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  その日から、貴族令嬢としての最低限のマナー、エチケットなどの教育がはじまった。フラトン子爵が用意した教育係は厳しく、叱るときは鞭で手の甲を叩かれたりもしたが、それでも、それまでの生活と比べれば、雲泥の差に思えた。

 なんと言っても、腐っていない材料で作られた、温かいスープが飲め、ときには肉料理も食べられた。むろん、教育係にしっかりと見張られながらではあったが、起きている時間は教養のために使われ、屋敷の掃除もしなくていい。痣ができては面倒だからと、暴力をふるわれることもなかった。



 そしてその日は、あっという間に訪れた。

 はじめての馬車に揺られながら、ニアが窓から外を見る。正面に座るフラトン子爵が「いいか。絶対、オールディス伯爵の令息の婚約者候補に選ばれろよ。でないとどうなるか──わかっているな」と、ニアを睨み付けてくる。ニアが機械的に、はい、と答える。でも心の中では、なにもわかっていなかった。

(楽に死なせてくれるなら、願ったり叶ったりなんだけどなあ)

 そんなこと、してくれるわけないか。

 変わらずの無表情で、ニアは黒く染まる空を見上げた。自分が誰かに選ばれるなんて、想像ができないニアは、はなからすべてを諦めていた。だから、これからはじまる、婚約者候補探しの舞踏会が終わるころにはどうなっているのだろうかと、そんなことばかり考えていた。



 オールディス伯爵家が所有する、王都にある別邸。そこの広間で、舞踏会は開かれていた。年頃の令嬢は、ニアを合わせて、五人。全員が、同じ髪色、同じ瞳の色をしていた。

「ふっ。見たところ、伯爵令嬢すらいないようだな。子爵、男爵の娘ばかりだ」

 フラトン子爵が、小さな声で馬鹿にしたように吐き捨てた。あなたも子爵では、と思ったが、ニアはどうでもいいかと口には出さなかった。


「え、うそ。あれがアラスター様?」

 広間の扉が開き、現れた一人の青年。令嬢の一人が、驚きの声を上げた。フラトン子爵家の屋敷からほとんど出たことがないニアも、見たことがないほど整った顔立ちの青年に、一瞬、目を奪われた。

(……綺麗)

「婚約者候補が逃げだしたというから、どんな醜男かと思えば……よほど、性格に難ありとみえる」

 隣でフラトン子爵が吐露する。少なからず、他の者たちも同じ考えだったのだろう。家のため、親の命だからとここに来た令嬢たちが、瞬時に色めき立ち、広間の空気が変わった。

 広間に集まったみなに挨拶を終えたアラスターの元に、条件に合った娘を連れた貴族たちが、われ先にと集まっていく。

 アラスターは、オールディス伯爵の跡取り息子。つまりは、いずれ爵位を継ぐ身であり、地方には領地まで持つ、親から見ても理想的な相手であり、令嬢たちから見ても、長身で容姿の良いアラスターは、結婚相手としては申し分ない。容姿に期待していなかったぶん、その反動は大きかった。


 ──が。


「わたしには、愛する人がいます。その人以外を愛するつもりはないし、できません。それを理解したうえで、それでもわたしと結婚する覚悟のある方だけ、残ってください」

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