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ルマヴァ王国にある、小さな街。とある家。居間と台所と寝室しかないその家には、結婚して一年目になる夫婦がいた。
仕事から帰宅してきた夫のアンガスを出迎え、テーブルに料理を並べる、妻のエミリア。二人で祈りを捧げ、エミリアは正面に座るアンガスに笑いかけた。
「今日もお疲れ様。さあ、食べましょう」
いつもの光景。いつもの言葉。
そのはずだった。
でも。
それは、突然のことだった。少なくともエミリアには、そう思えた。
「……手、随分と荒れているね。ちゃんとケアしてる?」
スプーンに伸ばしたエミリアの手をじっと見てから、アンガスはそんなことを口にした。心配そうな声音ではなく、不快そうに眉を歪めていたので、エミリアは数秒、固まった。
意味を理解するのに、時間を要してしまったせいだ。視線を逸らすこともせず、真っ直ぐに、責めるような視線を向けてくるアンガスにどう答えたらいいのかわからなくて、エミリアは思わず、顔を背けてしまった。
なにかきっと、意図があるのだろう。いや、不快だの責めるだの感じたのはきっと気のせいで、本当は心配してくれているのだろうと落とし込んだエミリアは、意識して、笑みを浮かべた。
「えと……そう、ね。家事は水仕事も多いし、どうしたって荒れてしまうから。気をつけないといけないわね」
そうだよ。
なんて軽く返されると思っていた。でも、アンガスはますます不快そうにこう言い捨ててきた。
「なんだいそれ、言い訳? 女としての自覚、少し足りないんじゃない?」
エミリアは目を見張った。こんな嫌味なことを面と向かって言われたのは、はじめてだったから。
(……空耳?)
疑いたくなるほど、これまでのアンガスとは別人のようだった。
アンガスはそれ以上なにも言わず、黙って食事をはじめた。エミリアの目に涙が滲む。
(……どうしよう。わたし、なにかしてしまったのかしら)
自身の手を見る。日焼けして荒れた手は、確かにお世辞にも綺麗とは言えないが、昨日、今日と比べて、特段変わったようには思えなかった。
(……ほか、他になにか、理由が)
思考を巡らせても、なにもわからなくて。
どうしたらいいのかわからず、ただ哀しくて、エミリアは結局、ごめんなさいと謝ることしかできなかった。
それでもアンガスは、なにも答えてくれなかった。
このとき、謝罪ではなく、なにか言い返すことができていたら、なにかが変わっていたのかもしれない。ただあまりに突然の変化に、エミリアの思考が追いつかず、衝撃で軽くパニックになっていたのかもしれない。
それがいけなかったのか。その日を境に、アンガスの嫌味や小言は、日を追うごとに増していった。
「化粧してるの? いくらここが家だからって、ぼくがいること忘れてない?」
「お弁当、手抜きすぎじゃない? あまりに貧相で、みんなの前で食べられなかったよ」
「髪も肌も艶がないし、きみ、いくつ? まだ二十歳前だよね?」
化粧はもちろんしている。アンガスと一緒に眠る直前に化粧を落とし、アンガスが起きる前に、化粧をする。結婚してから、ずっとそうしている。
お弁当に手を抜いたりなど、したことない。栄養バランスも、見栄えも、エミリアなりに考え、毎日頑張っているつもりだ。
髪も肌も、ちゃんと手入れはしている。結婚前より艶はなくなったかもしれないが、精一杯のケアはしているつもりだった。
どう頑張っても、褒めてもらえるどころか認めてももらえず、エミリアの心がどんどん後ろ向きになっていく。
ある日。あまりに哀しく、腹が立ったので「わたしなりに頑張っているのに、どうしてそんな酷いこと言うの?」と、はじめて反論してみた。
涙ながらの訴えに、アンガスが黙り込む。内心でエミリアの心臓はバクバクしていたが、傷付いていることをちゃんと伝えれば、きっと以前のアンガスに戻ってくれるはずだと信じていた。
心から謝罪してくれたら、わたしは──。
こぶしを握り締め、アンガスの言葉を待つ。アンガスは冷たい双眸のまま、謝罪するどころがこう言い放った。
「ぼくを愛しているなら、もっと頑張れるはずだろ?」
呆れたように、まるでエミリアを責めるような口調だった。
エミリアは愕然とした。こんな冷たいこと、言う人ではなかったのに。いつもありがとうと、優しく笑う人だったのに。
(……どうして変わってしまったの?)
