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十二

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 気は進まないけれども、スマートフォンの保留を解除した。

「お電話かわりました。川上です」

「ああ、久しぶりだな」

 どこか軽薄な響きのある声が、スピーカーから聞こえてくる。
 記憶しているものよりは若干かすれているけれど、この声は間違いなくあの男、吉川よしかわ晴一せいいちだ。

「学校を卒業してから、元気にしていたか?」

「ええ、まあ、それなりには。それで、一体なんのご用件でしょうか?」

「ははは、そう邪険に扱ってくれるなって。まずは、娘が世話になっている、礼を言っておこうと思ってな」

「そう、ですか」

「ああ。大事な娘を預かってくれて、感謝しているよ」

 ……大事な娘、ね。

 本当に大事に思っているなら、そもそも椿が家に転がり込むことはなかっただろうに。
 
「……建前は、このくらいにしておこうか。どのみち、信じてはもらえてないのだろうし」

「ええ、そうですね。できれば、早く本題に入っていただきたいです。こちらは、色々と忙しいので」

「おいおい、教師だって別に夏休み期間がヒマなわけじゃないんだぞ」

「そうらしいですね。ならなおのこと、さっさと用件を話してください」

「本当に、川上は手厳しいな。まあ、でも、お前の言うとおりか……、率直に言うと、娘をもうしばらくそっちで預かって欲しい」

「……まあ、夏休みが終わるまでは、こちらで預かる予定ですよ」

「いや、そうじゃなく、夏休みが終わっても、そっちに置いてやって欲しいんだ。あれの分の生活費は、こちらで出すから」

「……は?」

 急になにを言い出すんだ、この男は。

「話は多少なりとも聞いていると思うが、アイツは俺の両親と折り合いが悪くてね。まあ、両親はしつけのつもりで厳しくしているらしいが……、あいつらの性格も褒められたものじゃないからな」

 軽薄な声が、聞いてもいない言葉を次々と垂れ流す。

「まったく、毎日なにかしらの小言や怒鳴り声が耳に入るんだから、たまったものじゃないよ。こっちは、家にいるときくらい、静かに過ごしたいというのに」

 それでも、椿のことを気遣う言葉は一つもでない。
 それどころか、真由子のことすら、一切口にしない。

 思い出す必要もない、というつもりなんだろうか?
 彼女は、自ら命を絶ったというのに。


「毎日多感な時期の女子生徒に囲まれる大変さを、少しは考慮してもらいたいものだね」

「なら、その多感な女子生徒の中から、憂さ晴らしの相手を探せば良いんじゃないんですか?」

「……」

 耳障りな声が、いったんピタリと止んだ。

「ああ、ご両親が学校のお偉方とはいえ、二回も淫行をもみ消すのは、さすがに難しいんですかね?」

「……」

 ついさっきまでベラベラと喋っていたくせに、答えは返ってこない。
 その代わり、ガサガサとなにかを探る音と、カチリという音が聞こえてきた。それから少し間を置いて、深く息を吐く音も。多分、タバコを吸いはじめたんだろう。
 

「……川上も案外、根に持つタイプなんだな」

「別に、私は率直な感想と疑問を口にしただけですよ」

「それが、根に持っているっていうんだ。まったく……」

 再び、深く息を吐く音が耳に入る。

「たしかに、関係を持ちかけたのは俺の方からだったよ。あのころは、そうでもしないとやっていられないくらい、ストレスが強かったからな」

「へー、それはさぞ、おつらかったんでしょうね。お可哀想に」

「茶化すなよ。まあ、我ながら、手近なところで済ませすぎたとは思うよ。だがな、俺は別に強制も脅迫もしていないし、嫌なら親父たちに報告して、免職になっても構わないと伝えたんだ。当時は教師なんて辞めてしまいたいと、思っていたんだから」

