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黒猫、眼科へ行く
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「ねえねえ、この席このあと誰か来たりする?」
「え? あの、いえ、とくにそういう予定は……」
「じゃあ、座っても大丈夫?」
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとう!」
――ん。
「いやぁ、学食ってこんなに混むんだ。いつも、友達と外のベンチとかで食べてたから知らなかったよ」
「そう、ですか」
「あと、意外にメニューがいっぱいあるんだね。キツネ丼とか、かすうどんとか、見たことないのもあるし」
「そう、ですね。多分、メニューを決める方に、関西出身の方が、いるんじゃないですか」
「へー、関西のメニューなんだ」
「はい、親戚が、そっちのほうにいる、ので、目にしたことが」
「そうなんだ」
――さん。
「あ、私は政経の堂島光」
「えっと、機械工学科の、佐伯昴、です」
「え!? 機械工学科!? すごっ! 超頭いいんだね!」
「え、あの、別に、そんな」
「いやいや、謙遜しなくていいって」
――堂島さん。
「さっき教職の講義で前の席に座ってるの見てたけど、なんか頭良さそうなオーラがもすもす出てたもん」
「えーと、どんなオーラなんですか、それ。あと、オーラにそのオノマトペはあまり適切じゃない気が」
「あははは! たしかに!」
「堂島さん。そろそろ、昼休み、終わりますよ?」
気がつくと学食は職場の休憩室に変わり、黒縁眼鏡をかけた女の子に顔を覗き込まれていた。
えーと、鈴木……じゃなくて、斉藤さんだ。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。教えてくれてありがとうね」
「あ、いえ、別に……。それより、体調は大丈夫ですか?」
「体調? うん、全然平気だけど、どうして?」
「えっと、その、機能から、ずっと元気がなさそうに、見えたので……」
「あー……」
本当に、よく気がつくよねこの子。
適当にごまかしても余計心配するだろうし、本当のことを話しておこうか。
「一昨日の夜、付き合いの長い友人が亡くなってね」
「え!? あ、あの、無神経なこと聞いて、すみま、せん……」
「いいのいいの。この歳になると、それなりに起こることだから」
「そう、なん、ですか……えっと、ご愁傷さま、です」
「うん、どうもね。まあ、それでちょっと感傷的になってさ、ちょっと前に亡くなったその友人とは別の大切な人を思い出してたの」
「別の、大切な、人?」
「そ。どう? 薄情なヤツでしょ?」
「い、いえ! 別にそんなことは……、大事な人とお別れするのは、辛いこと、だと思いますし」
「そうだねぇ。しかも、かなり突然の事だったから結構引きずっちゃっててさ」
「そう、ですか……」
斉藤さんは目を伏せて黙り込んでしまった。たしかに、職場で少し話す関係くらいの婆さんにこんな重い話をされても困るか。
「というわけで、凹んでたけれど気持ちを切り替えて仕事をするから大丈夫だよ。じゃ、そろそろラインに戻ろうか」
「あ、はい。そう、ですね」
※※※
それからいつも通り流れていくプラスティックカップを眺め、いつも通りドボルザークの「家路」とともに終業時間を迎え、いつも通り家に帰る……途中に予約しておいた眼科に寄って、いつも通りの夜を迎える予定だったわけだけれど。
「これは、カメラの故障ですね」
フレームが細い眼鏡をかけた女医が無表情でタブレットを操作しながらそう告げた。どうやら、いつも通りの夜を迎えるのは難しそうだ。
「左様で……」
「ええ。ですので、眼科よりもメーカーのサポート窓口に連絡することをお勧めします。それと」
短く切りそろえられてよく磨かれた爪が画面の上をなぞっていく。
「自己同一性に問題が出ている様子なので、完全自動化の介護施設への入所も検討したほうがいいですよ」
やっぱり、そういう話になるよね。調子が悪くなったときにカメラの故障を疑えなかったわけだし、そもそも最近人の名前とか覚えづらくなってきてたし。
「数え役満ってところかぁ」
「何言ってるんですか。ロボットで人間用の病院に来ている時点で、国士無双の天和くらい明確な役満ですよ」
「えー? 国士無双の天和ってぱっと見で判断するの難しくない? なら、私の症状もまだそんなに明確にあれなわけじゃ……」
「たとえ話に一々屁理屈で反論しないでください」
無表情だった顔にあからさまな苛立ちの色が浮かんで、深いため息がこぼれた。
「まったく。貴女が叔母じゃなければ、ロボットで来た時点で追い返していたのに」