立ち尽くすエミリアの横を通り過ぎ、テーブルに並べられた料理を見て、アンガスは、はあと、これみよがしにため息をついた。エミリアの指先が、ぴくりと動く。
これで何度目だろう。一生懸命に作った料理を見て、ため息をつかれるのは。
それでも何日か前までは、残さず食べてくれていた。でもいまは、食べてくれる量より、残される量の方が多くなってきていて。
──エミリアの頬に、涙がつたった。
すっかり日も暮れ、後片付けをすませたエミリアが寝室の扉を開ける。アンガスは寝台の、壁際の方にできる限り寄って、背を向けるかたちで眠っていた。その光景に、またエミリアの瞳が滲んだ。
(……わたしと一緒に寝るの、そんなに嫌? そんなにわたし、魅力ない?)
一つしかない寝台で、端と端で眠る毎日。夜の営みがなくなって、もう何日経つだろう。
寝台に横になり、アンガスとは反対の方に身体を向ける。毛布を頭から被り「……っ」と、声にならない声を出した。
エミリアは人知れず、声を押し殺して泣くようになった。アンガスの言動から、自分に魅力がないせいで夫に呆れられたのだと理解したエミリアは、これらのことを誰にも相談できずにいた。
女として、あまりに情けなく、惨めすぎたから。
それでもなんとか以前のような彼に戻ってほしくて。認めてほしくて。
努力して。頑張った。
でも。
「ぼくへの愛情が足りない。感じられないんだよ。本当にエミリアは、ぼくのことが好きなの?」
見損なったと言わんばかりに、そう告げられるだけの毎日に、エミリアの精神は疲弊していった。
ブルーノ子爵家次女のエミリアと、エンリケ子爵家三男のアンガスは、小さな頃から仲が良く、将来を誓い合った仲だった。
爵位を継げないアンガスは、騎士となった。小さな街がある領土を所持する領主に仕えている。
貴族の子ではあったものの。あいにく互いの家に金銭的な余裕はあまりなかったため、屋敷を出たとき、家からの援助は一切なかった。
二人はもう、貴族令息、貴族令嬢ではなく。金銭面でも、平民となんら変わらない生活を送っていた。
すべてを一から手探りで生きてきた。二人で支え合って。
「こんなぼくだけど、一緒になってくれる?」
十八歳のとき。不安そうな表情で、アンガスはプロポーズをしてくれた。貴族令嬢のエミリアは、親の命で無理やり政略結婚をさせられてもおかしくはなかったのに、両親はアンガスとの仲を昔から認めてくれていた。愛する人と一緒になりなさいと。
──ああ。なんてわたしは恵まれているのかしら。
エミリアは頬を緩め、アンガスの手をそっと握った。
「あなたと一緒なら、わたしはそれだけで幸せなのよ」
その言葉に、嘘はなかった。苦労は承知の上で、エミリアはアンガスのプロポーズを喜んで受け入れた。
ただ。口には出さなかったが、結婚当初は泣きたくなることも多々あった。
裕福ではなかったが、ブルーノ子爵家には、通いの使用人がいた。家事が追いつかないときには母親が手伝っていたから、エミリアはあまり、家事の経験はなかった。
洗濯一つとっても、一苦労。まして冬など、手がちぎれると錯覚するほどの苦痛を伴ったりもする。加えて、掃除、料理。家事は、水を扱う仕事が多数ある。
はじめは、やはりスムーズにはいかず。時間もかかるし、出来栄えもよくない。料理も失敗ばかりしていたが、それでもアンガスは笑って許してくれた。塩を入れすぎたスープに気付き、無理して食べなくてもいいのにとしょげたエミリアに、アンガスは、どうしてさ、とスープをすべて飲み干した。
「確かに少ししょっぱいけど、飲めなくはないし、なによりエミリアがぼくのために一生懸命作ってくれたんだから。残すなんてできないよ」
当然だろうと言わんばかりの微笑みに、涙が滲んだ。
なんとか美味しい料理を食べさせてあげたくて、たくさん学び、頑張った。そのかいもあって、結婚から一年経ったいまは、随分上達した。
はずだと思っていた。
