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崩れた翅の呼び声
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キーボードの音が響く夕方のオフィス。静一は脇目も振らずに経費精算をこなしていた。システム改修が終わって間もないが業務に支障は出ていない。時折他の社員から操作方法について質問が出ても、託されたマニュアルで充分に対応できている。
遠く離れた客先に常駐している者に連絡を取る必要はなにもない。
「おーい、平川くん」
顔を上げると身支度を整えたナオミが立っていた。窓の外は既に暗くなり、他に残っている社員もいない。
「私そろそろ帰るけど、まだかかりそう?」
「ああ、はい。あと少し何で、休み前に一通り終わらせておこうかと」
「ふーん。でも、あんまり無理しなくても大丈夫だよ。なんか最近元気ないし、週末はちゃんと休んだら?」
「あはは、大丈夫ですよ。本当にあと少しだけなんで」
「そう? じゃあ、ほどほどにね。何かあったら週明けに手伝うから」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「はーい、お疲れー」
ひらひらと手を振る後ろ姿を見送っていると、ふと、以前も同じようなことがあったことを思い出した。
しかし、今日は急いで仕事を終わらせたところで誰が待っているわけでもない。ガラス張りの喫煙所で気怠げに紫煙をくゆらせるすがたは、もう。
「……集中、しないと」
静一は軽く頬を叩き画面に向かうと残りの仕事にとりかかった。区切りがつくころにはすでに終電間近になっていた。
※※※
疲れた身体を引きずり部屋に戻り、食事もそこそこに寝るしたくを済ませベッドに倒れ込む。枕元で充電しているスマートフォンの画面には数件の通知が表示されていた。いずれも通販アプリのものだ。交際相手に捨てられたコレクションと同じものが入荷したのだろう。
戦前に流通した責め絵師の画集、戦後に緊縛ショーの世界を作ったプロモーターにして緊縛師の回顧録、緊縛もの成人映画のポスター集、それに細川樹氷が緊縛師としてはじめて縄の監修に携わったAV。
交際相手からの賠償金もまだ残っている。しかし、商品をカートに入れる気にはなれなかった。
緊縛に対しての興味や情熱を失ったわけではない。ただし、どんなに評価が高い作品を前にしても、以前ほど心が震えなかった。
眠気にぼやける視界のなか通販アプリの画面には、樹氷が手がけた緊縛写真集が並ぶ。スワイプしながら眺めていると、鮮やかで複雑な縄をまとう裸体のモデル達のなかに黒い影がよぎった。思わず画面をなぞる指がとまる。表示されたのは喪服の上から緋色の縄で縛られた中年女性。自ずと小さなため息がこぼれた。
黒い肌襦袢。
白く滑らかな肌。
薄く食い込み全身を戒める緋色の縄。
苦痛と恍惚が入り交じった笑み。
労いの言葉をかける掠れた声と頭をなでる手。
もう二度と傍に立つことが許されない人。
件の動画も以前イツキが言ったようにいつの間にか全て削除されていた。今許されていることは眠りの前の一時、目蓋の裏に焼きついた姿を反芻することのみ。
「……寝よう」
スマートフォンをスリープモードに切り替え枕元に置こうとしたそのとき、俄に振動が伝わり画面が明るくなった。メッセージアプリからの通知がきている。
差出人名は、高山円。
眠気は一気にさめた。
もつれる指でメッセージをタップするとURLとパスワードが記載された本文が開いた。それ以外は何も書かれていない。
真意を問う返信など望まれていないのだろう。
静一は息を飲みURLをタップした。続いて表示されたテキストボックスにパスワードを入力する。すると画面が暗転し、しばしの間を置いて動画のサムネイルが表示された。
片耳に紅い飾り房がついた狐の半面、漆黒の肌襦袢。
映っているのは間違いなく高山だ。