「ふっふっふ、親戚一同から爪弾きにされてる私を叔母と扱いしてくれるなんて、香織先生はなんだかんだで優しいにゃー」
「ふざけないでください! まったく、もう……」
今度は悲劇のヒロインにでもなったような表情が浮かぶ。
「貴女が、よりによって女なんかと出奔してくれたおかげで、お母さんがどれだけ苦労したと思っているんですか」
震える声が親戚どころか親とも疎遠になった理由を蒸し返した。
たしかに、私が就職したころは同性の恋愛、まして結婚のような形で一緒にいることに対してそこそこの偏見があった。まあ、法律関係が整備された今でも偏見は、残ってはいるのだけれども。
そんな中で女性と一緒に家を飛び出した私を庇ってくれていた姉は、それなりに周りからとやかく言われていたのだろう。恨まれるのも当然だとは思う。それでも。
「こらこら、叔母ちゃんの大事な人に『なんか』なんてつけるのは、よくないと思うにゃー」
「黙っていてください!」
甲高い怒鳴り声のおかげで耳元でハウリングが起きた。これはこのまま耳鼻科にいって診てもらったほうがいいかもしれない。多分、今度こそ入り口で追い返されるだろうけれど。
「……ともかく、完全自動化の介護施設への紹介状を作るので明日また来てください。貴女には学費等の援助もしていただいたので、それなりにちゃんとした所へ出しますから」
「それはどうも」
「それと、眼科検診の他に採血等の検査もありますので、くれぐれも絶対に生身できてくださいね」
「はいはい」
適当に返事をすると眼鏡の奥の鋭い目が更に険しくなった。これ以上ハウリングを起こされる前にさっさと退散することにしよう。
※※※
病院を出ると外はもう暗くなっていた。まだまだ暑けれど、夏も終わりにむかっているんだなあ。
それにしても姪っ子め。小さい頃は結構懐いてくれていたのに、最近は塩対応にもほどがある。遅めに来た反抗期かなんかだろうか。
「皆さま、高松和夫、輝ける未来の党の高松和夫をよろしくお願いいたします!」
遠くから選挙カーの声が響いてくる。そういえば、投票日は明後日だったかな。
「ご声援ありがとうございます! 未来ある若者の皆さま、ともにこの国を強欲な高齢者たちから取り戻しましょう!」
かなり過激なことを言っているけれど、ロボットはおろか生身っぽい人たちまで顔をしかめていない。こういう時代も姪っ子の塩対応の一端を担っている原因なのかもしれないな。あの子もう若者っていう歳でもないけれど。
ともかく生身で出かけるのは久しぶりだし、寝る前にかるくストレッチでもしておこう。
「え? あの、いえ、とくにそういう予定は……」
「じゃあ、座っても大丈夫?」
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとう!」
――ん。
「いやぁ、学食ってこんなに混むんだ。いつも、友達と外のベンチとかで食べてたから知らなかったよ」
「そう、ですか」
「あと、意外にメニューがいっぱいあるんだね。キツネ丼とか、かすうどんとか、見たことないのもあるし」
「そう、ですね。多分、メニューを決める方に、関西出身の方が、いるんじゃないですか」
「へー、関西のメニューなんだ」
「はい、親戚が、そっちのほうにいる、ので、目にしたことが」
「そうなんだ」
――さん。
「あ、私は政経の堂島光」
「えっと、機械工学科の、佐伯昴、です」
「え!? 機械工学科!? すごっ! 超頭いいんだね!」
「え、あの、別に、そんな」
「いやいや、謙遜しなくていいって」
――堂島さん。
「さっき教職の講義で前の席に座ってるの見てたけど、なんか頭良さそうなオーラがもすもす出てたもん」
「えーと、どんなオーラなんですか、それ。あと、オーラにそのオノマトペはあまり適切じゃない気が」
「あははは! たしかに!」
「堂島さん。そろそろ、昼休み、終わりますよ?」
気がつくと学食は職場の休憩室に変わり、黒縁眼鏡をかけた女の子に顔を覗き込まれていた。
えーと、鈴木……じゃなくて、斉藤さんだ。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。教えてくれてありがとうね」
「あ、いえ、別に……。それより、体調は大丈夫ですか?」
「体調? うん、全然平気だけど、どうして?」
「えっと、その、機能から、ずっと元気がなさそうに、見えたので……」
「あー……」
本当に、よく気がつくよねこの子。
適当にごまかしても余計心配するだろうし、本当のことを話しておこうか。
「一昨日の夜、付き合いの長い友人が亡くなってね」
「え!? あ、あの、無神経なこと聞いて、すみま、せん……」
「いいのいいの。この歳になると、それなりに起こることだから」
「そう、なん、ですか……えっと、ご愁傷さま、です」
