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番外編

王子様と森に行く私 4

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 私は川の中に下半身をひたして唖然とした。
 岩場から川までの段差は然程ないので怪我はないのだけれど、スカートも靴も下着もびしょ濡れである。
 秋の川の水の冷たさが体を凍えさせる。釣竿がどこかにぶつかったらしく折れてしまい、釣り糸にぐるぐる巻きになった私の顔ぐらいありそうな蟹さんが、じたじたと川の中で暴れている。

「アリシア!」

 ざばざばと川に躊躇なく入って、レイス様が私を助け起こしてくれる。
 それから濡れ鼠のようになった私の体を軽々と抱き上げた。
 衣服が体にぺたっと張り付いて気持ち悪い。そして寒い。
 水から出ると涼しかった筈の風が、まるで雪山に吹き荒ぶ冷風のようで、がたがたと震えた。
 私を抱えて、ついでに釣竿も拾い上げてくれたレイス様は、私を暖かい火がぱちぱちと燃えている焚き火の前へと降ろしてくれた。
 落ち葉の上に私の持参した膝掛けが敷かれていて、ふわふわして座り心地は良い。
 震える体を抱きしめるようにして座り込む私の横へ、釣竿を置いたレイス様も座った。
 二つに折れた釣竿の釣り糸に絡み付いた蟹さんがじたばたした。

「大丈夫、アリシア? 怪我は?」

 レイス様が震える私の体を引き寄せながら、心配そうに尋ねる。
 情けなくて、不甲斐なくて、視界が潤む。じわりと涙が滲んだ。

「釣竿には魚がかかるものと、思っておりましたの。かに、でしたの……」

 蟹、という生物を見たのは生まれて初めてだ。
 絵などでは見たことがあったし、調理済みの蟹の身だけはお料理として食べたことがあったけれど、実際に見るとものすごく奇妙な形をしている。

「吃驚したよね。アリシア、怪我があったら嫌だから、治癒魔法をかけるよ」

 多分怪我はないと思うのだけど、レイス様は治癒魔法で私の体を癒してくれた。

「こういう時に魔法を使うのって、違うような気がするんだけど、ごめんね」

 レイス様はすまなそうに言った。
 私とレイス様を泡玉のような膜が包み込む。ぶわっと、暖かい温風が私たちの体を撫でるようにして膜の中を吹き抜ける。
 春の日差しの中で寝そべっているような心地良さと共に、濡れそぼった服も靴も、綺麗に乾いてしまった。
 炎魔法と風魔法を組み合わせた魔法のようだった。
 濡れ鼠だった私もズボンとマントを濡らしていたレイス様も、何事もなかったようにさっぱり乾いた。
 冷たくも寒くもなく、炎の前に座っているとほんのりと温かい。
 レイス様は、隣に座って私の肩を抱いたまま、困ったように微笑んだ。

「つい、魔法で解決しようとしてしまうよね。森での生活の醍醐味をなくしてしまっている気がする。ごめんね、アリシア」

「何故謝りますの? レイス様の力はレイス様の努力と才能の賜物ですわ。私にはできないことですし、凄いと思いますわ。魔法で解決できるのは、レイス様であればこそ、ですのよ」

「うん、ありがとう。……川に落ちる前に、助けられなくてごめん。まさか、落ちると思わなくて」

「私も落ちると思いませんでしたわ」

「見事に落ちたから、吃驚したよ」

「颯爽と助けに来てくださったレイス様、素敵でしたわ。私、一生の思い出にしますわね」

 体が乾いて、あたたかくなったことで元気を取り戻した私。
 薪集めも火起こしも、釣りもあんまりうまくいかなかったけど、助けに来てくれたレイス様にお姫様抱っこをしていただいたので、落ち込みかけていた気持ちが嘘みたいに無くなった。
 レイス様の輝きの前に、私の些細な失敗なんて取るに足らないものに思える。
 私の立ち直りのはやさも私の良いところだ。セリオン様が「アリシア様はいつも前向きでとても良いですね」と褒めてくれるので、長所だと思って良いと思うの。

「一生の思い出にしなくて良いよ。アリシアに何かあったら、俺は必ず助けに行くし……、今回は少し遅かったけど。気づいたら、アリシアが、蟹! って叫んでいて、何事かと思ったら落ちていたんだ」

「蟹さんが釣れてしまったせいですの。蟹が釣り針にかかるだなんてお父様は教えてくださいませんでしたわ」

「蟹……、蟹がね……」

 レイス様は堪えきれなくなったように、口元を押さえて笑い声をあげた。
 声を出して笑うことの少ないレイス様だけれど、私と一緒にいる時は最近よく笑っているような気がする。
 レイス様が楽しそうだと私はとても嬉しくて、笑ってくださるなら川に落ちてよかったなと思う。
 転落冥利に尽きるというものだわ。

「あぁ、ごめんね、アリシア。本当に釣り糸に蟹が絡まっているから、面白くて。アリシアは酷い目にあったのに、笑ってしまって……」

「楽しい時は笑ってくださいまし。私、レイス様の笑い声がとても好きですわ! レイス様が楽しんでくださるのでしたら、何回でも川に落ますわ!」

「ありがとう。でも、落ちなくて良いよ。アリシアが怪我をするのは嫌だし、落ちたことについては心配だったんだよ」

 私が胸の前で両手を握りしめて意気込むと、レイス様は私の頭を撫でてくれた。
 しばらくうっとりしていた私だけれど、未だに落ち葉の上でもがいている蟹さんの姿に気づいて、レイス様をじっと見つめた。

