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 夜半過ぎに目覚めてしまったのは、このところ毎日隣にあった温もりが消え失せていたからだろうか。
 薄く開いた私は「ルカ様……?」と小さな声で呼びながら手を伸ばした。
 いなくなってからどれぐらい経っているのだろう。さらりとした手触りのシーツはつめたくて、人の気配さえ残っていなかった。
 月明かりが窓から差し込んでいる。自分の呼吸さえうるさいぐらいの静寂の中、私は体を起こした。
 暗闇に目が慣れてしまえば、星と月明かりだけで十分に夜目がきく。
 そろりとベッドから足を降ろして、羊毛でできた足首まである室内履きに足を通す。夜着用の背中までの短いふわりとした灰色のマントを羽織ると、私は部屋を出た。
 暗闇に支配された石造りの長い回廊は、遠い昔に眠りについた石廟の中に迷い込んでしまったようだ。夜になると、まだかなり肌寒い。むき出しの足がなんだか心許ない。
 ルカ様は大人なのだから、夜中にひとりで起きる事もあるだろう。例えば水を飲んだり、お酒を飲んだりもするかもしれないし、眠れないから本を読んだり、仕事をしたりするかもしれない。
 正面の政務室の扉を開いてみたけれど、誰もいなかった。
 ルカ様がどこかに行ってしまったからといって、探す必要はないだろう。
 ひとりの時間を持ちたいのかもしれないし、探すのはかえって迷惑かもしれない。
 それでも部屋に帰り、ベッドに戻る気にはならなかった。
 エミリアの声が耳に残っている。必ず私を街から追い出すと言っていた。
 エミリアからはクラーラと同じ気配を感じた。
 敵視するにはきっと相応の理由がある筈だ。私の噂が気に入らないと言うだけで、あれ程の言葉をぶつけるものなのだろうか。よく知りもしない私や鈴音をあれ程嫌悪し憎むことができるのだろうか。
 もしかしたらエミリアは、ルカ様のことが好きなのかもしれない。
 そう思うと、エミリアの行動に納得がいくような気がした。
 だとしたらエミリアは――ルカ様に会いに来るのではないのかしら。今日のことをルカ様に泣きついて、私を悪者に仕立て上げようとするのではないかしら。
 クラーラが、メルヴィル様によくそうしていた。
 『お姉様は嘘吐き』『お姉様は酷い人』『実の母親を亡くしたから、心を病まれている』幾度クラーラのそうした言葉を聞いただろう。メルヴィル様ははじめから全て信じていたわけではないと思うけれど、いつしか私が否定をしたり弁解をするほどに、クラーラの言葉は真実味を帯びてきてしまった。
 メルヴィル様もはじめは私を大切にしようとしてくれていたのに。
 ルカ様も。
 ルカ様は私を大切にしてくれている。でも、もしかしたらという不安が影のように付きまとっている。
 城の中では私の知っている場所の方が少ない。
 一階に降りて調理場の方へと向かう。
 念のために確認してみたけれど、調理場にも食堂にも、ルカ様の姿はない。
 私は二階に登る階段のあるホールの前で足を止めた。
 ――か細い悲鳴のような声が、聞こえた気がした。
 ホールには二階に登る階段しかない。けれどその声は私の足元から響いている気がした。
 空耳かと思えるほどに小さな声だ。城に居るのが私ひとりじゃなかったら、ここまでの静寂があたりを支配していなかったら、きっと聞き逃していただろう。
 部屋に戻るべきだという私と、――真実を知るべきだという私が、心の中で葛藤をする。
 軽く唇を噛んだ。部屋に戻り、ベッドに入って眠ってしまえばきっと、安寧で穏やかな日々を続けることができるだろう。けれど、向き合わずに逃げ続けてしまえば、いつかきっと空虚さに心を蝕まれることになる。
 些細な嘘が、隠し事が、私とメルヴィル様の関係性を破綻させた。
 私はきっと変わらなくてはいけない。
 虚勢ではない強さを手に入れなくてはいけない。そうしなければ、ルカ様は私の目を両手で塞いで、私を全てから守ろうとし続ける。
 それではきっと、いけない。私はそれほど、弱くはない。弱くはなかった筈だ。
『誠実で優しく、凛としていて』
 お母様は最後に私にそう言った。誠実さとは嘘をつかないこと。優しさとは、全てを受け入れること。凛とするとは、折れない強さを持つということ。
 私はきっとそんなふうになることができる。
 だから、気付かないふりをしてはいけない。目を背けてはいけない。
 二階に上がる階段の下の床や壁を探った。
 手のひらで質感を念入りに確かめると、階段の丁度裏側に壁と同化している扉があることに気付いた。
 鍵はかかっていない。
 開いてみると、小さな小部屋があった。殺風景な小部屋の奥に、もう一つの扉があった。
 音を立てないようにゆっくりと扉を開くと、階下に続く螺旋階段をみつけることができた。
 螺旋階段の下には、蝋燭の灯りが燈り橙色に光っている。
 私は階段を降りた。細い悲鳴が徐々に近づいていく。

 それは広い地下室だった。
 壁には等間隔でランプが並んでいるけれど、灯りは燈っていない。
 橙色の灯りは地下室の更に奥から照っているようだった。地下室からは微かな水のにおいがする。

