっても──。
 メルティーナの心にはぽっかり穴があいていた。

 その穴を埋めるのは、ディルグと愛し合った思い出だけだ。
 けれど──。

「メルティーナ、最近はどうだ? 体は、壮健か」

 小麦粉の袋を持って家に戻ると、家の前にジュリオが佇んでいた。
 彼に会うのも久しぶりだ。メルティーナを逃がした手前心配だったのだろう、時折様子を見に来ていたが、最近は足が遠のいていた。

「ジュリオ様、お久しぶりです」
「あぁ」

 どちらかといえば寡黙な男である。
 メルティーナから小麦粉の袋を何も言わずに取り上げて、持ってくれる。
 メルティーナはジュリオを家の中に案内した。ディルグ以外の男性と二人きりになることに抵抗がないわけではなかったが、世話になった手前、冷たくあしらうことなどできない。

 リビングには暖炉と二人がけのソファと小さなテーブルがある。
 それぐらいしかない家だ。長らく放置されていたために、かつてあった家具はほとんど摩耗していたので、捨ててしまった。テーブルやソファは村の者たちからもらったものだ。
 
 ジュリオをソファに座らせて、メルティーナは薬草茶を淹れた。
 家の周囲は森だ。探せば色々とある。お茶になる葉も、薬になる葉も。
 
「お口にあうかわかりませんが」
「ありがとう、メルティーナ」
「いえ、たいしたおもてなしができず、もうしわけありません」

 メルティーナは一人がけ用の椅子をキッチンから持ってくると、ジュリオの傍に座った。
 
「いや。以前贈ったものを、気にいってくれたようでよかった」
「あ……ありがとうございます。ホワイトローズの香水、私のお気に入りでした。よく、ご存じで」
「殿下の傍にずっといたからな。それぐらいは、わかる」

 数週間前、王都から配達人によって小包が届いた。
 そこには、メルティーナが好んでつけていたホワイトローズの香水が入っていた。
 村では香水など手に入らない。懐かしく思い、枕にひとふりした。
 
 それから、ソファやクッションにも。
 体につけるのははばかれたので、それはしなかった。
 部屋に香りが残っているのだろう。気づかれてしまったことが恥ずかしく、メルティーナはうつむく。
 
「先に、お礼を言うべきでした。申し訳ありません」
「構わない。迷惑ではなかったか」
「なんだかとても懐かしくて、嬉しかったです」

 ジュリオは一口薬草茶を口にして、軽く眉を寄せた。おそらく苦かったのだろう。
 メルティーナにとっては慣れた味だが、今もディルグの傍で働いているジュリオの口には合わないのかもしれない。

「メルティーナ、殿下とヴィオレット様の結婚が決まった」
「そう──ですか」

 メルティーナは、曖昧に微笑む。
 わかっていたことだが、それを告げられると、針で刺されたように心が痛んだ。
 本来ならば今頃は──メルティーナは学園を卒業して、ディルグと暮らすことができていた。
 けれどその相手はヴィオレットになった。
 覚悟はしていた。けれど、やはり──痛い。

「お二人にお子が生まれれば、もう殿下が君に執着することもなくなるだろう。今ではすっかり大人しくなられて、君の名を口にすることもなくなった。つがいという血の本能に従ったのだろうな」
「そうなのですね。……よかったです」
「よかったという顔ではない。……ここには私しかいない。本心を口にして構わない」

 淡々と、ジュリオが言う。
 メルティーナは唇を噛みしめた。笑顔を取り繕わなくてはいけない。
 何でもないふりをしなくてはいけない。
 覚悟を決めて、何もかもを捨ててここに来たのだ。
 苦手だったが、メルティーナの世話をよく焼いてくれた侍女にも何も告げず、優しい兄にも何も告げずに──そして、ディルグにも、何も言わずに。

 ぼろりと、涙がこぼれおちた。
 自分でも意識していなかった。こらえることができたと思っていた。
 そのせいで、膝の上に置いた手の甲に落ちた雫がなんなのか、メルティーナには一瞬わからなかった。

「……私は、ずっと。それでもずっと、ディルグ様が好きです」
「あぁ」
「でも……少しずつ、忘れていくのです。どんな声をしていたのか、どんな表情で笑うのか、その手のあたたかさも、全て。お父様やお母様の記憶が薄らぐのと同じように、何よりも、誰よりも大切なのに。愛しているのに。忘れてしまうのです」
「……そうか」
「それが、怖い、です」

 ディルグの思い出だけを、愛だけを灯火に生きてきた。
 メルティーナの心の穴を埋めるのは、それだけだった。ほかになかった。
 それさえ忘れて失ってしまって。
 時が経って摩耗した家具のように。

 そうしたら──メルティーナには、なにもない。
 ディルグの記憶さえ失ってしまったら、生きる意味を、なくしてしまう。

「ディルグ様の幸せを望んでいます。けれど、私は身勝手です。私の愛はかわらないと。心は自由だと、勝手に愛し続けていたのに。それも、忘れてしまう。そうしたら、私は……」
「メルティーナ。……殿下が君への執着をなくしたら、君は自由になれる」
「自由……」

 ジュリオは身を乗り出して、メルティーナの手を掴んだ。
 そんなことをされるのははじめてで、メルティーナは戸惑いと驚きの表情でジュリオの顔をまじまじと見つめる。

「……メルティーナ。新しい人生を選ぶべきだ。例えば、私と。……一緒に、来ないか」
「ジュリオ様と……?」
「あぁ。……殿下には、私が君を逃がしたことは言っていない。私はただ、君の閉じ込められていた部屋の鍵を、君に請われて開けただけだと伝えた。殿下は疑っていたが。だから、君と私が会っていることを、殿下は知らない。君を王都に連れて行くわけにはいかないが、どこか別の場所で二人で暮すことはできる」

 ジュリオはそこで言葉を止める。
 それから、メルティーナの前の床に片膝をつく。メルティーナの手を、両手で包み込むように握りなおした。

「──私は君を哀れに思った。君が死を選ぶのではないかと疑い、君を監視していた。だが、君はこの一年ずっと、一人きりで頑張り続けていた。……そんな君に、私は、恋を」
「……っ」
「考えてくれ、メルティーナ。君を幸せにできる男は、殿下ではない。人獣と人間は、幸せにはなれない。私は君と同じ、人間だ」

 ジュリオは真剣な声音でそう言って、メルティーナの手の甲に口付ける。
 それから立ち上がって「返事は一週間後、きかせてもらう。また来る」と言って、家から出て行った。

しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

番を辞めますさようなら

京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら… 愛されなかった番 すれ違いエンド ざまぁ ゆるゆる設定

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】大好き、と告白するのはこれを最後にします!

高瀬船
恋愛
侯爵家の嫡男、レオン・アルファストと伯爵家のミュラー・ハドソンは建国から続く由緒ある家柄である。 7歳年上のレオンが大好きで、ミュラーは幼い頃から彼にべったり。ことある事に大好き!と伝え、少女へと成長してからも顔を合わせる度に結婚して!ともはや挨拶のように熱烈に求婚していた。 だけど、いつもいつもレオンはありがとう、と言うだけで承諾も拒絶もしない。 成人を控えたある日、ミュラーはこれを最後の告白にしよう、と決心しいつものようにはぐらかされたら大人しく彼を諦めよう、と決めていた。 そして、彼を諦め真剣に結婚相手を探そうと夜会に行った事をレオンに知られたミュラーは初めて彼の重いほどの愛情を知る 【お互い、モブとの絡み発生します、苦手な方はご遠慮下さい】

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

処理中です...