その隣には落ち着かない表情を浮かべた男性が、毒々しいピンク色をした綿のロープを手に立っている。男性が新たなパートナーだということはすぐに見てとれた。近況報告か決別の宣言か、どちらにしろ新しい相手が見つかったのなら自分はもう身を引くべきなのだろうと思った。
動画を再生するそのときまでは。
パートナーは落ち着かない表情のまま、棒読みの卑猥な言葉で罵りながら高山を縛っていく。その手つきはぎこちなく、縄はずれ、歪み、たわみ、ひどく不格好な有様で黒い肌襦袢を着た身体にまとわりついていく。半面からのぞく紅を引いた唇からは、恍惚からではないと断言できるため息がこぼれた。それに気づく素振りすらなく、男は必死で棒読みの台詞を必死に続け毒々しいピンク色の縄で高山を汚し続ける。
気がつけば、スマートフォンを握りしめる手が震えていた。
いますぐそこを退け。
その人はお前なんかが縄をかけていい人じゃない。
叫びを押し殺すうちに歪で崩れた後ろ手縛りが完成した。同時にそれまで泳いでいた目が満足げに細められる。
なにを悦に入っているんだ。
さっさとその醜い縄を解け。
心の内でいくら叫んだところで動画ファイルのなかにとどくはずもない。パートナーは余った縄を引きながら、先ほどよりもやや感情のこもった声で跪くように命じた。高山は相変わらずつまらなそうな口元を覗かせながら、おもむろに床に膝をつく。その間も抑揚をました卑猥な罵りが響きつづけた。
恐らくこの男は緊縛そのものよりも、相手の身体を拘束して行為に及ぶことを好んでいるのだろう。双方の合意がある以上、それを否定するつもりはない。
ただし、高山が求めているものは違ったはず。
たとえ身が蝕まれようとも、縄による美の極限へ。
そんな望みを叶えられるのは、少なくともこの動画に映っている男ではない。
一月ほど前に行った最後の縄が頭をよぎる。
白日に晒された縄を纏う身体。恍惚と苦痛がない交ぜになった微笑み。縋り付いた足の甲の滑らかさ。泣き顔に吹きかけられた甘い香り。
もう一度、その傍に立つことが許されるのなら、今度こそは。
気がつくと、手間取りながら服を脱ぐパートナーの傍らに跪きながら高山がこちらを見つめていた。狐の半面越しにも射貫くような視線を感じる。
「Arrested at last」
動画の終了間際、紅を引いた薄い唇はたしかにそう動いた。
遠く離れた客先に常駐している者に連絡を取る必要はなにもない。
「おーい、平川くん」
顔を上げると身支度を整えたナオミが立っていた。窓の外は既に暗くなり、他に残っている社員もいない。
「私そろそろ帰るけど、まだかかりそう?」
「ああ、はい。あと少し何で、休み前に一通り終わらせておこうかと」
「ふーん。でも、あんまり無理しなくても大丈夫だよ。なんか最近元気ないし、週末はちゃんと休んだら?」
「あはは、大丈夫ですよ。本当にあと少しだけなんで」
「そう? じゃあ、ほどほどにね。何かあったら週明けに手伝うから」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「はーい、お疲れー」
ひらひらと手を振る後ろ姿を見送っていると、ふと、以前も同じようなことがあったことを思い出した。
しかし、今日は急いで仕事を終わらせたところで誰が待っているわけでもない。ガラス張りの喫煙所で気怠げに紫煙をくゆらせるすがたは、もう。
「……集中、しないと」
静一は軽く頬を叩き画面に向かうと残りの仕事にとりかかった。区切りがつくころにはすでに終電間近になっていた。
※※※
疲れた身体を引きずり部屋に戻り、食事もそこそこに寝るしたくを済ませベッドに倒れ込む。枕元で充電しているスマートフォンの画面には数件の通知が表示されていた。いずれも通販アプリのものだ。交際相手に捨てられたコレクションと同じものが入荷したのだろう。
戦前に流通した責め絵師の画集、戦後に緊縛ショーの世界を作ったプロモーターにして緊縛師の回顧録、緊縛もの成人映画のポスター集、それに細川樹氷が緊縛師としてはじめて縄の監修に携わったAV。
交際相手からの賠償金もまだ残っている。しかし、商品をカートに入れる気にはなれなかった。
