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狂気

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「なぜこんなことを」

 何不自由のない貴族の娘。獣性も弱くし見た目も愛らしく、この先だって生活に憂えることがあるとは思えない。

 その彼女が一体なぜ騎士団に歯向かうような真似を。もし俺をここで殺し、上手いこと逃げおおせたとしてもいつかは追っ手がかかる。豊かで幸せな生活を自ら放棄するようなものだ。そう思って呟いた言葉にイレーネ嬢はその小さな耳をぴくりと震わせた。

「なぜですって?」

 毛を僅かに逆立てて、苛立ちを表すように小声で高く鳴く。そして彼女はベッドに乗り上げると俺の上に跨った。

「アズラーク様が悪いのです。……獣性の薄いわたくしは、ずっと子供の頃から強い殿方に娶られることだけを目標に生きてきましたわ。父も母も、獣性が薄いのなら勉強も友人も必要ない、顔に怪我でもしてはいけないからと言ってずっと部屋にわたくしを閉じ込めて、できるだけ成長しないよう、か弱くなるように育てて……見えます? わたくしの牙、母に削られたんですのよ。もとから短かったのに、さらに獣性を薄く見せようとして」

 イレーネ嬢が大きく口を開いて咥内を見せてくる。その白い歯は確かに平らで牙はなく……だけど不自然に歪んでいるようにも見えた。

「外で遊ぶこともできない、ただ部屋で日に当たらず動かずじっと耐えるだけ。そんな生活がずっと続いて……。16歳で社交界デビューして、それでようやく、父も母も、そしてわたくしも結婚してもいいと思えるアズラーク様に出会ったのです。若くて、貴族で、自信に満ち溢れた雄である騎士団長様に。でも、アズラーク様はわたくしをあっさりと振ったの」

 興奮したようにそうまくしたてると、怒りに燃えていた瞳を一転させて彼女は頼りなさげに声を震わせた。

「あなたに振られたせいでわたくし、30歳も年上の猿族に嫁ぐことになるのよ……。父も母も、せっかく育てたのにがっかりだって……。だからアズラーク様が悪いのです。あなたがわたくしを振りさえしなければ……わたくしだってこんなこと……!」


 過呼吸のように、は、は、と彼女は何度も何度も荒い息を吐く。そして腰元から小ぶりのナイフを取り出して。

「わたくしを振っても、でも、……子を成せば、アズラーク様もわたくしと番になろうと思うでしょう?」
「やめろ……!」

 この屋敷に焚かれている香は、猫族の体から力を抜くものだが同時に媚薬でもある。こんな状態のまま乗っかられたら……と思って彼女を押しのけようと体を揺する。

「抵抗ならさないでください。手元が狂って刺さってしまうかもしれませんわ」

 苛立たし気にイレーネ嬢は冷たく呟くと……鈍い光を放つナイフを振りかざした。脅しのつもりだろう。俺の顔の横の枕に照準をさだめたそれに、唸り声をあげた。だが、そのナイフがまさに振り下ろされる、という瞬間。

「やめろっ!」

 扉が大きな音をたてて開き、黒い塊が彼女へと飛びかかった。

「ふざけんな、アズラークに何するんだ!」
「……なっ、なに!」

 黒い塊は体当たりしてイレーネ嬢ごとベッドの下へと転がり落ちる。床の上でしばらくもみ合い、イレーネ嬢がよろめきながら立ち上がると。飛び出してきた黒い塊も俺を背に庇うようにベッドの際に立った。

 小さな背丈。黒い髪。その頭にはどこか草臥れたような小さな耳。そして俺を庇うためか大きく開かれた腕の先の手には、丸くて小さな爪。しっかりと背筋の伸びた、だがまだ幼い子猫にしか見えない彼は。

「サタ……!?」

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