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あれも人生、これも人生
しおりを挟む「私が、ルトガリア家に嫁いだのは、父に命じられてのことだった。ルトガリア家よりも、フィルシャワ家は家格はやや劣るけれど、釣り合いは一応、取れている。私は期待していたの、夫に愛されて幸せな人生を歩めることを」
潤んだ瞳でエニードを見つめながら、マリエットは語りだした。
子を一人産んだとは思えないほどに、若い見た目の女性であるが、その年齢も四十五歳と案外若い。
四十五とは、七十まで生きた祖父に比べれば、まだまだ少女のようなものである。
だからその中身がまだ少女だとしても、仕方ないといえば仕方ない。
クラウスは不憫だが、マリエットもまた不憫だ。
クラウスには悪いが、ここはマリエットの話をきちんと聞いてさしあげるべきだろう。
マリエットの話に頷くエニードの腕の中で、クラウスはとても大人しくしていた。
また水を差されたら話が長くなってしまう。
話しをきいてさしあげたいが、長い話が苦手なエニードは、クラウスの口をふさぎ続けることにした。
呼吸ができなくなると困るので、軽く口に手を当てている程度のつもりなのだが。
クラウスはどういうわけか切なげに眉を寄せて頬を染めている。もしかしたら苦しいのかもしれないと思い、エニードは拘束の力を少し緩めた。
「あの人──ラウドは、私にはじめから興味がなかった。物のように私を扱って──あのメイド、カロリーナをいつも傍に置いていた。浮気にはすぐに、気づいたの。カロリーナに言わせれば、私の方が浮気、自分は悲劇のヒロイン気取りだったけれど」
クラウスの父ラウドの浮気相手は、カロリーナという名のメイド。
今も存命中で、ラウドと共に別宅で暮らしている。その間には、二人の男児がいるらしい。
それは、クラウスや侍女たちから聞いていたので、エニードも知っている。
ルトガリア家の醜聞は、社交界では有名な話だそうだ。
だからクラウスの元には、「クラウス様、お可哀想に」と近づいてくる女性が絶えなかったのだという。
エニードは他家のそういった、ドロドロした内情などに興味はないので全く知らなかったが、ジェルストでさえある程度は知っていたので、よほど有名なのだろう。
「私は父に、そして兄にすぐに相談したわ。家に帰りたいと願ったし、他の人に嫁ぎたいとも願ったのよ。好きな人だって、いたの」
ぽろぽろと、マリエットの瞳から涙がこぼれた。
エニードはクラウスを片手で拘束しながら、器用にハンカチをポケットから出すと差し出した。
ハンカチには、可愛い小鳥の刺繍が入っている。
こちらもラーナが縫ってくれたものである。エニードも刺繍はできるのだが、エニードが刺繍をすると、猫は妙に愛嬌のある不思議な形の、謎の動物になってしまう。エニードは刺繍よりも傷を縫い合わせる方が得意だ。
マリエットは「ありがとう」と言ってそれを素直に受け取って、目尻におしあてた。
「でも、父も母も、兄も。ラウドの心が私にないのは、私のせいだと言った。私に魅力がないからだと。男の心も掴めないような女は、何の役にもたたないとさえ……ともかく、子を産め。そうすれば、子を可愛がる、一時の火遊びなどは落ちつくとも言ったわ」
けれど、そうはならなかったのだ。
ラウドはマリエットが子を産むと、もう役目は果たしたと、カロリーナを連れて家を出て行ったのだから。
「クラウスを身籠る前に、逃げようとしたこともあるの。好きな人が……私の護衛騎士だった人が、私を助けに来てくれて。でも、私はその手を取れなかった。フィルシャワ家の両親や兄が怖かった。それに、立場も身分も何もかもを失って、どうやって生きていけばいいのか分からなくて」
いつの間にか、レミリアも大粒の涙をこぼしていた。
マリエットを嫌っていた侍女たちや、使用人たちの中でも泣き出す者があった。
それぐらい、マリエットの言葉は素直に心情を吐露するものだった。
そこにいるのは、高慢で浪費家の皆を困らせる大奥様ではなく、ただの──怖がりで悲しい、一人の少女だった。
「結局、護衛騎士は私の態度に呆れた。ルトガリア家の権力と金に目がくらんだのだと言われて、私の元を去って──どこかの街で、庶民の女と結ばれたと聞いた。私は何もかもを失ってしまったの。誰にも愛されずに……ひとりきりだった」
「それは違います、お義母様」
エニードは静かに首を振った。
マリエットは勘違いをしている。もちろん、夫に愛されないことは不幸だろう。
愛する人から見捨てられたことも、不幸だっただろう。
だが、マリエットが全く不幸だったかと言われたら、そんなことはない。
「お義母様が、ルトガリア家に残る選択をしたから、クラウス様が生まれたのです。クラウス様はあなたを見捨てなかった。どんな境遇にあっても家からも立場からも逃げることをせず、ただ一人で家を再興し、財産を築いた」
エニードの腕の中のクラウスが、ぎゅっとエニードの腕を掴んだ。
何か言いたげな瞳が、きらきらとエニードを見つめている。
褒められて喜んでいる子犬のようだった。思わずよしよししたくなったが、今はまだその時ではない。
「あなたがクラウス様を産み、クラウス様があなたを守った。クラウス様がいなければ、ルトガリア家は没落し、あなたは悲惨な生活を送ることになっていたはずです」
「それは……私のためなんかじゃないわ。クラウスは私を嫌っているもの」
「それは、あなたがクラウス様を嫌っていたからでしょう。クラウス様はあなたを嫌ってなどいなかったはずです。子は、無条件に親を愛してしまう。愛されなくなるとしたら、それはあなたに問題があった」
