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16.睡蓮
しおりを挟む蒼月がボロボロ泣いている。申し訳ありません、ごめんなさい、と必死に謝りながら、わんわん声をあげて泣いている。その泣き声は心臓を鷲掴みにされ、脳みそを直接殴られ揺すぶられるように切実で、聞いているこっちが泣きそうになるくらい辛い泣き声だった。
「蒼月、泣かなくていい。謝らなくていい。」
「うぐっ……ぅう……」
「服や寝具は洗えばいい、落ちなければ買い換えればいいし。それより、蒼月は健康になった証拠で、大人になった証だろう? 泣くことじゃない。」
こういう時、なんと言葉をかけるべきか。早くアンネマリー、出勤してこい! しかしこの状況、同衾していたとバレる。潔く責めを受けるだけだ。それより、まず蒼月を落ち着かせるのが先だ。だから、こんな時、なんて言葉をかけたらいいんだ!?
「でも……何日か前、お腹痛かった。こうなるのわかってた。でもずっとなかったから、忘れてて、思い出せなくて、申し訳ありません。」
「いいよ、だから謝らなくていい。まずは、そうだな、お湯を沸かしてくるから、着替えて、綺麗にしてあったまってくるといい。少し気分も落ち着くだろう?」
寝台を降り、風呂の湯を沸かす竃に火を起こす。大きな湯沸かしに水を足しながら、先ほどの蒼月の言葉を思い出す。わかっていた? ずっとなかった、忘れるくらい? 初めてじゃないということだ。水を汲み上げ、湯沸かしにあけかえる。
12歳前後で始まったとして、事前にお腹が痛くなるということを覚えてて、それを忘れてしまうくらいずっとなかった。それは奴隷時代の労働による肉体の酷使、劣悪な食事環境のせいだろう。確か、あの駐屯地で雨季を2度は経験したと言っていた。その前には、お館様と呼ぶような人がいる屋敷で働いていたらしいし。『かあ様』も一緒に屋敷で働いていた? いや、料理をしてくれたと言っていたから、かあ様といたのはその前か。とすると、蒼月の年齢は……下手すりゃ、成人してる。それにしても、あのあどけなさ、浮世離れ感はなんなんだ?
「おはよう、玄。なんだい朝から竃に火を入れちゃって」
「ああ、いいところに来た。」
「やだ、血? 怪我でもしたのかい? なんで、湯を沸かしてるのさ、血のシミ抜きに湯は厳禁だよ。」
「シー! 悪いが、蒼月を見てやってくれないか。着替えと、あと、なんか、こういう時に使うもの、用意してもらえるか?」
「あらあら、……え、で、どうしてあんたの左腿にシミがついているんだい?」
「お小言は甘んじて受けるが、それも含めて、お願いを頼まれちゃくれないか?」
アンネマリーがフーッと深く息をつき、寝室に向かう。
「わかったよ。体拭くのはあんたは水でいいだろ。とっとと着替えて。下洗いくらいしといてくれ。」
考えれば考えるほど、わからなくなる。蒼月の出自、年齢、びっくりして泣いたわけではないあんな切実な涙のわけ。
粗相をしてしまったことで首を刎ねられる? 罪を犯したものが償いに強制労働させられる、西の岩切場に連れて行かれる? それであんな泣き方をするのか?
腕に唇を押し当て、とろりとした表情で微笑んで見せた蒼月。
ここにいたかった、俺といたかったから?
