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序章

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 いまでも、時折思い出す。
 庭に咲き乱れるよく手入れされた花が、開け放たれた窓から馨しい香りを運んできたとき、不意にあの頃に戻ってしまったような気持になる。
 あの頃の私は、孤独と絶望と怒りと悲しみ、あらゆる負の感情の煮凝りのようなものに支配されていた。
 今はとても幸せで、不安になることなど何もないのに。
 それでも心に残る傷が、じくじくと痛みを訴えてくる時がある。
 
 もう大丈夫よ、マリスフルーレ。
 怖い事も苦しい事も、今はもう――過去の話。

 ほら今も、焦ったように私を探す、愛しい人の声が館中に響いているのだから。

 

 マリスフルーレ・ミュンデロット。
 それが私の名前。
 ローゼクロス王国の王都のすぐ傍にあるミュンデロット公爵家に産まれた、一人娘である。
 ミュンデロット公爵家というのは元々子供に恵まれない家庭なのか、それとも短命の呪いでもかかっているのか、お母様を産んですぐに祖母は亡くなり、祖父は祖母を愛していたため再婚もせず養子も取らなかった。
 跡取りは大抵の場合は男児だと定められている。
 けれどミュンデロット家にはお母様しかいなかったので、婿をとることになった。
 そうして、格下の伯爵家からお父様がやってきた。
 ファウスト伯爵家の三男という、しがらみもなければ、権力も資金も領地さえ何一つないお父様がお母様と結婚できたのは、お母様の社交界デビューの時にお父様が積極的に話しかけたから、それだけだったらしい。
 当時を知る使用人から聞いた話だ。
 私が産まれた時には祖父はもう亡くなってしまい、お母様は――心を壊してしまっていた。

「あの頃は、ラスティナ様も若かったし、何せ箱入り娘でしたから。……亡き公爵様、ゲオルグ様はラスティナ様をそれはそれは大切にしていました。だから、でしょうね。……ローレン……、ファウスト伯爵家ご子息様は、顔立ちは良かったし口調も優しく、デビュタントで不安だっただろうラスティナ様に率先して話しかけた。ラスティナ様は、すぐに恋に落ちてしまったようですよ」

 五歳の私には、私の髪を梳きながら侍女の語る言葉の何割かは理解できていなかったように思う。
 侍女も率先して私に両親の不仲の理由を話したかったわけではないだろう。
 ただ私が「どうしてお父様は家にいらっしゃらないの?」と聞いてしまったから、答えただけだ。
 私の青緑色の髪はまっすぐだけれど細くて量が多く、手入れのし甲斐があると言って、侍女はなるだけ時間をかけて丁寧に髪を梳いてくれていた。
 堰き止めていた水がひび割れた堤防から徐々に零れ落ちるように、溜まっていた不満を吐き出すようにして、侍女は続ける。

「ゲオルグ様は聡明な当主様でいらっしゃいましたから、領地も良く治めておりました。税収も安定しておりますし、ラスティナ様を政略結婚させる気などは無かったのでしょう。ただ、やはり人の親ですから、ラスティナ様を幸せにしたいというお気持ちはあったのでしょう。ローレン様に恋をして結婚を望んだラスティナ様の望みを、叶えて差し上げたのです」

「つまり、お母様はお父様が好きで、結婚したという事?」

 鏡台の前のやや背の高い紅色のベルベットの布が張られた四角い椅子に座って、私は足をぶらつかせる。
 侍女はブラシを持つ手を一度止めて、それから気を取り直したようにもう一度髪を梳きはじめた。
 鏡には、青緑色の髪を綺麗に切りそろえた、小さな少女が映っている。
 私は青緑色の落ち着いた色合いの髪も、静かな湖面を連想させる薄緑の瞳もお母様とおそろいで、気に入っていた。
 顔もきっとお母様に似ているのだろう。侍女が良く、元気だったころのラスティナ様にそっくりですよ、と言ってくれるので、きっと。

「そうですね。……ラスティナ様はローレン様の事が好きだったのでしょう。けれど、ローレン様はそうではなかったようです」

「どうして? だって、デビュタントの時に、お母様に先に声をかけたのはお父様だったのでしょう?」

「私はその場にいたわけではありませんから、……ローレン様のお気持ちはわかりません。けれど、伯爵家の三男が公爵家のラスティナ様と結婚するなど、……成り上がりも良いところですよ。ローレン様はゲオルグ様が亡くなるまでは、それなりに良い顔をなさっていましたけれど。……ゲオルグ様が亡くなってからは、別邸に入り浸るようになってしまって」

「お父様は別邸にいるのね? 私、会いに行きたいわ。お母様が病に臥せっている事、お知らせしないといけないの」

 鏡の中の侍女の顔を見上げて私は言った。
 既に成人した子供が二人もいるという侍女は私のお母様よりもご高齢で、生きていればきっと私のおばあさまの年齢に近かっただろう。
 小綺麗な容姿をしているけれど、疲れたような皺が目尻や口元に浮かんでいる。
 戸惑ったように視線を彷徨わせた後、彼女は悲し気に表情を曇らせた。