「でも、私は……」
「マリエット様。あなたは愛されていたのですよ。一人なんかじゃなかった。クラウス様がいて、ルトガリア家の皆がいた。あなたが見捨てられたと感じたのは、あなたが先に皆を見限り、見捨てたからです」
もちろん、原因はラウドやフィルシャワ家にあるのだろう。
だが──マリエットにはクラウスがいた。
それに気づいていれば、マリエットは人生を悲観せず、クラウスとの仲も拗れていなかったはずだ。
「生きていれば、取り返しがつきます。あなたはたいした罪をおかしていない。浪費し、男を侍らせたのだと聞いていますが、浮気相手の男との間に子を産んだりはしなかった。それは、心のどこかでクラウス様の邪魔をしたくないと思っていたからでしょう」
「……っ、違うわ。私は、男を恨んでいたの。男なんて大嫌いだった。だから、顔のいい男たちを金で買って、愛を囁かせて、飽きたら捨ててやったのよ……!」
クラウスにしてみれば、聞くに堪えないような言葉だろう。
だがきっと、クラウスはそれを理解していたのだ。特に動揺をするようなこともなく、エニードの腕の中で静かにしていた。
「それにね、私は──兄が、ルトガリア商会の権利を得ることができるというから。レミニアをクラウスと結婚させるように命じられたから、あなたを追い出しに来たのよ、エニード。私は、ひどい女なの……!」
「お義母様。そうして泣いている女性を、私は酷い女とは思いません。涙が流れるというのは、情がある証拠。もうご自分を責めるのも、虐めるのもおやめください」
「どうして、こんな私に優しくできるの……?」
「空は晴れて、肉も魚も美味しく、風が心地よく、体は健康です。私にとってはそれが幸せの定義であり、それ以外のことは全て、些細な変化に過ぎないのです。その変化に対してどう生きていくのか、私には信念があります」
「信念……?」
「悪には厳しく、女性と子供には優しく。他者には愛を持ち、真っ直ぐに生き、人々を守ること。そして何より家族を愛し、伴侶を愛する。これが、騎士道です」
祖父から教えられた騎士道を、エニードは守り続けている。
それは素晴らしい考え方だと感じたからだ。
祖父はエニードの理想である。祖父のようになりたいと願うだけで、エニードの背すじはいつだってぴんと伸びるのだ。
「騎士道……?」
「エニード様、素敵です……」
「エニード、君は……」
不思議そうにマリエットが呟き、レミニアや侍女たちが興奮したようにエニードの名前を呼んだ。
クラウスはまじまじと、エニードの顔を凝視している。
口をふさぐ拘束をかなり緩めていたために、言葉を話すことができるようになっていたらしい。
「私はクラウス様と結婚をしました。マリエット様やレミニア様は、私の家族です。愛情をもって接するのは当然です。マリエット様。自らの行いを内省し、後悔して泣くことのできるあなたを、私は尊敬します」
「エニード……っ、ごめんなさい、本当にごめんなさい、あなたに、ひどいことを言ったのに……!」
クラウスがもう怒っていない様子だったので、エニードはクラウスからぱっと手を離した。
クラウスは寂しそうな顔をして、エニードの手を握りしめる。
エニードはよしよしとクラウスの頭を撫でると、「クラウス様、あとでもっとたくさん撫でてさしあげますので、しばしお待ちを」と、クラウスに伝えた。
クラウスはこくこくと頷いた。素直である。
「お義母様、謝罪の必要はありません。謝罪するべきは、あなたに挨拶をしなかった、礼儀を欠いていた私のほうです。嫁として、認められないのは当然です」
「そんなことはないわ……私はクラウスを傷つけてばかりいるわね。あなたはクラウスの大切な人なのに。それに、クラウスがあなたを大切にする気持ち、よくわかる」
クラウスはマリエットをちらりと一瞥すると「分かればいいのです」と素っ気なく言った。
その言葉には怒りも嫌悪も含まれていない。
少しは、マリエットを許すことができたのかもしれない。
長年の軋轢がこれですっきりなくなるというのは、難しいだろうが。
「レミニアも、巻き込んでしまって……あなただって、本当は好きな人がいたかもしれないのに」
「大丈夫です、マリエット様。エニード様に出会えたことに、感謝を……なんて尊い……」
「それで──勝負はどうなりましたか。私はレミニア様のお肉がとても美味しかったので、私の負けでいいのですが」
人生の話がどうやら終わったようなので、エニードは気になっていたことをきりだした。
少しだけ仲直りができたのはいいことだが、それはそれとして勝負は大切である。
レミニアは料理を褒められて、頬を染めて恥ずかしそうにした。
「エニードさん、私、いつでもお嫁に行けます」
「そうですね。レミニア様は素晴らしいお嫁さんになります」
「え、ええ! エニードさん、私、いつでも……!」
「レミニア、母上。エニードのおかげで改心したのだろう、もう帰っていい」
「あの、勝負はどうなりましたか」
「エニードの料理のほうが美味しかった。母上もそうだろう。エニードの二勝で、勝負は終わりだ。エニードは私の妻。勝負がどうなろうが、手放す気などなかったが」
「……クラウス、どうしてエニードを隠すのですか」
クラウスが慌てたようにエニードを背後に隠しながら、エニードの勝ちだと主張している。
レミニアやマリエットは不満そうに顔を見合わせた。
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