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しおりを挟む贅を尽くした城の中央にある大ホールの中心には、ダンスを行う広い空間があり、その周囲に白いクロスのかけられたテーブルが並べられている。
豪華ながらも品のある調度品や花のいけられた花瓶が美しく、中央にある大シャンデリアには沢山の蝋燭が並び橙色の光が燈っている。
窓が少ないので陽光だけでは不十分なのだろう。それでも大小あるシャンデリアの灯りのおかげでホール全体が明るく輝いている。
私と同年代の少女たちが、緊張した面持ちでホールには並んでいる。
クラーラは知り合いがいたのかすぐにどこかに行ってしまい、アラクネアも参加している貴族男性を侍らせるようにして会話に花を咲かせているようだ。
介添え人を連れて王に挨拶を行うのが常識なのだろうけれど、私は一人きりだった。
華やかなドレスを着た貴族の少女たちに混じり、地味な服を着た一人きりの私はまるで場違いな場所に紛れ込んでしまった路地裏の鼠のようだ。
それでも、強くあらなければと自分を叱咤する。
私はミュンデロット家の唯一の正当な後継者。そう自分に言い聞かせる。
足が、震える。
私らしくもない。
私はもっと強いと思っていた。
お母様がいなくても、私の味方だった侍女がいなくなってしまっても、屋根裏に厄介払いされても、それでも平気でいられたのに。
こんな場所で一人きりで立っている自分が情けなく、恥ずかしい。
公爵家の醜聞は既に広まっているのか、大人達の幾許かの憐れみの視線を感じた。
それでもミュンデロット公爵家の権力を手にしているのはアラクネアだと皆分かっているのだろう。
私に手を差し伸べる者は居らず、アラクネアに阿り私に侮蔑の視線を送り、わざとぶつかって転ばせて恥をかかせようとする方までいる始末だ。
社交界にも、私には居場所がない。
分かっていたことだけれど、どこかで状況の変化を期待してしまっていたのかもしれない。
なんだかとても、苦しい。
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。
「……マリスフルーレ」
名前を呼ばれて、はっとして顔を上げた。
他者から滅多に名前を呼ばれない私は、その名前さえ自分のものだとは思えなくて、一瞬誰の事かわからなかった。
いつの間にか、私はホールの奥にある王と王妃様、そして二人の王子が並んだ謁見の場の前に立っていた。
大人達があんな格好で王に挨拶を行うなんてとざわめく。貴族の子供たちが、挨拶もできないのかと笑っている。
私は震える指先で、スカートの裾を摘まんだ。
凛とするのよ、私。
公爵家の青い薔薇と呼ばれていたお母様のように、せめて心は折られないように、強く在らないと。
「はじめてお目にかかります。ミュンデロット公爵家の長女、マリスフルーレ・ミュンデロットです。……以後、お見知りおきを」
簡素な挨拶ではあるけれど、他に思いつく言葉がない。
礼をして下がろうとした私に、王妃様が声をかけて下さる。
「マリスフルーレ。あなたは、ミュンデロット公爵家の正当な後継者。いつでもそれを忘れず、背筋を伸ばしなさい」
先程私の名前を呼んだ声と同じ。
王妃様が、私の名前を知っている。
それだけで、心が救われたように感じられた。足の震えが止まり、心が軽くなる。
私はなるだけ綺麗に微笑んだ。
王妃様に言われたように、堂々としていなければ。失意の中亡くなったお母様に、いつか胸を張って会いにいけるように。
「はい。……ありがとうございます」
会場のざわめきが強くなる。
権力を握っている後妻のアラクネアの子供であり、先にデビュタントを果たしていたクラーラではなくて私を後継者だと王妃様直々におっしゃったことで、貴族たちの中に動揺がみられていた。
けれど挨拶が終わり舞踏会がはじまると、そのざわめきもおさまった。