でも。
それは、傲りだったのだろうか。
今日の夕食も、美味しくない、と残されてしまった。正直、捨てる余裕なんてないから、それは明日の自分用の朝食にまわすことにしたけれど、ただただ、惨めで仕方がなかった。
すぐ傍で寝息を立てるアンガスの隣で、眠れないエミリアがいつものように声を押し殺し、静かに泣く。
そのときだった。
「……ディー」
アンガスが、なにかを呟いた。めそめそとすすり泣く声に起きてしまったのかと焦り、心臓が跳ね、エミリアは背を向けたままじっとしていたが、また寝息が聞こえてきたことにほっとし、ちらっとアンガスの方を見た。
「……シンディー、さん」
それは小さな声だったが、エミリアの耳には確かに届いた。カーテンの隙間からもれる月明かりに照らされたアンガスの口元は緩んでいて、機嫌よさそうに笑っているように見えた。
エミリアが、静かに上体を起こす。
「……シンディーさん?」
その名に、エミリアは覚えがあった。
アンガスが所属する騎士団の団長の妻。その人の名前が、シンディーだ。はじめて顔を合わせたのは、アンガスが騎士になって、初の遠征から帰ってきたとき。
団長が遠征に赴いていた部下を労い、自らの屋敷で慰労会を開いてくれたのだ。家族も是非にとのことだったので、エミリアもアンガスに連れられ、参加した。
「いつも主人がお世話になっております」
エミリアより五つ年上のその人は、淡い金髪をさらっと揺らした。おっとりしていて、甘い匂いがして、ふわっとした美人で。女のエミリアでも思わず見惚れてしまうような、そんな女性だった。
隣では、案の定、アンガスもシンディーに見惚れていた。少しむっとしたものの、この人相手では仕方ないかとも思った。アンガスと同じ、シンディーとは初対面の騎士団のみなも似たような反応をしていたので、なおさらだった。
言葉を交わすと、シンディーは見た目に反し、とても芯のある女性で。それでいて気遣いができる、立派な人だった。そのこともあって、もはやエミリアの中で、憧れの粋に達した人物となっていった──のだが。
(……待って。アンガスがおかしくなったのって、いつからだっけ)
どくん。どくん。
心臓が早鐘を打ち始める。
そう、そうだ。なんで気付かなかったんだろう。
手荒れのことを指摘されたのは、あの慰労会の翌日のことだった。
団長の妻は、どんな手をしていたっけ。髪や肌は。そこまで細かく観察はしていなかったが、どこもかしこも綺麗だったことだけが印象に残っている。
(……あちらで用意してくれた料理は、どれも、とても美味しかった。アンガスも、すごく褒めてた……)
胸中で呟いてから、エミリアはぐっと唇を引き締め、ある決意をした。
翌朝。
目を覚ましたアンガスに、エミリアは声をかけた。まだはっきりと頭が覚醒していないようだったが、待っていられなかった。
「アンガス、質問があるの」
「……頭がおかしいんじゃないのか。ぼくはきみと違って、朝から晩まで働いていて疲れているのに、おはようもなしに目を覚ましたとたんに質問? 労いの気持ちはないの?」
怒気混じりの不機嫌さに、心が哀しみに揺れたが、エミリアは意を決して口を開いた。
「──あなたは、シンディーさんが好きなの?」
その質問は予想外だったのか。ごろんと背を向けたアンガスの動きが、ぴたっと止まった。
「寝言で、シンディーさんの名前を呼んでいたわ」
しばらくの沈黙の後。アンガスは、へえ、と起き上がり、髪をかき上げた。
「夢の内容は覚えてないけど、良い夢を見たなあって感覚はあったんだ。なるほどね」
悪びれも、慌てることもせず吐露するアンガスに、エミリアは目を見張った。エミリアの心情を察してか、アンガスはにやりと口角を上げた。
「シンディーさんのこと、好きかって? そりゃあ、あんな女性を嫌う男なんていないさ。いたらぜひ、お目にかかりたいものだね」
──この人は、なにを言っているの?