 吐き捨てるような言葉の後に、ジュッというタバコが水に浸かる音が聞こえてきた。

「それでも、アイツは自分から悦んで、こちらの誘いに乗ったんだぞ」

 ……私も、一本吸うことにしよう。
 
「最初は恋人気取りくらいで済んでいたが、そのうち、私を思ってくれる人なんて他にいない、などと口にして縋り付いてきて……、挙げ句に避妊具にまで細工をして……」

 メンソールの煙に、胃液の味が混じる。
 これなら、湿気ったときのタール臭の方がまだマシだ。

「しかも、実は他に交際相手がいて、完全には関係が終わってなかったときた。本当に、アイツが悲劇のヒロインを気取ってくれたせいで、どれだけ散々な目に遭ったか……」

 再び、カチリという音がスピーカーから響く。

「……まあ、ともかく、あんな面倒なことになるくらいなら、憂さ晴らしの相手なんて二度と探さないさ」

「……そうですか」

「それで、話は逸れてしまったが、椿をこれからも預かる気はないか?」

「……お断りします」
 
「さっきも言ったように、生活費の負担はするぞ?」

「別に、生活費が問題という話ではありませんよ」

「そうか。厄介者扱いしかされない家にずっといるよりも、川上のところにでもいた方がマシかと思ったんだがな」

 たしかに、そのとおりだろう。
 

 それでも――

「私には、関係のないことですから」
 
 ――これ以上、彼女に関わる道理もない。
 私と彼女の関係は、十五年以上前に終わっているのだから。
 
 
「まあ、そう言うなら仕方ないか。お前にとっても、メリットはある話だと思ったんだがな」

「メリット?」

「ああ。なにせ、椿はあのころのアイツによく似て……」


 ――プツリ。


 反射的に、通話を切っていた。

 タバコはいつの間にか、半分以上が灰になっている。
 少ししか口をつけていないけれども、これ以上吸っても酷い味がするだけだろう。気休めにしかならないだろうけれど、口をゆすいでこようか。

 長い灰を崩しながらタバコをもみ消し、椅子から立ち上がると耳鳴りが聞こえた。

  あのころのアイツによく似て……。

 耳障りな響きの声が、ザワザワという雑音の中に混じる。

 ……そんなことは、言われなくたって分かっている。

「だから、なんだって言……」


 ――トントン。

 思わずこぼれた言葉をかき消すように、扉がノックされた。

「あの、お電話、終わりましたか?」

 外から、不安げな椿の声が聞こえてくる。

「ああ。ついさっき終わったけど、どうかした?」

「はい、あの、さきほど三島さんがいらして……」

 今日は厄日なんだろうか? 本当に。
 ……ともかく、嘆いていないで、フォローに回らないと。

 扉を開けると、惣菜店の紙袋を持った椿が立っていた。取っ手を持つ指先が、薄らと紫色に変色している。それに、顔色も今朝に比べて随分と悪い。 
 ……昨日あれだけ嫌な思いをさせられた相手に会ったわけだから、無理もないか。
 
「面倒をかけて、悪かったね。今、対応するから」

「あ、いえ。昼食にどうぞ、とこれを渡して、すぐに帰られましたから、そのご報告をと」

「そっか……」

 仕事もあるし、すぐに帰ってくれたのなら、ありがたいけれども……。

「……なにか嫌なことでも、言われた?」

「……いえ、別に」

 そう答える割には、声が震えている。

「本当に、なにもなかった? なんなら、メッセージなり通話なりで、抗議しておくけど」

「ええ、大丈夫です。それに……」

 椿が目を伏せながら、視線を反らす。


「川上さんには、関係のないことでしょうから」

 
 ……さっきの話、聞かれてたのか。


「……ひとまず、お惣菜は冷蔵庫に入れておけば、よろしいですか?」

「……ああ、そうだね。あと、話は終わったからスマホ返すよ」

「分かりました」

 いったん机に戻り、スマートフォンを取って椿に手渡した。
 かすかに触れた手は、夏場だとは思えないほど冷たい。
 冷房で冷えただけ、というわけではないだろう。


 
 ……なにを今さら同情しているんだろう?
 ついさっき、関係ないことだと言い切ったばかりなのに。

「それでは、私はこれで。失礼いたしました」

 椿は深々と頭を下げると、視線を合わせないままリビングへ戻っていった。

 その後ろ姿にかける言葉は、なにひとつ見つからなかった。
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