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支配の蠱毒
アルバイト先に居座る呂希さん
しおりを挟む放課後は、部活動がある。
基本的には全員参加なのだけれど、私の場合は事情があるので免除してもらっている。
私の立場や抱えている事情に、先生たちはあまり良い顔をしていない。
腫れ物を触るように扱われているみたいだと感じることもある。
けれど授業料と部活動を免除されているのだから、それ以上求めることは私としても別にない。
「高校卒業するって、雛菊さんとの約束だしなぁ」
放課後になり、私は雛菊さんのお店に向かった。
六月らしいだらだら降り続く雨が、昼過ぎから降り始めていた。
ローファーが水浸しにならないように、慎重に歩く。
一歩踏み出すごとに、水滴が靴底から滴る。
水溜りを走る車のタイヤが、雨粒を撒き散らす。
なるだけ歩道の内側を歩いて避けたけれど、あんまり意味はないかもしれない。
「呂希さんは、大丈夫かな……」
雨の憂鬱さを紛らわすように、小さな声で呟いた。
雨は、嫌いじゃない。
むしろ好きだと思う。
雨の日は、自分と世界の繋がりが、晴れの日よりも一層希薄に感じられる。
元々私の世界は狭いのだけれど、世界を狭めている罪悪感みたいなものが、雨の日には薄らぐ気がする。
世界と繋がりたいわけじゃないけれど。
私は鞄の中にしまってある、滅多に鳴らない携帯電話みたいなものだ。
雛菊さんと、亜蓮と、茜と、学校。
連絡先はそれぐらいしか入っていない。
「呂希さん、……もう、いないかもしれない」
雨粒が透明なビニール傘にばらばらと叩きつけられている。
アルバイトを終えて部屋に戻って、そこに呂希さんがいる保証なんてどこにもない。
呂希さんと過ごした時間が本当だったかどうかさえ、怪しいのに。
小さく息をついた。
私はーー呂希さんとの繋がりを断ちたくないと思っているのだろうか。
まるで別の世界に行きたいと夢想している、幼い子供みたいだ。
そんなことよりも私には考えなきゃいけないことが沢山ある。
例えば、次のアルバイト代が入る二十日まで、どうやって五千円で生きて行こうかとか、そういうことだ。
呂希さんのお洋服を買ったら、もうお金は残らないかもしれないし。
「雛菊さんに相談してみようかな」
お金に困ったら言いなさいと、雛菊さんからは何度も言われている。
けれどなるだけ頼らないようにしていた。
雛菊さんだって、一人で頑張っているのだから、私も頑張らないといけない。
だって雛菊さんは、私のせいで前の仕事を辞めたのだし。
とりとめのないことを考えながら歩いていると、喫茶ブルーウォーターの前までたどり着いていた。
赤煉瓦の屋根の可愛らしいお店だ。
夕方からは仕事帰りのおじさまたちが多いのだけれど、デートスポットとしても若者に結構人気があるらしい。
茜や亜蓮も時々ご飯を食べたりお茶を飲みにきてくれている。
最近は、茜は吹奏楽部で忙しくて、亜蓮は大学入試のために放課後も遅くまで勉強をしているようなので、あまり来ていないけれど。
亜蓮は来年卒業で、医学部を目指している。
茜はどうするのか聞いていないけれど、多分大学に行くのだろう。
時間だけが目まぐるしく過ぎていく。
私はその中でずっと、取り残されているみたいだ。
遭難しているみたい。
ーーあの時から、ずっと。
「杏樹、雨、結構酷くなってきたでしょ? 大丈夫、濡れたんじゃない? ほら早く着替えちゃいなさい」
傘立てに傘を入れて喫茶店の扉を開くと、雛菊さんの明るい声に出迎えられた。
私は急に現実に戻ってきたように、ハッとして笑顔を取り繕う。
雨の日は、嫌いじゃない。
でも、どうにもだめだ。
一度考えはじめると、あの時の記憶が、戻ってきてしまう。
「雛菊さん、お疲れ様です。着替えちゃいますね」
「ええ、着替えなさい。私の選んだスペシャルなメイド服がよりどりみどり置いてあるから、どれでも好きなものに着替えると良いわよ」
「制服、メイド服じゃなくて、普通にエプロンとかが良いんですけれど……」
「可愛い杏樹に可愛いメイド服を着せるのが私の趣味なんだから、良いでしょ別に」
あんまり良くない。
雛菊さんは元気のない私を励まそうとして冗談を言っている、というわけではない。
実際更衣室にはアルバイトは私一人しかいないというのに、メイド服がずらっと置いてある。
黒いのから茶色いのから、フリフリのものからクラシカルなものなで、よりどりみどり。
雛菊さんは、すぐに会いに行ける隣の席のちょっと気になる女の子的なアイドル、『晴海五十三番地』を熱烈に愛していて、彼女たちがアイドルとして着ている制服がメイド服なので、私にメイド服を着せてアイドルと一緒に働く気持ちを味わいたいらしい。
よくわからないのだけれど、雛菊さんがそれで良いのなら、良いのだろう。
メイド服を着たところで私がアイドルのように可愛くなれるわけでもなく、男性たちに人気が出るというわけでもない。
ここにくる仕事疲れのおじさまたちは、メイド服を着た私を見てもなんとも思っていないみたいだし。
むしろ、初孫が頑張っておしゃれをしている、みたいな目で見られている気もする。
私は更衣室に入り、膝丈の茶色のメイド服に着替えた。
髪が赤いので、黒よりも茶色の方がまだ派手にならないような気がしている。
しっとりと湿ったせいで、癖が強くなった髪を結い直し、お店の中に戻る。
そして、吃驚して目を見開いた。
カウンター席に、真っ白くて綺麗な男の人が座っていた。
「杏樹ちゃん、お帰り~、わぁ、可愛い」
呂希さんだった。
呂希さんは幻だったかもしれないという私の小さな傷心は、ただの杞憂に終わった。
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