幼馴染の婚約者に浮気された伯爵令嬢は、ずっと君が好きだったという王太子殿下と期間限定の婚約をする。

束原ミヤコ

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動揺する男

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 ゼフィラス様は落とした陶器製の水差しを拾い上げた。
 割れなかったのね、よかった……と声をかけようとしたけれど、その様子があまりにも鬼気迫るものがあったので声をかけられなかった。

 カートを押して一度退室すると、モップを持ってきて床をささっと綺麗にする。
 もう一度出て行ってしばらく、再びカートを押して中に入ってきた。

「リーシャ、食事の準備ができた」

 今の一連の行動をなかったことにするような爽やかなきらきらした笑顔を浮かべるゼフィラス様を眺めて、私はどうしようかと戸惑う。

 触れないほうがいいのだろうか。

「……あ、あの、ゼフィラス様」

「な、なんだろう」

「さっき、水差しが……」

 ゼフィラス様もアルマニュクスと戦った後だ。もしかしたらお怪我をされているかもしれない。

 それを隠して私の看病をしてくれているとしたら心配だ。
 声をかけると、ゼフィラス様は口元を押さえて視線を逸らせた。

「見ていたか」

「はい、見てしまいました。……腕にお怪我をされていますか? どこか痛いところはないですか? ご無理をなさらないでほしいのです」

「違う、至って元気で健康な成人男性だよ、私は」

「そうですか、それはよかったです」

 それならいいのだけれど。
 ゼフィラス様はてきぱきとベッドの横のテーブルに食事を用意した。
 くたくたに煮込んだ野菜と麦のスープからはいい香りが漂っている。

「君が、私を好きだと言っている声が聞こえてしまって、動揺を」

「き、聞こえていましたか……?」

「あぁ。聞こえてしまった。盗み聞きするつもりはなかったのだが」

「恥ずかしい……」

 私は俯いた。直接伝えるのならまだいいのだけれど、独り言で好きだと言っているのが聞かれてしまうなんて。

「私は、嬉しかったよ、リーシャ。だがまるで夢のようでな。……長年思い続けてきた君とこうして、一緒にいられるというのは」

「ゼフィラス様……私を想ってくださって、ありがとうございます。ゼフィラス様がいなければ、私は……きっと寂しい日々を過ごしていました」

「それは、私も同じだ、リーシャ」

 ゼフィラス様は私を起こすと、クッションを背にしてベッドに座らせた。
 私はまるでお人形みたいにおとなしくしていた。

 起き上がるには手をベッドにつかないといけないから、素直に手を貸していただいたほうがいいのだろう。
 
「二日眠っていたから、胃が空っぽだろう。まずは、スープを。胃が慣れたら、固形物を食べよう」

「ゼフィラス様、ここにはゼフィラス様と私しかいないとおっしゃっていましたが、お料理は……」

「私だ。冒険者として過ごしているうちに覚えた。料理は無心になれるから好きなんだ。いつか君に食べさせたいと思っていた」

「すごいです。私、刺繍も下手ですし、料理はしたことがなくて……お恥ずかしいことですが」

「君の刺繍は、味があって可愛いよ。料理は、これは趣味だから気にしなくていい。普通は料理などしないものだ」

「はい。……でも、いつかは私も」

 ゼフィラス様に何か、作ってさしあげたい。お料理はだめでも、クッキーぐらいなら私にも作れるかしら。

 私はあまり器用ではないから、うまくできないかもしれないけれど。
 ゼフィラス様は私の胸元にナプキンをかけてくれる。

「リーシャ、先に水を飲もうか」

 水差しには水とレモンの輪切りが入っていて、コップに注いだ水をゼフィラス様は私の口元に近づけてくれる。

「ありがとうございます」

 私は軽くコップに手を添えて、こくんと一口飲んだ。
 ほんのりとレモンの香りが鼻に抜けるのが爽やかで、喉が潤うとホッとした。

 ゼフィラス様はそれからスプーンを手にした。
 スープの器に手を当てて、温度を確認している。

「あ、あの、ゼフィラス様」

「どうした、リーシャ」

「スプーン……」

「君のその手では食べられないだろう。私が手伝うから、安心していい」

「え、あ、で、でも……」

 お食事を食べさせてもらうのは、幼い子供だけだ。
 ゼフィラス様はどことなく嬉しそうに微笑みながら、私の口元にスプーンを近づける。

 口を開けないといけない。
 せっかく、お食事を作ってくれたのだから。
 でも、恥ずかしい。

 ……恥ずかしい。

「ん……」

 顔を赤くしながら口を開くと、スプーンが差し込まれる。
 優しいお野菜の味がする。体に染み渡っていくみたいで、一口食べると自分が空腹だったことに気づいた。

「美味しいです、ゼフィラス様」

「そうか、よかった!」

 その美味しさに、顔を綻ばせると、ゼフィラス様も嬉しそうに笑ってくれる。
 
「もっと色々作れるんだが、とりあえず今はこれだけで。楽しみだな、リーシャ。君に食べさせたいものがたくさんある」

「ありがとうございます。本当に、美味しいです」

「たくさん食べてくれ、リーシャ。あぁでも、胃が小さくなっているかもしれないから、無理はしないように」

「はい」

 ゼフィラス様は、看病に慣れているように見える。
 お料理も上手で強くて、看病もできて──私も見習わなくてはいけない。

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