頭はぐちゃぐちゃのまま、エミリアは掠れた声を、震えながら絞り出した。
「……わたしとシンディーさんを、ずっと比べていたの?」
膝に置いたこぶしを強く握りしめるエミリアを一瞥してから、アンガスは「まあね」と、これもなんの迷いもなく答えた。
仕事から帰宅してきた夫のアンガスを出迎え、テーブルに料理を並べる、妻のエミリア。二人で祈りを捧げ、エミリアは正面に座るアンガスに笑いかけた。
「今日もお疲れ様。さあ、食べましょう」
いつもの光景。いつもの言葉。
そのはずだった。
でも。
それは、突然のことだった。少なくともエミリアには、そう思えた。
「……手、随分と荒れているね。ちゃんとケアしてる?」
スプーンに伸ばしたエミリアの手をじっと見てから、アンガスはそんなことを口にした。心配そうな声音ではなく、不快そうに眉を歪めていたので、エミリアは数秒、固まった。
意味を理解するのに、時間を要してしまったせいだ。視線を逸らすこともせず、真っ直ぐに、責めるような視線を向けてくるアンガスにどう答えたらいいのかわからなくて、エミリアは思わず、顔を背けてしまった。
なにかきっと、意図があるのだろう。いや、不快だの責めるだの感じたのはきっと気のせいで、本当は心配してくれているのだろうと落とし込んだエミリアは、意識して、笑みを浮かべた。
「えと……そう、ね。家事は水仕事も多いし、どうしたって荒れてしまうから。気をつけないといけないわね」
そうだよ。
なんて軽く返されると思っていた。でも、アンガスはますます不快そうにこう言い捨ててきた。
「なんだいそれ、言い訳? 女としての自覚、少し足りないんじゃない?」
エミリアは目を見張った。こんな嫌味なことを面と向かって言われたのは、はじめてだったから。
(……空耳?)
疑いたくなるほど、これまでのアンガスとは別人のようだった。
アンガスはそれ以上なにも言わず、黙って食事をはじめた。エミリアの目に涙が滲む。
(……どうしよう。わたし、なにかしてしまったのかしら)
自身の手を見る。日焼けして荒れた手は、確かにお世辞にも綺麗とは言えないが、昨日、今日と比べて、特段変わったようには思えなかった。
(……ほか、他になにか、理由が)
思考を巡らせても、なにもわからなくて。
どうしたらいいのかわからず、ただ哀しくて、エミリアは結局、ごめんなさいと謝ることしかできなかった。
それでもアンガスは、なにも答えてくれなかった。
このとき、謝罪ではなく、なにか言い返すことができていたら、なにかが変わっていたのかもしれない。ただあまりに突然の変化に、エミリアの思考が追いつかず、衝撃で軽くパニックになっていたのかもしれない。
それがいけなかったのか。その日を境に、アンガスの嫌味や小言は、日を追うごとに増していった。
「化粧してるの? いくらここが家だからって、ぼくがいること忘れてない?」
「お弁当、手抜きすぎじゃない? あまりに貧相で、みんなの前で食べられなかったよ」
「髪も肌も艶がないし、きみ、いくつ? まだ二十歳前だよね?」
化粧はもちろんしている。アンガスと一緒に眠る直前に化粧を落とし、アンガスが起きる前に、化粧をする。結婚してから、ずっとそうしている。
お弁当に手を抜いたりなど、したことない。栄養バランスも、見栄えも、エミリアなりに考え、毎日頑張っているつもりだ。
髪も肌も、ちゃんと手入れはしている。結婚前より艶はなくなったかもしれないが、精一杯のケアはしているつもりだった。
どう頑張っても、褒めてもらえるどころか認めてももらえず、エミリアの心がどんどん後ろ向きになっていく。
ある日。あまりに哀しく、腹が立ったので「わたしなりに頑張っているのに、どうしてそんな酷いこと言うの?」と、はじめて反論してみた。
涙ながらの訴えに、アンガスが黙り込む。内心でエミリアの心臓はバクバクしていたが、傷付いていることをちゃんと伝えれば、きっと以前のアンガスに戻ってくれるはずだと信じていた。
心から謝罪してくれたら、わたしは──。
こぶしを握り締め、アンガスの言葉を待つ。アンガスは冷たい双眸のまま、謝罪するどころがこう言い放った。
「ぼくを愛しているなら、もっと頑張れるはずだろ?」
呆れたように、まるでエミリアを責めるような口調だった。
エミリアは愕然とした。こんな冷たいこと、言う人ではなかったのに。いつもありがとうと、優しく笑う人だったのに。
(……どうして変わってしまったの?)