緊縛に対しての興味や情熱を失ったわけではない。ただし、どんなに評価が高い作品を前にしても、以前ほど心が震えなかった。
眠気にぼやける視界のなか通販アプリの画面には、樹氷が手がけた緊縛写真集が並ぶ。スワイプしながら眺めていると、鮮やかで複雑な縄をまとう裸体のモデル達のなかに黒い影がよぎった。思わず画面をなぞる指がとまる。表示されたのは喪服の上から緋色の縄で縛られた中年女性。自ずと小さなため息がこぼれた。
黒い肌襦袢。
白く滑らかな肌。
薄く食い込み全身を戒める緋色の縄。
苦痛と恍惚が入り交じった笑み。
労いの言葉をかける掠れた声と頭をなでる手。
もう二度と傍に立つことが許されない人。
件の動画も以前イツキが言ったようにいつの間にか全て削除されていた。今許されていることは眠りの前の一時、目蓋の裏に焼きついた姿を反芻することのみ。
「……寝よう」
スマートフォンをスリープモードに切り替え枕元に置こうとしたそのとき、俄に振動が伝わり画面が明るくなった。メッセージアプリからの通知がきている。
差出人名は、高山円。
眠気は一気にさめた。
もつれる指でメッセージをタップするとURLとパスワードが記載された本文が開いた。それ以外は何も書かれていない。
真意を問う返信など望まれていないのだろう。
静一は息を飲みURLをタップした。続いて表示されたテキストボックスにパスワードを入力する。すると画面が暗転し、しばしの間を置いて動画のサムネイルが表示された。
片耳に紅い飾り房がついた狐の半面、漆黒の肌襦袢。
映っているのは間違いなく高山だ。
その隣には落ち着かない表情を浮かべた男性が、毒々しいピンク色をした綿のロープを手に立っている。男性が新たなパートナーだということはすぐに見てとれた。近況報告か決別の宣言か、どちらにしろ新しい相手が見つかったのなら自分はもう身を引くべきなのだろうと思った。
動画を再生するそのときまでは。
パートナーは落ち着かない表情のまま、棒読みの卑猥な言葉で罵りながら高山を縛っていく。その手つきはぎこちなく、縄はずれ、歪み、たわみ、ひどく不格好な有様で黒い肌襦袢を着た身体にまとわりついていく。半面からのぞく紅を引いた唇からは、恍惚からではないと断言できるため息がこぼれた。それに気づく素振りすらなく、男は必死で棒読みの台詞を必死に続け毒々しいピンク色の縄で高山を汚し続ける。
気がつけば、スマートフォンを握りしめる手が震えていた。
いますぐそこを退け。
その人はお前なんかが縄をかけていい人じゃない。
叫びを押し殺すうちに歪で崩れた後ろ手縛りが完成した。同時にそれまで泳いでいた目が満足げに細められる。
なにを悦に入っているんだ。
さっさとその醜い縄を解け。
心の内でいくら叫んだところで動画ファイルのなかにとどくはずもない。パートナーは余った縄を引きながら、先ほどよりもやや感情のこもった声で跪くように命じた。高山は相変わらずつまらなそうな口元を覗かせながら、おもむろに床に膝をつく。その間も抑揚をました卑猥な罵りが響きつづけた。
恐らくこの男は緊縛そのものよりも、相手の身体を拘束して行為に及ぶことを好んでいるのだろう。双方の合意がある以上、それを否定するつもりはない。
ただし、高山が求めているものは違ったはず。
たとえ身が蝕まれようとも、縄による美の極限へ。
そんな望みを叶えられるのは、少なくともこの動画に映っている男ではない。
一月ほど前に行った最後の縄が頭をよぎる。
白日に晒された縄を纏う身体。恍惚と苦痛がない交ぜになった微笑み。縋り付いた足の甲の滑らかさ。泣き顔に吹きかけられた甘い香り。
もう一度、その傍に立つことが許されるのなら、今度こそは。
気がつくと、手間取りながら服を脱ぐパートナーの傍らに跪きながら高山がこちらを見つめていた。狐の半面越しにも射貫くような視線を感じる。
「Arrested at last」
動画の終了間際、紅を引いた薄い唇はたしかにそう動いた。
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