王妃様に認められていたとしても、お父様がミュンデロット公爵でいるかぎりは、アラクネアとクラーラの方が優位。社交界に集まる蠅のような貴族たちは甘く腐った蜜を吸う事に敏感で、それをすぐに理解したのだろう。
挨拶が終わって帰りの時間までやることのなくなった私は、壁際に立ってぼんやりしながら、貴族たちの話を聞いていた。
私に話しかける人はいないし、私が話に行く相手もいない。
ひとりきりだったけれど、もう足は震えなかった。王妃様の言葉が、明るく光る灯のように私の心には燈っていた。
「……東国との戦争は、どうなった?」
「いやね、優雅な社交界で血生臭い話をしないでくれない?」
「国境で小競り合いが続いていますが、我が国が脅かされることはありませんよ。対岸の火事のようなもの。気にする必要などありません」
「でも、もし攻め込まれたらどうなるのです?」
「蛮族共に栄華あるローゼクロス王国が侵略されるなど、ありえない事です。それに、あの辺境伯……」
「毎夜倒した敵の頭蓋を並べ、血を啜っていると言うあの方?」
「怖い。そんなの、人ではないわ。同じ王国民ではなく、化け物ではなくて?」
「吸血伯の領地には、そこら中に死体が転がっているそうですよ。殺した敵兵が多すぎて、埋葬する暇もないとか」
貴族の子供達のデビュタントの場には相応しくない話題に、私は注意深く聞き耳を立てた。
東国からの侵略については、お爺様の蔵書に書かれていたので知っていた。
けれど現状がどうなっているのか私は知らない。
私の日々は、色々あるものの平和だ。アラクネアとクラーラはドレスや貴金属をいくつも購入したり、家の内装を何度も変えたりしている。
料理人に高級な食材を使った料理を何皿も作らせて、ほとんど残しては捨てるのも毎日だ。
そこには戦争の気配なんて微塵もない。
「東国の者達は未だ銃も使わないらしい。床の上で寝起きをしているとか」
「まぁ、なんて野蛮なの!」
「皆さんは辺境の吸血伯を見たことがありますの?」
「社交界には一度も顔を出したことがないらしい。血のような赤い目をした、それはそれは恐ろしい姿だとか。気に入らない者の首を切り、生き血を啜ると聞いたこともある」
「なんて残酷なのかしら……、どうして国王はそんな恐ろしい方に辺境伯の地位を? 剥奪し、投獄するべきですわ」
「国境を守っているのは吸血伯だ。最早誰も手が出せないのだろうよ」
辺境伯というのは古くから国境を守る爵位である。
ゼスティア辺境伯の名前は、王国史にも何度か登場している。
東国からの侵略を幾度も押さえてくれた栄誉ある家だ。
貴族の大人たちの噂話が本当かどうかは定かではないけれど、今の辺境伯が強く恐ろしい方だということはなんとなく理解できた。
その方がいるから、私達は優雅に舞踏会を行い、歓談し、豪勢な食事を食べている。
今もその方は戦っているのだろうか。
目を閉じると、大きな鎌を持ちすっぽりと黒い布で覆われた男性の姿が浮かぶ。その姿は死神に似ている。
辺境を守る、吸血伯。
今この場所にいる貴族の大人達より、私にとってはその方の方がずっと魅力的に思えた。
「あら、お姉様! こんな場所で一人きりでいるなんて。あまりにも地味なので、壁にうつった影かと思って気づかずに、ごめんなさい」
媚びる様な甘い声に私の意識はひき戻される。
私の前に年上の青年を数人引き連れたクラーラが立っている。
「皆さん、お姉様はいつもお屋敷に籠っていて外に出たがらないの。地味なドレスばかり着たがりますし、今日だってまるで給仕人のようでしょう? 華やかな社交界が、苦手なのですよ」
クラーラは明るく良く響く声で言う。
私を心配しているよくできた妹のように、悲しそうに眉を下げた。
「お姉様の周りだけ、じめじめと梅雨時のように湿っているかのようですね。お母様を亡くされたせいか、お姉様はいつもこの調子で、とっても可哀想なのですよ! 皆さん、私の事は良いですから、お姉様の相手をしてあげてくださいな」
傍にいた青年達が、嘲るように笑う。
クラーラの腰に手をまわしながら「妹はこんなに華やかで美しいのに」と青年の一人が言った。「こんな薄暗くて陰気な女よりも、クラーラ、君が良い」ともう一人の青年が言う。