ドクンと心臓がなる。
綾の国の血を引くなら小柄で、子供じゃないってわかっていた。充分大人だ。自然に対する知識に、洞察力に理解力の高さは場合によっちゃ、並みの大人より高い。
ドクドクと心臓がうるさい。
朝食の粥もいつのまにか食べ終え、空になった丼を見つめる。
蒼月は、食欲がないのか、あまり器の中の粥は減っていない。
「蒼月、」
ビクッと、肩が震える。
「怖がらなくていい。さっきも言っただろう? 怒りはしない。むしろ健康を取り戻している喜ばしい証だろ?」
「……」
目線を下げ、かすかにうなずいてみせる。
濡れてカサが減り、貧相な体でしょぼくれている風呂嫌いの犬が仕方なく尻尾を振って見せているようだ。
「今日、この後、組合の事務所に行ってくる。蒼月に休みを貰っておこう。1週間もあれば大丈夫か?」
後ろで控えてるアンネマリーに尋ねる。
「充分、人によっちゃ三日もあれば動き回れる。蒼月の体質がわからないし、いい機会だから1週間みっちり料理や読み書き、歴史を詰め込んでやるよ。」
「ほどほどにしてやってくれ。」
「……マリーは家庭教師やるの?」
「本物の教師ほどの専門知識はないが、一般的な、生きていくのに必要なことを教えるくらいはできるさ。」
その晩、蒼月は割り当てた部屋で過ごした。なんとなく物足りない、もの寂しさを抱えて夜を明かす。
翌日、仕事明け、事務所による途中、横目に見えた色街に寄って帰ろうかと思いついた。事務所で報告と報酬の受け取りを終え、建物を出ると自宅とは反対方向にあるそこへは何故か足が向かなかった。早く帰って、あの子の顔が見たい。出来ればニッコリ笑った顔、初めて得る知識にまん丸な目をする顔。あの子は色街とはどんなところか、その存在理由と意義もわかってる。
数日後、どうにもスッキリしない目覚めにため息をつき、冷水を浴びた。
こうして子離れしていくのかな、と思った瞬間、小柄なだけで子供じゃないと言いつつ、誰よりも子供扱いして同時にそれを否定したいのは自分だと気がついた。
椅子を引き、ふーっと息を吐く。今日はもう書類仕事は進みそうにない。蒼月は香草を臭い、苦いと言って絶対に食べようとしなかったのに、マリーが淹れた苦い蓮葉茶は飲む。それは、体が欲している栄養が含まれているからだ。考えるのは、思いつくのは蒼月のことばかり。潔く寝てしまおうか、でも、寝られる気がしない。ドサリと寝台に横になると蒼月がコロンと横になる。
「蒼月、いつの間に入って来たんだ?」
「さっき」
「一人で眠れるようになったんじゃないのか?」
いつもの癖で頭を撫でようとして、ハッと気が付き堪える。コクンと蒼月がうなずく。
しまった。このコクンは、どっちの意味だ?
ソロソロと蒼月が手を伸ばす。
「旦那様は、眠れてない。」
細い指がそっと頬に触れた。
ゾワゾワゾワッと一気に全身が粟立った。それは嫌な感じじゃなくて、逆、むしろ最高潮の……
蒼月の細い指が目の下を撫でる。
カーッと全身の熱が上がる。くすぐったい指を、そっと包むように取り上げる。荒くなりそうな呼吸を抑え、ギュッと手を握りこむ。寝台の上で横になっていたらマズイ。このまま劣情に溺れる先しか見えない。
決死の思いで体を起こし、寝台に腰掛ける。
「旦那様?」
「蒼月、」
「はい」
「話をしよう。」
「はい」
「たくさん。」
「はい」
「蒼月の事が知りたいんだ、だから、たくさん話そう?」
「……はい!」
何かが溢れてくる、満面の、とはこんな表情を言うのだろう。そんな輝くような顔で蒼月が答える。自分と並んで寝台の縁に腰掛けた蒼月をそっと抱きしめてみた。痩せっぽっちのガリガリの子供と思っていたのに、まだ体は薄いものの柔らかな女性だった。ゾクゾクとこみ上げてくる堪らない感覚と、柔らかく温かいホッと安心するぬくもりに癒され、どっちにも転びそうな不安定ででも心地よい感覚に身を委ねる。蒼月もくったりと俺にもたれかかり、ゆったりと息をしている。そうっと、髪を撫でているうち、どちらからともなく唇を触れ合わせ、押し付け、吸い付いては喰む。いつまでもずっとこうしていたくなる。むくむくと雄が主張し始めたところで、蒼月がそっと体を離した。
「旦那様、これじゃ、話しできない」
蒼月の鉄壁の理性が恨めしい。
「すまん。つい……」
「お茶、淹れてくる」
蒼月が淹れて来たお茶は、ほんのり甘みを感じる黒茶だった。焙じ茶とどこか似たほっこりする味わいだった。
翌日まぶたに当たる眩しい光で目がさめた。
蒼月が淹れたお茶は、黒茶に蓮芯を混ぜた茶だった。蓮芯は安眠に良いという、綾の国では知られていないが、この国ではよく飲まれているが当たり前すぎて誰も教えてくれないものだった。そんな情報を引っ張り上げ、実用に至らしめる蒼月に、少し頼もしさを覚えた。
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