「それは、いけません」

「どうして駄目なの? お母様は……、お父様に会ったら元気になるかもしれないのに」

 私は必死だった。
 物心ついた時にはお母様はもうすでに病に臥せっていた。
 自室のベッドで一日を過ごすお母様の傍らに丸まって、夜を過ごしたこともある。
 時々思い出したように私を撫でてくれたお母様の手は、やせ細っていて骨が浮き出ていた。
 お医者様に見ていただいても、原因は分からないのだという。体にはどこにも悪いところはない。けれど、食事をとらず、呼吸も細い。
 昔は、お元気な頃はミュンデロットの青薔薇と言われるほどに美しかったお母様だけれど、今は頬は痩せこけ青白く、髪もぱさついていて、元気がない。
 私はお母様に元気になって欲しい。私を抱き上げて欲しいし、一緒にお食事をしたり、お庭を散歩したり、ご本を読んだりしたい。もっと幼い頃はベッドに潜り込んで一緒に眠る事が許されていたけれど、最近はそれもできない。
 お母様は私の顔を見た後、いつも以上に酷く塞ぎ込んで体調を崩してしまう事に気づいたからだ。
 だから、好きで結婚したお父様の顔を見たら、元気になっていただけるのではないかと――安易な考えで、侍女に訴えたのである。

「……マリスフルーレ様……、このミュンデロット家の正当な後継者は、マリスフルーレ様だけです。そのことを、忘れずに、……気持ちを強く持ってくださいね」

 辛そうに、声を振り絞るように侍女は言った。
 私は言われた意味が分からずに、首を傾げる。

「ミュンデロット公爵は、今はお父様よ。……いつかは私も、どなたかを婿として迎え入れて、その方を傍で支えるでしょう。女は当主としては認められていないのだから、……血筋がどうであれ、正当な後継者とはいえないのではないのかしら?」

「聡明なマリスフルーレ様。……あなたの幸せが奪われない事、祈る事しかできずに申し訳ありません」

「……お父様は、……良い夫ではなかったのね?」

 侍女が言わんとしていることに気づいて、私は尋ねた。
 侍女の手は震えていて、手を滑らせてブラシが木の床に落ちた。
 からん、と硬い音が部屋に響く。口元を押さえた彼女の目尻から、涙が伝って落ちた。
 私は椅子から降りると、嗚咽を漏らす侍女の背中を摩った。お父様についての話をしはじめたのは私からだ。悲しい思いをさせてしまって、申し訳ないと思う。もう侍女にはお父様の事は聞かないようにしなければと、反省をする。

「……お可哀想なラスティナ様……、あれ程美しく、お優しく、誰にでも微笑んで話しかけて下さる方でしたのに……、……全て、全てローレン様の所為です……!」

「……そうなのね」

「良いですか、マリスフルーレ様。……ローレン様は、ミュンデロット家の権力と財力、領地目当てでラスティナ様に近づいたのです。……ラスティナ様と結婚する前から、懇意にしている庶民の女が居たというのに……、ローレン様の心は最初からラスティナ様にはなく、……ゲオルグ様がお亡くなりになってからは、その庶民の女と密会を重ねるように、なりました」

「……お父様には、他に好きな方がいたのね」

「汚らわしいことです。……そうして、マリスフルーレ様をラスティナ様が身籠ると、ミュンデロット公爵としての務めを果たしたと言って……、別宅に愛人を連れ込んで、暮らし始めました」

「……そう」

 どこか遠い国のお話のように、私の耳にはそれが響いていた。
 数える程しかあった事のないお父様。私はお仕事が忙しいのだと思っていた。
 私に対して余所余所しく、ご挨拶をすると顔を背けてしまうお父様の様子を知っていた私は、お母様に会おうともしないお父様を知っていた私は――どこかでそれに気づいていたのかもしれない。
 思ったよりも、辛くなかった。
 やっぱりそうかという納得の方が大きかった。

「だから、お父様は帰ってこなかったのね。……ごめんなさい、折角私に隠してくれていたのに……、私が聞いてしまったから」

「いえ、……申し訳ありません、マリスフルーレ様。……ラスティナ様から、言ってはいけないと……、言われていたのに。何も知らないままのマリスフルーレ様が、不憫で」

「お母様が口止めをしていたの?」

「……はい。ラスティナ様は……、マリスフルーレ様のことを、愛していらっしゃいますから」

 侍女は、苦し気にそう言った。
 私はすぐにそれが嘘だと気づいた。だって、お母様は、きっと私を憎んでいる。
 愛情と憎しみ、二つの感情の狭間で苦しんでいらっしゃるのだろう。
 何も知らなかった私はお母様の前で「お父様が帰ってきてくださるから、元気になってくださいね」などと、馬鹿げたことを何度も口にしてしまった。
 お母様を裏切ったお父様の子供である私を見て、お母様はどう思っていらっしゃったのだろう。
 私は、お母様に会うのが怖くなってしまった。
 そして身の内に半分は流れているのがお父様の血だと思うと、自分自身がおぞましい物になってしまったかのように思えて、今すぐ全身を掻き毟りたい気持ちになった。


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