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クラーレス様、必死の攻防
しおりを挟むフィロウズとクラウスの出会いは、今から二十年以上前に遡る。
公爵家においてはクラウスに視線を向けることさえしなかった母だが、社交の場に出れはそれは違った。
見目麗しいクラウスは母の自慢であり、まるでアクセサリーを見せびらかすようにして連れて歩いた。
まるで天使のよう。なんて可愛らしい。ルトガリア家は安泰ですわね。
そんな世辞を言われて、満更でもない顔で微笑んでいる母の横で、クラウスはガラス玉のような瞳で周囲の様子を眺めていた。
いつしか母は酒と会話に夢中になり、クラウスのことなど忘れ去ってしまう。
毎回のことなので、クラウスはあまり気にしていなかった。
貴族女性たちが可愛いと誉めそやし触ろうとしてくるので、夜会の広間にいるのは苦痛でしかない。
人の目から隠れるようにして人の合間を縫って壁際に向かい、時間が過ぎるのを待つのが常だった。
「暇そうだな、お前も」
壁際で息をひそめるようにしているクラウスに、話しかけてきたのがフィロウズである。
「クラウス・ルトガリアだろう? 皆がお前を、ルトガリア夫人が侍らせている愛人との子だと噂しているが、お前の父は誰なんだ?」
フィロウズという少年は、思慮深さに欠けていた。
その噂はクラウスも知っていたが、まさか直接クラウスに尋ねてくる者がいるとは思わずに、驚いた。
けれど、悪い気はしなかった。
陰でこそこそ言われるよりは、直接聞いてくれたほうがずっと気が楽だったのだ。
「私の父は、ルトガリア公爵です。母が愛人を侍らせるようになったのは、私が生まれた後ですよ」
「なんだ、そうなのか。つまらんな」
「そんなことを聞くために、わざわざ話しかけにきたのですか」
「女のような見た目の割に、気が強いな。気に入った。ところでお前は、クラーレスと仲がいいのか? クラーレスが、お前のことを人形のようで綺麗だと言っている」
どうやらフィロウズは、恋心を抱いているクラーレスがクラウスを誉めることが気になって、クラウスに話しかけに来たらしい。
案外可愛いらしい方だなとクラウスが笑うと「クラーレスと仲良くなりたいのだ。協力をしろ」と言われた。
それから、母に城での舞踏会やら夜会やらに連れていかれるたびに、クラウスはフィロウズとクラーレスと共に過ごすようになった。
クラウスにとってフィロウズとクラーレスは、子供の時からの友人である。
そのため、私的な場では敬語を使わないし、許可を得ずともフィロウズに会うことが許されている。
だが、周囲の者たちは事情を知らないので、クラウスがクラーレスに片思いをしているとか、フィロウズと二人でクラーレスを取り合い、破れたなどと好き勝手言われていた。
わざわざ訂正して回る気はないし、セツカに片思いをし始めてからは、その噂はクラウスが男性に恋をしていることの隠れ蓑になると考えていた。
だが、今は、エニードの耳に入らないでほしいなと、思わずにはいられない。
もう手遅れかもしれないが。
「突然、殴れとは一体なんだ? お前は結婚したばかりだろう。さっそく嫁を泣かせたのか?」
フィロウズの言葉には裏表がない。
言いづらいことを口にしても嫌味にはならないのが、フィロウズの才能なのだろうと、クラウスは考えている。
クラーレスはフィロウズのそういった性格について、最初は怯えていたようだった。
箱入りで、蝶よ花よと育てられたクラーレスにとって、口にしてはいけないようなことを平然と言うフィロウズは、畏れの対象だったのである。
けれど、友人として過ごすうちに、クラーレスにもフィロウズの長所が理解できるようになったようだ。
今ではすっかり仲のよい夫婦で、クラウスも友人たちの幸せを心から祝福していた。
といっても、さすがにフィロウズやクラーレスには、セツカに恋をしていたとは伝えていない。
だが、もう知っているだろう。
クラウスがセツカに告白した場には、クラーレスの友人でいつも共に過ごしているシルヴィアがいたのである。
