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 無茶をさせてしまったため、馬はまだ走れそうになく。アンガスは馬には乗らず、手綱を引きながら隣の領地に向かった。

 それほど距離は離れていなかったが、なにせ徒歩なので、エンリケ子爵の屋敷に着いたのは、深夜に近い時刻だった。

 玄関のドアノッカーを叩くと、しばらくしてから「どなたでしょう」と、耳に馴染んだ声色が聞こえてきた。

「……アンガス、です」

 数秒の間のあと、がちゃりと鍵音がし、玄関扉が開かれた。燭台を持って立っていたのは、エンリケ子爵家に仕える執事だった。

「こんな時間にすまない……その、とりあえず喉がカラカラで。水を一杯もらってもいいかな。あと、馬にも飲ませてあげたくて」  

「……かしこまりました。とりあえず、中にどうぞ」
 
 答えに心から安堵し、ありがとうと礼を述べ、中に入る。応接室に通され、出された水を一気に飲み干すと、アンガスは空になったコップを両手で握った。

「優しさが染みるよ。やっぱりこんなときに頼れるのは、家族だけだね」  

「──ほお。お前にとってエミリアは、家族ではなかったということか」

 執事の後ろから響いた怒気を含んだ声に、アンガスは飛び上がるように椅子から立ち上がった。

「ち、父上……?」

 蝋燭の灯りに照らされたエンリケ子爵の目は、怒りに吊り上がっていた。

 まさか。ごくりと息をのむアンガスに、エンリケ子爵は一通の手紙を顔の横に上げた。

「誰からの手紙かわかるか」

「…………。エミリアから、ですか」

「そうだ」

「……父上は、その内容を信じたのですか?」

 アンガスは真っ直ぐに、エンリケ子爵を見据えた。

「エミリアが嘘をついていないと、エミリアは悪くないと、どうして言い切れるのですか? どうして息子であるぼくの話を聞こうと思わないのですか?」

「……聞いて、お前は私にどうしてほしいんだ」

「なにも望んでいません。ただ、父上たちがぼくの味方であってくだされば、それでいいのです。それだけでぼくは、頑張れる」

「……なるほどな。お前の味方はもう、誰もいないのか。お前が所属する騎士団の仲間にもか?」

 動揺するアンガスに、エンリケ子爵は絶望したように片手で顔を覆った。

「……どちらにせよ、成人したお前に私がしてやれることはもうない。帰れ」

「か、帰れって……もう深夜で、外は真っ暗なんですよ? 一晩泊めてくれてもっ」

「村には居酒屋があるだろう。あそこは宿泊所も兼ねているし、そこに行けばいい」

「あ、あんまりですっ」

「……エミリアのこと、本当の娘のように思っていたよ。でも、縁が切れてしまった。残念だ」

「……っ。じゃ、じゃあせめて、お金を貸してください。なにも考えずに飛び出してきてしまって、持ち合わせがっ」

 ばたん。
 応接室の扉が無情に閉じられ、エンリケ子爵の姿が見えなくなった。アンガスは絶句しながら、控えていた執事に、縋るように顔を向けた。

「申し訳ありません。旦那様がああおっしゃられた以上、私にはどうすることも……」

「わ、わかった。お金はいいよ。でも、せめてなにか食べる物をわけてくれないかな」

 腹の音は聞こえているはずなのに、執事はもう一度「申し訳ありません」と、腰を折るだけだった。






 まだ幸いだったのは、馬には餌と水を与えてくれていたようで、少し元気を取り戻していることだった。

 それでも深夜の移動は危険を伴うし、腹も限界だったアンガスは、村で唯一の居酒屋へと向かった。食べ物と酒の匂いが入り交じる騒がしい店内に入ると、店で一番若そうな女性店員に声をかけた。

「こんばんは」

「! いらっしゃいませ。すみません、気付かなくて」

「いいんだ。それより、あの、ぼくのこと知ってる?」

 キョトンとする女性店員に、アンガスは「ぼくの名はアンガス・エンリケ。この村の、領主の息子だよ」と、笑った。

 女性店員が、ぱっと顔を輝かせる。

「えー、そうなんですね。知らなかったです!」

「うん。それでね、えっと。少し恥ずかしいんだけど」

「はい、なんでしょう」

「訳あって、持ち合わせがなくて……でもお腹がとても空いていて。後日お礼するから、なにか食べさせてくれると嬉しいんだけど」

 え。とたんに、にこやかだった女性店員から笑みが消えた。

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