「……俺のマリィを貶める言葉をはいたそうだな。……いつかは醜悪さを曝け出すと思ってはいたけれど、案外早かった」

 ルカ様の声が聞こえた。
 私は息を殺しながら、灯りの方へと壁伝いに近づいていく。
 羊毛でできた室内履きが、足音を吸収してくれて良かった。秘密を探ろうとしている罪悪感と不安と緊張で、鼓動が早くなる。促迫する呼吸を、そっと飲み込んだ。
 地下室の奥には、牢獄と思われる鉄製の檻がいくつも並んでいる。
 伽藍洞の檻の前をいくつか通り過ぎ、人の気配を感じて私は足を止めた。
 檻の一つに――ダイス伯爵の姿があった。
 目隠しをされているけれど、それは忘れもしない私を襲ったあの男だった。
 ダイス伯爵は両手両足を板敷きの台の上で広げるように四隅に縛られて、ぽたんぽたんと足先から下に置かれた甕の中に血を滴らせていた。
 じたじたと足をもがれた虫のように暴れるダイス伯爵の口は、叫び声があげられないようにだろう、糸で縫い付けられていた。

「……っ」

 私は両手で口を押えて、息を呑む。

「ルカ様、……どうかお許しを……! ルカ様はあの女に騙されているのです、あの女は……、ルカ様を可哀想だと言いましたわ! 自分ような者に溺れるなんて可哀想だと……、戦場の悪魔、吸血伯とまで言われたルカ様を憐れみ侮辱するだなんて、無礼なのはマリスフルーレ・ミュンデロットではありませんか! あの女は娼婦です……!」

 エミリアの恐怖と懇願が混じった声が地下室に響き渡る。

「足の爪からゆっくりと反対側に皮を剥ぐのと、頭の先から剥ぐのと、どちらが綺麗に皮が剥げると思う? 俺は常々、どちらが綺麗に人の形を保ちながら皮を剥ぐことができるのか、試したいと思っていたんだ」

「いやあぁ……っ!」

 耳を突き刺すようなエミリアの悲鳴と泣き声に、私は息をひそめるのをやめて思わず走り出していた。
 怖くはない。私はルカ様が、優しいだけの方ではないとずっと気づいていた。
 ダイス伯爵の牢のすぐ横の広い部屋には、鈍く光る剣や小刀や、ぎざぎざした刃物、工具のようなものがテーブルの上に並んでいる。水のにおいは広い部屋よりももっと先からだ。小舟が浮かぶぐらいの広さのある水路がひかれているようだった。
 武器のある広い部屋の中心には、天上から伸びる草にエミリアが繋がれていた。
 彼女はぼろぼろと顔中から溢せる全ての液体を溢していた。赤いドレスが乱れ、暴れたのだろうか所々裂けて白い足がむき出しになっている。
 足はかろうじで地面についている程度で、手錠に繋がれた手で体重が支えられ、手首には赤い筋がつき薄く血が滴っていた。
 昼間見たような美しさはなくなり、ぼろぼろになって恐怖に震えていた。
 ルカ様は私の隣に眠っていたままの姿で、エミリアの前に立っている。
 蝋燭の灯りに黒い髪が照らされるのが、場違いに綺麗だと思った。
 黒に金糸のある漢服の背中に向かって私は話しかけた。

「ルカ様!」

「……あぁ、マリィ。起きてしまったんだね。……女が騒ぐから、眠れなかったんだね。ごめんね?」

 ルカ様は私を振り返り、いつもの優しい口調でそう言った。
 感情の失せたような瞳が、私を見る。
 私はルカ様の右手を自分の両手で握りしめた。

「ルカ様、……もうやめましょう。私は大丈夫です、ルカ様がいてくだされば、大丈夫ですから、だから……、こんなことは……」

「マリィ。人間というのはね、血と骨と肉でできているんだよ。血と肉は、腐る。一度腐ってしまえば、元に戻ることは無いんだ」

 ルカ様は動揺はしていないようだった。
 私に見られることを予想していたのか、それとも見られても何も感じないのか、どちらなのかは私にはよくわからなかった。

「だからね、マリィ。……一度君を傷つけた人間には、相応の罰を与えなければ、もう一度繰り返す。頭が腐っているから、考えることができないんだよ。それがどれ程君を傷つけたのか――俺を、不快にさせたのか」

「マリスフルーレ! お前がルカ様を狂わせたのね! お前がルカ様に頼んで、私をこんな目に……!」

 エミリアが私を睨みつけて叫んだ。
 ルカ様は徐に、懐から小さな針のようなものを取り出してエミリアに向かって投げた。
 それは彼女の頬を浅く傷つけて、金の髪の束を一房切り落とした。
 エミリアの悲鳴が再び地下室へと響いた。

「うるさいよ。……少しは黙っていられないのかな。俺はマリィと話をしているんだから、黙っていてくれないかな。……あまりうるさいと、先刻の男のように、口を縫い付けるよ」

 冷めた声音でルカ様が言う。
 私はルカ様の手を、強く握った。

「マリィ、怖いでしょう。部屋に戻って、眠って。明日になれば、いつもと同じ日常に戻る。これはただの、悪い夢。夢が覚めたら君を、傷つけた愚か者が王国から二人いなくなる。ただそれだけだよ」

「ルカ様、……私、気付いていました。吸血伯という呼び名が、ただの偽りではないこと。……私は、昔の私は、ミュンデロット家の屋根裏部屋で何度も思いました。吸血伯が、私の命を奪って――安らかな死を与えてくれないかと」

「辛い思いをしたんだね。……もう、大丈夫。俺が君を守るよ」

 ルカ様は私の頬を撫でる。
 それからそっと、額に口づけた。

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