「うん、どうもね。まあ、それでちょっと感傷的になってさ、ちょっと前に亡くなったその友人とは別の大切な人を思い出してたの」
「別の、大切な、人?」
「そ。どう? 薄情なヤツでしょ?」
「い、いえ! 別にそんなことは……、大事な人とお別れするのは、辛いこと、だと思いますし」
「そうだねぇ。しかも、かなり突然の事だったから結構引きずっちゃっててさ」
「そう、ですか……」
斉藤さんは目を伏せて黙り込んでしまった。たしかに、職場で少し話す関係くらいの婆さんにこんな重い話をされても困るか。
「というわけで、凹んでたけれど気持ちを切り替えて仕事をするから大丈夫だよ。じゃ、そろそろラインに戻ろうか」
「あ、はい。そう、ですね」
※※※
それからいつも通り流れていくプラスティックカップを眺め、いつも通りドボルザークの「家路」とともに終業時間を迎え、いつも通り家に帰る……途中に予約しておいた眼科に寄って、いつも通りの夜を迎える予定だったわけだけれど。
「これは、カメラの故障ですね」
フレームが細い眼鏡をかけた女医が無表情でタブレットを操作しながらそう告げた。どうやら、いつも通りの夜を迎えるのは難しそうだ。
「左様で……」
「ええ。ですので、眼科よりもメーカーのサポート窓口に連絡することをお勧めします。それと」
短く切りそろえられてよく磨かれた爪が画面の上をなぞっていく。
「自己同一性に問題が出ている様子なので、完全自動化の介護施設への入所も検討したほうがいいですよ」
やっぱり、そういう話になるよね。調子が悪くなったときにカメラの故障を疑えなかったわけだし、そもそも最近人の名前とか覚えづらくなってきてたし。
「数え役満ってところかぁ」
「何言ってるんですか。ロボットで人間用の病院に来ている時点で、国士無双の天和くらい明確な役満ですよ」
「えー? 国士無双の天和ってぱっと見で判断するの難しくない? なら、私の症状もまだそんなに明確にあれなわけじゃ……」
「たとえ話に一々屁理屈で反論しないでください」
無表情だった顔にあからさまな苛立ちの色が浮かんで、深いため息がこぼれた。
「まったく。貴女が叔母じゃなければ、ロボットで来た時点で追い返していたのに」
「ふっふっふ、親戚一同から爪弾きにされてる私を叔母と扱いしてくれるなんて、香織先生はなんだかんだで優しいにゃー」
「ふざけないでください! まったく、もう……」
今度は悲劇のヒロインにでもなったような表情が浮かぶ。
「貴女が、よりによって女なんかと出奔してくれたおかげで、お母さんがどれだけ苦労したと思っているんですか」
震える声が親戚どころか親とも疎遠になった理由を蒸し返した。
たしかに、私が就職したころは同性の恋愛、まして結婚のような形で一緒にいることに対してそこそこの偏見があった。まあ、法律関係が整備された今でも偏見は、残ってはいるのだけれども。
そんな中で女性と一緒に家を飛び出した私を庇ってくれていた姉は、それなりに周りからとやかく言われていたのだろう。恨まれるのも当然だとは思う。それでも。
「こらこら、叔母ちゃんの大事な人に『なんか』なんてつけるのは、よくないと思うにゃー」
「黙っていてください!」
甲高い怒鳴り声のおかげで耳元でハウリングが起きた。これはこのまま耳鼻科にいって診てもらったほうがいいかもしれない。多分、今度こそ入り口で追い返されるだろうけれど。
「……ともかく、完全自動化の介護施設への紹介状を作るので明日また来てください。貴女には学費等の援助もしていただいたので、それなりにちゃんとした所へ出しますから」
「それはどうも」
「それと、眼科検診の他に採血等の検査もありますので、くれぐれも絶対に生身できてくださいね」
「はいはい」
適当に返事をすると眼鏡の奥の鋭い目が更に険しくなった。これ以上ハウリングを起こされる前にさっさと退散することにしよう。
※※※
病院を出ると外はもう暗くなっていた。まだまだ暑けれど、夏も終わりにむかっているんだなあ。
それにしても姪っ子め。小さい頃は結構懐いてくれていたのに、最近は塩対応にもほどがある。遅めに来た反抗期かなんかだろうか。
「皆さま、高松和夫、輝ける未来の党の高松和夫をよろしくお願いいたします!」
遠くから選挙カーの声が響いてくる。そういえば、投票日は明後日だったかな。
「ご声援ありがとうございます! 未来ある若者の皆さま、ともにこの国を強欲な高齢者たちから取り戻しましょう!」
かなり過激なことを言っているけれど、ロボットはおろか生身っぽい人たちまで顔をしかめていない。こういう時代も姪っ子の塩対応の一端を担っている原因なのかもしれないな。あの子もう若者っていう歳でもないけれど。
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