「でも、……可哀想に。デビュタントだというのに誰からも声をかけられずにひとりきりでいるなんて。俺と踊るかい? 最も、君がダンスを知っていればの話だけれど」
薄笑いを浮かべた青年が私に手を伸ばす。
腕に触れられそうになった私は、その手を思いきり払った。
寒気がする。気持ちが悪い。
ミュンデロット公爵家は、爵位だけで言えば今の状況がどうあれ王族に次ぐ位の貴族である。
彼らがどういった素性の方々か知らないけれど、無断で私に触れて良い立場ではない筈だ。
「お前のような貧相な女の相手などしたいはずがないだろう。折角哀れんでやったのに、何だその態度は。調子に乗るな!」
手を払われた青年が、私の腕を捻りあげる。
私は痛みに顔をしかめながら、その青年を睨みつけた。
悔しかった。
どんなに強く在ろうとしても、腕力では男性には敵わない。
ミュンデロット公爵家の長女という肩書があるだけの、何も持たない無力な自分が腹立たしかった。
「……やめろ。見て居られない」
私を掴んでいた青年の手が、軽々と払われる。
そこにいたのは、先程壇上に並んでいた二人の王子の一人、第二王子のメルヴィル様だった。
メルヴィル・ローゼクロス様。
国王に似た赤みがかった金髪と、涼し気な水色の瞳を持つ方で、どちかというと繊細な雰囲気のあった第一王子のルネス様よりも快活そうな印象の方である。
「先程我が母が、マリスフルーレはミュンデロット公爵家の正当な後継者だと言っていたのが聞こえなかったのか? お前の身分はなんだ。マリスフルーレにそのように触れる権利があるのか? いや、身分などは関係なく、女性に暴力を振るうことは許されない」
メルヴィル様が厳しい声で言う。
クラーラは大きな瞳に大粒の涙を浮かべた。
「ごめんなさい! お姉様が心配で、私が余計な事を言ってしまったから……! ダンスに誘われただけなのに、お姉様がこんなに怒って失礼な態度を取るとは思わなかったんです……、全部私が悪いんです、ごめんなさい!」
「……それは、違うわ」
「良いんです、お姉様! 悪いのは私、お姉様はすこしも悪くないわ……!」
私が怒ったのは、許可もなく肌にふれられたからだ。
ダンスに誘われたからではない。
否定しようとした私の言葉を、クラーラの声がかきけした。
大粒の涙をためて自分が悪いと繰り返すクラーラを、取り巻いている青年達が支える。元々可憐な容姿をしているクラーラがそうして泣いていると、より一層可憐に見えるようだった。
メルヴィル様は困惑したように眉を寄せる。
「もう良い。祝いの場で揉め事を起こすな、下がれ」
メルヴィル様は、軽く頭を振ったあと言った。
青年達に支えられて離れていくクラーラを見守るメルヴィル様は、彼女に同情しているようにも見えた。
「……マリスフルーレ、怪我は?」
「問題、ありません。……メルヴィル様、騒動をおこしてしまい、申し訳ありませんでした」
メルヴィル様が立ち去らないことに戸惑いながら、私は頭を下げる。
捻りあげられ、赤く腫れた手首を見られたくなくて、手を後ろにまわしてそっと隠した。
「助けていただき、感謝します」
「怖かっただろう?」
「……大丈夫です。全て、私がいたらないせいです。お恥ずかしい、限りです」
メルヴィル様は気遣うように、そっと私の腕に触れる。
先程見知らぬ青年に触れられたときは激しい嫌悪感を感じたのに、メルヴィル様に触れられても嫌とは思わなかった。
「可哀想に。怪我をしている。……王家の馬車を出そう。君の同伴者は帰る気はないようだから、一人で先に公爵家に戻りなさい。ゆっくり、体を休めて」
「申し訳ありません……」
私は俯く。
メルヴィル様は私を気遣い家に帰そうとしてくれているのに、この場所に私は相応しくないから追い出されるのだなと漠然と考えてしまう自分が嫌だった。
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