「蟹、食べられますでしょうか」

「……そうだね、食べることはできなくはないと思うけれど……、煮てみる?」

 お鍋でグツグツ煮込まれている蟹さんの姿を想像して、私は青褪めた。
 蟹さんのつぶらな黒くてまんまるい瞳と目があったような気がした。

「……とても辛いですわ」

「そうだね、食べるところも然程なさそうだし、逃そうか」

 レイス様はそう言うと、軽く蟹さんに向けて手をかざした。
 体に絡まっている糸がばらばらと切れて、蟹さんはもがきながらも川に向かって逃げていった。
 私はほっとした。何にせよ、生きているものを焼いたり煮たりして食べることは、なかなか心に来るものがある。
 私がこんなに優しくて繊細な女だったなんて、今まで知らなかった。森に来てみるものである。改めて自分自身の優しさを知ることができる。
 といっても調理済みのお肉料理やお魚料理は美味しくいただくのだけれど。やっぱり、生前の姿を見てしまうとどうにも食べることはできそうにない。

「私、失敗ばかりですわ。……森での暮らしというのは、大変なものですわね。……もう既に、お風呂に入りたいですし」

「川に落ちたからね。魔法で乾かしたといっても、汚れが落ちるわけじゃないし」

「紅茶も飲みたいですし、お菓子も食べたいですわ。せっかく二泊三日でレイス様とお出かけができるというのに、私、何をしているのでしょうか……、旅行……、ちゃんとした宿泊所に泊まる旅行の方が、良かったかもしれませんわ。温泉などがある地域での、旅行……」

「……それは、とても魅力的な気がする。俺としては、アリシアと一緒ならどんな場所でも嬉しいけれど」

 レイス様が同意してくださったので、私はレイス様の手をぎゅっと握りしめて、何かを訴えかける視線を送った。
 森の中で二人きりなのは当然嬉しいのだけれど、私は大自然に向いていない。
 この数時間で、十分なぐらいに思い知った。
 どこを向いても木と落ち葉しかないし、視線を落とすと落ち葉の中に小さな蟻さんたちが歩いていて、その姿を見つけてしまうたびに鳥肌が立った。蟻さんが悪いわけじゃない。私は虫全般が嫌いなのだ。気持ち悪いから。
 川で泳ぐ魚も食べるのは忍びないし、ふわふわの動物を食べるなんてもっての他だし、そのあたりにある木の実などを口にするなんてお腹を壊しそうで非常に嫌だ。美味しくなさそうだし。

「レイス様、……私、お城に帰りたくなってしまいましたわ。……ゆっくりお風呂に入って、素敵なドレスを着て、レイス様と一緒に夕暮れの庭園を散策したいです。……駄目ですか?」

 来たばかりで帰りたいと言うとか、とんだ我儘女じゃないかしら。
 けれど私は正直にそう伝えた。
 無理なものは無理。できないものはできない。一晩森の中で過ごすとか、せっかくレイス様と二人きりの時間なのに勿体なさすぎるのではないかしら。
 レイス様の無駄遣いだわ。私のせいなのだけれど。もっと有意義な時間の使い方はいくらでもあったはずなのに、勿体ないことをしてしまった。

「良いよ。……実は、アリシアがそう言うんじゃないかなと思って、街道に馬車を待たせてあるんだ。今すぐにでも帰れるよ」

 レイス様は秘密を共有するように、密やかな声で言って、悪戯が成功した子供みたいに笑った。

「レイス様……! レイス様は私のことを、なんでもわかってらっしゃいますのね! 大好きですわ!」

 私はレイス様に抱きついて、その首に自分の頬を擦り付けた。
 そうとなれば、今すぐにでも帰りたい。森をこよなく愛する方々には悪いけれど、人には向き不向きというものがあるのだ。
 私には向いていない。
 それにこの森には言葉を話す可愛い動物たちはいない。虫とか蜥蜴とか蟹はいる。
 もう十分彼らの姿を見ることはできたので、それなりに勉強にはなったかなとも思うし、私は結構頑張った気がするし。

「……このまま温泉旅行に行っても良いけれど、カリスト公爵に怒られる気がするから、やめておこうかな」

「お父様がどうかしましたの?」

「なんでもない。帰ろうか、アリシア。城に、アリシアの好きなアップルパイを準備してあるよ。帰って、一緒に食べようか」

「レイス様、愛しておりますわ!」

 今日一番元気な声が出た気がする。

「俺も、アリシアが大切だよ。何よりも」

 レイス様は抱きついている私の背中に手を回して、宝物を扱うようにそっと抱きしめ返してくれる。
 ーーそうして、私たちは帰路についたのだった。
 私たちを心配して帰りを待っていたリュイとセリオン様に「帰ってくるの、早すぎませんか」と言われて呆れられたけれど、私は悩みが少なくて前向きな女なので「蟹を釣りましたわ!」と胸を張って答えた。
 リュイもセリオン様も蟹を釣った経験はないに違いない。
 不思議そうに「蟹?」と繰り返す二人の姿を見て、レイス様がまた楽しそうに笑ってくれたので、森もそう悪くはないかなと思う。
 ーー多分二度と、行かないけれど。

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