立ち尽くすエミリアの横を通り過ぎ、テーブルに並べられた料理を見て、アンガスは、はあと、これみよがしにため息をついた。エミリアの指先が、ぴくりと動く。
これで何度目だろう。一生懸命に作った料理を見て、ため息をつかれるのは。
それでも何日か前までは、残さず食べてくれていた。でもいまは、食べてくれる量より、残される量の方が多くなってきていて。
──エミリアの頬に、涙がつたった。
すっかり日も暮れ、後片付けをすませたエミリアが寝室の扉を開ける。アンガスは寝台の、壁際の方にできる限り寄って、背を向けるかたちで眠っていた。その光景に、またエミリアの瞳が滲んだ。
(……わたしと一緒に寝るの、そんなに嫌? そんなにわたし、魅力ない?)
一つしかない寝台で、端と端で眠る毎日。夜の営みがなくなって、もう何日経つだろう。
寝台に横になり、アンガスとは反対の方に身体を向ける。毛布を頭から被り「……っ」と、声にならない声を出した。
エミリアは人知れず、声を押し殺して泣くようになった。アンガスの言動から、自分に魅力がないせいで夫に呆れられたのだと理解したエミリアは、これらのことを誰にも相談できずにいた。
女として、あまりに情けなく、惨めすぎたから。
それでもなんとか以前のような彼に戻ってほしくて。認めてほしくて。
努力して。頑張った。
でも。
「ぼくへの愛情が足りない。感じられないんだよ。本当にエミリアは、ぼくのことが好きなの?」
見損なったと言わんばかりに、そう告げられるだけの毎日に、エミリアの精神は疲弊していった。
ブルーノ子爵家次女のエミリアと、エンリケ子爵家三男のアンガスは、小さな頃から仲が良く、将来を誓い合った仲だった。
爵位を継げないアンガスは、騎士となった。小さな街がある領土を所持する領主に仕えている。
貴族の子ではあったものの。あいにく互いの家に金銭的な余裕はあまりなかったため、屋敷を出たとき、家からの援助は一切なかった。
二人はもう、貴族令息、貴族令嬢ではなく。金銭面でも、平民となんら変わらない生活を送っていた。
すべてを一から手探りで生きてきた。二人で支え合って。
「こんなぼくだけど、一緒になってくれる?」
十八歳のとき。不安そうな表情で、アンガスはプロポーズをしてくれた。貴族令嬢のエミリアは、親の命で無理やり政略結婚をさせられてもおかしくはなかったのに、両親はアンガスとの仲を昔から認めてくれていた。愛する人と一緒になりなさいと。
──ああ。なんてわたしは恵まれているのかしら。
エミリアは頬を緩め、アンガスの手をそっと握った。
「あなたと一緒なら、わたしはそれだけで幸せなのよ」
その言葉に、嘘はなかった。苦労は承知の上で、エミリアはアンガスのプロポーズを喜んで受け入れた。
ただ。口には出さなかったが、結婚当初は泣きたくなることも多々あった。
裕福ではなかったが、ブルーノ子爵家には、通いの使用人がいた。家事が追いつかないときには母親が手伝っていたから、エミリアはあまり、家事の経験はなかった。
洗濯一つとっても、一苦労。まして冬など、手がちぎれると錯覚するほどの苦痛を伴ったりもする。加えて、掃除、料理。家事は、水を扱う仕事が多数ある。
はじめは、やはりスムーズにはいかず。時間もかかるし、出来栄えもよくない。料理も失敗ばかりしていたが、それでもアンガスは笑って許してくれた。塩を入れすぎたスープに気付き、無理して食べなくてもいいのにとしょげたエミリアに、アンガスは、どうしてさ、とスープをすべて飲み干した。
「確かに少ししょっぱいけど、飲めなくはないし、なによりエミリアがぼくのために一生懸命作ってくれたんだから。残すなんてできないよ」
当然だろうと言わんばかりの微笑みに、涙が滲んだ。
なんとか美味しい料理を食べさせてあげたくて、たくさん学び、頑張った。そのかいもあって、結婚から一年経ったいまは、随分上達した。
はずだと思っていた。
でも。
それは、傲りだったのだろうか。
今日の夕食も、美味しくない、と残されてしまった。正直、捨てる余裕なんてないから、それは明日の自分用の朝食にまわすことにしたけれど、ただただ、惨めで仕方がなかった。