「私は、ずっとセツカ殿に憧れていたんだ」
「知っている。それがどうした?」
「やけに、あっさり受け入れるのだな」
「それはそうだろう」
「そうか。さすがはフィロウズだ。君と友人でよかった」
男に惚れていたことを、さもないことのように受け入れるフィロウズに、クラウスは感動した。
フィロウズの隣で、クラーレスがそわそわとフィロウズの顔を見たり、クラウスの顔を見たりしている。
もしかしたら思うところがあるのかもしれない。けれどクラーレスは奥ゆかしく大人しい女性だ。
遠慮をしているのか、口を挟むようなことはなかった。
「殴れと言ったり、突然褒めたり、忙しいな」
「そうだな。……私はセツカ殿に憧れていたが、エニードと結婚をした」
「それはそうだろう。よかったな」
「あぁ。とてもよかった。エニードは素晴らしい女性だ。私には勿体無いほどの」
「まぁ、そうだろうな。あれほどの女性は珍しい」
フィロウズとエニードについて話したことはなかったが、エニードのことをフィロウズはよく知っているような口ぶりだった。
あれほど美しく心の清らかな女性なのだから、当然フィロウズも知っているだろう。
さすがは私のエニードだ──と、クラウスは心の中で少し調子に乗った。
「私はエニードを愛している。大切にしたいと思っている。だがそれなのに、エニードを見ていると、どうにも、セツカ殿が頭をちらつく。エニードから、セツカ殿味を感じてしまう。それはあまりにも失礼だ。だから、私を殴って、正気に戻してほしい」
「セツカ味? み? 味ということか。味が?」
「違う。二人が重なって見える。エニードから、セツカ殿を感じるのだ。似ていると思ってしまう。それはきっと、私がいまだにセツカ殿に未練があるからなのだと思う」
「未練も何もエニードは」
「あぁっ」
フィロウズの言葉を遮り、クラーレスが声をあげた。
それからふらりと目眩を起こしたように、フィロウズにもたれかかる。
「どうした、クラーレス!?」
「め、眩暈がしましたの。急に、ふらりと。ごめんなさい、フィロウズ様」
「謝るな。大丈夫か、クラーレス。具合が悪いのか? 君がいなくなってしまったら、俺は生きていけない。どこか痛むのか? 苦しいのか?」
「違うのです。少しふらりとしただけです。フィロウズ様が、エニード様のことばかり話すから、寂しくなってしまって……そうしたら、目眩がしたのです。私以外の女性の名前を呼ぶのは、悲しいです」
「クラーレス……なんて、可憐なんだ」
クラーレスという女性は、奥ゆかしく恥ずかしがり屋で、人前ではフィロウズの腕に触れることさえ遠慮するような人である。
そんなクラーレスが嫉妬を感じるほどに、エニードは素晴らしい女性なのだ。
そうクラウスは、どことなく満足気に思った。
「クラウス。悪いが俺は、今からクラーレスを寝所に送らなくてはいけない。エニードの話は、また今度ゆっくり聞こう。お前も新婚だ。惚気たいのはよくわかるが、今、俺は、とても忙しい。急に忙しくなった。ではな」
「ごめんなさい、クラウス様」
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
フィロウズは、クラーレスを抱き上げて忙しなく部屋からいなくなった。
残されたクラウスは、エニードもあのように甘えてくれる日が来るのだろうかと考えて、緩みそうになる口元を手で押さえる。
領地に帰る前に、フィロウズに話をして、気合を入れ直してもらいたかったのだが。
それは、叶わなかった。
エニードにセツカを重ねるなど、してはいけないことだ。
まして、領地に帰ったらエニードと二人きりの時間を持てる。初夜も、やり直す必要がある。
エニードは、子供が欲しいと言っていた。それが、エニードの両親の望みだからと。
なんてことを、女性に言わせてしまったのだ。
クラウスは悔恨と羞恥とその他諸々いろんな感情でいっぱいになり、目を伏せた。
真っ赤に染まった顔を見ているものは誰もいなかった。
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