すぐ傍で寝息を立てるアンガスの隣で、眠れないエミリアがいつものように声を押し殺し、静かに泣く。
そのときだった。
「……ディー」
アンガスが、なにかを呟いた。めそめそとすすり泣く声に起きてしまったのかと焦り、心臓が跳ね、エミリアは背を向けたままじっとしていたが、また寝息が聞こえてきたことにほっとし、ちらっとアンガスの方を見た。
「……シンディー、さん」
それは小さな声だったが、エミリアの耳には確かに届いた。カーテンの隙間からもれる月明かりに照らされたアンガスの口元は緩んでいて、機嫌よさそうに笑っているように見えた。
エミリアが、静かに上体を起こす。
「……シンディーさん?」
その名に、エミリアは覚えがあった。
アンガスが所属する騎士団の団長の妻。その人の名前が、シンディーだ。はじめて顔を合わせたのは、アンガスが騎士になって、初の遠征から帰ってきたとき。
団長が遠征に赴いていた部下を労い、自らの屋敷で慰労会を開いてくれたのだ。家族も是非にとのことだったので、エミリアもアンガスに連れられ、参加した。
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エミリアより五つ年上のその人は、淡い金髪をさらっと揺らした。おっとりしていて、甘い匂いがして、ふわっとした美人で。女のエミリアでも思わず見惚れてしまうような、そんな女性だった。
隣では、案の定、アンガスもシンディーに見惚れていた。少しむっとしたものの、この人相手では仕方ないかとも思った。アンガスと同じ、シンディーとは初対面の騎士団のみなも似たような反応をしていたので、なおさらだった。
言葉を交わすと、シンディーは見た目に反し、とても芯のある女性で。それでいて気遣いができる、立派な人だった。そのこともあって、もはやエミリアの中で、憧れの粋に達した人物となっていった──のだが。
(……待って。アンガスがおかしくなったのって、いつからだっけ)
どくん。どくん。
心臓が早鐘を打ち始める。
そう、そうだ。なんで気付かなかったんだろう。
手荒れのことを指摘されたのは、あの慰労会の翌日のことだった。
団長の妻は、どんな手をしていたっけ。髪や肌は。そこまで細かく観察はしていなかったが、どこもかしこも綺麗だったことだけが印象に残っている。
(……あちらで用意してくれた料理は、どれも、とても美味しかった。アンガスも、すごく褒めてた……)
胸中で呟いてから、エミリアはぐっと唇を引き締め、ある決意をした。
翌朝。
目を覚ましたアンガスに、エミリアは声をかけた。まだはっきりと頭が覚醒していないようだったが、待っていられなかった。
「アンガス、質問があるの」
「……頭がおかしいんじゃないのか。ぼくはきみと違って、朝から晩まで働いていて疲れているのに、おはようもなしに目を覚ましたとたんに質問? 労いの気持ちはないの?」
怒気混じりの不機嫌さに、心が哀しみに揺れたが、エミリアは意を決して口を開いた。
「──あなたは、シンディーさんが好きなの?」
その質問は予想外だったのか。ごろんと背を向けたアンガスの動きが、ぴたっと止まった。
「寝言で、シンディーさんの名前を呼んでいたわ」
しばらくの沈黙の後。アンガスは、へえ、と起き上がり、髪をかき上げた。
「夢の内容は覚えてないけど、良い夢を見たなあって感覚はあったんだ。なるほどね」
悪びれも、慌てることもせず吐露するアンガスに、エミリアは目を見張った。エミリアの心情を察してか、アンガスはにやりと口角を上げた。
「シンディーさんのこと、好きかって? そりゃあ、あんな女性を嫌う男なんていないさ。いたらぜひ、お目にかかりたいものだね」
──この人は、なにを言っているの?
頭はぐちゃぐちゃのまま、エミリアは掠れた声を、震えながら絞り出した。
「……わたしとシンディーさんを、ずっと比べていたの?」
膝に置いたこぶしを強く握りしめるエミリアを一瞥してから、アンガスは「まあね」と、これもなんの迷いもなく答えた。
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