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 ――ジリリリリリリリリ

 なんだ……、もう、朝なのか……。

 目を覚ますと、寝室の中は薄暗かった。雨の音は聞こえないけれど、快晴じゃなさそうだ。

 時刻は、午前八時。まだ眠いけれど、起きることにしよう。日曜日だといっても、睡眠リズムを崩したくないから。

 伸びをしながらベッドを降り、サイドボードに置いたタバコに手を伸ばす。
 火を点けて息を深く吸い込むと、湿った煙が口の中を満たした。
 まだ不味いけれど、昨日の味よりはましか。あれは、本当に酷かった。
 
 ただ、それよりも酷かったのは――

 突然現れた真由子の娘と名乗る少女。
 その少女から告げられた真由子の自殺。
 ここで預かることになった真由子の遺骨。

 ――口から重たい煙と一緒に、深いため息がこぼれた。

 ひょっとしたら、厄介な夢を見ていただけなのかもしれない。
 そうだ、顔を洗ってくれば、眠気とともに厄介ごとも消え去ってくれるはず。

 自分にそう言い聞かせながら、タバコをもみ消し立ち上がった。でも、洗面所に辿り着いたところで、淡い期待は消え失せてしまった。

 洗面台の棚に置かれた、私のものじゃないコップと歯ブラシ。

 ……残念ながら、椿のことはすべて現実か。

 再び口から深いため息がこぼれた。でも、嘆いていても仕方ない。

 椿がこの家を探し当てた方法。
 真由子の自殺の理由。
 他にも、分からないことが多すぎるし、もう少しだけでも情報が欲しい……。
 真由子の遺骨を預かることになった以上、彼女達の身になにが起こったかくらいは知っておきたいから。
 あんまり、気分のいい話じゃないことは分かっているけれどね。


 重い気分で顔を洗い、洗面所を後にしてリビングに向かった。
 ドアを開けると、背筋を伸ばしてソファーに座る椿の姿が目に入った。
 今日はセーラー服じゃなくて、白いポロシャツなのか。でも、紺色のスカートは、多分制服のものか。

 真由子の服を着ていたときはとても似ていると思ったけれど、今日はそんなに似ていないように見える。格好の問題、なんだろうか?

 思い出してみると、彼女がまともに制服を着ていたのを見たことがなかったな。いつも、ブラウスの上にニットのベストを着たり、学校指定のものじゃないリボンをつけたり、なにかしら小物を付け加えていたっけか……。

「おはようございます」

 不意に、椿が背筋を伸ばしたまま、深々と頭を下げた。

「おはよう。昨日は眠れた?」

 問いかけると、小さなうなずきが返ってきた。

「はい、おかげさまで」

「そう。それならよかった。じゃあ、私は朝食にするから」

「はい、分かりました」

 キッチンへ足を進めると、食器用の水切りカゴが目に入った。中には、何も入っていない。
 カップ麺の買い置きなんてしていないし、皿を使わずに食べられるものはなかったはずなのに……。

「椿、朝食はとったの?」

 声をかけると、椿はゆっくりとまばたきをして、かすかに眉を寄せた。

「食べても、よかったのですか?」

 聞き返す言葉に、思わず深いため息が漏れた。

「昨日、キッチンと冷蔵庫にあるものは適当に食べていいって、言ったはずでしょ?」

「分かりました。次からはそういたします」

   抑揚のない声で、短い答えが返ってくる。次から、ということは、朝食はとらずに昼食はそうする、という意味なんだろう。
 別に本人がそれでいいというのなら構わないけれど、空腹の少女を前にして一人だけ食事をとるというのは気が引ける……。

「適当なものでよければ、二人分作るから一緒に食べよう」

 声をかけると、椿は軽く目を見開いてからゆっくりとまばたきをした。

「ひょっとして、食欲なかったりする?」

「あ、いえ、あります。ありがとうございます」

 意外だ、と言いたげな表情のまま、椿は軽く頭を下げた。
  まったく、一度朝食を食べそびれたら昼間で何も食べてはいけない、と考えるなんて、極端すぎる……、いや、でも、仕方ないのかもしれない。
 
 母親の遺骨を処分してこい、なんて言う家族と一緒に暮らしているんだから。

 若干のいたたまれなさを覚えながら、冷蔵庫から食パンと卵とレタスを取り出した。トーストと目玉焼きとサラダでもあれば、朝食としては充分だろう。
 
 それから、簡単な調理を終えて、テーブルに朝食を運び、クッションに座った。
 テーブルを挟んで向かいに座った椿が、深々と頭を下げる。

「いただきます」

「どうぞ」

 そんな簡単な言葉を交わして、食事が始まった。

「……」

「……」

 それからしばらく、無言が続いている。
 これといって話題も浮かばないけれど、さすがに若干気まずい。椿はこの気まずさを感じていないのだろうか? 表情一つ変えずに、黙々とサラダを食べ続けているけれど……。

 それにしても、眉、目、鼻、口といった顔のパーツは、やっぱり真由子に似ている。でも、そこには確実に、なにか違いがある気もする。真由子の服を着るまで、似ていると思えなかったくらいの大きな違いが。

「……なにか、見苦しいところでもありましたか?」

「あ、いや、別にそうじゃないよ」

「そうですか」

 ……食事中をジロジロと眺めるのは、失礼か。
 目を反らすと、意図せずリビングの棚の上に置いた骨壺が目に入ってしまった。思わず目をつむると、生前の真由子の顔が浮かんだ。
 
 目の前の真由子は、楽しそうに笑顔を浮かべている。

「川上さんと、母は友人だったんですよね?」

 不意に、椿の声が耳に入った。目を開けると、相変わらず無表情な顔が、こっちをまっすぐに見つめていた。

「私と真由子が友人?」

「はい。違うんですか?」

 椿が眉をひそめながら、軽く首をかしげる。てっきり、私と真由子の関係を知って、遺言を引き受けたのだと思ったけれど、そうじゃなかったのか。

「交際していたんだ。高校生のときにね」

 答えると、椿はさらに不可解そうに、眉を寄せた。

「え……、交際、していた?」

 表情に違わず、不可解そうな声が私の言葉を繰り返す。

「ああ。そうだよ。まあ、驚くよね。女どうしなわけだし」

「あ、えーと……、そうではなく……、あの人に父以外の交際相手がいたことに、驚きました」

 心底理解できない、とでも言いたげな声と表情だ。

「なぜそんなふうに思ったの?」

「あの人に……、人から好かれる要素があるとは、思えなかったので」
 
 ……たしかに、その言葉には一理あるのかもしれない。
 私も最終的には、真由子に裏切られたのだから。

 それに、椿からしてみれば、彼女は自分をあまりよくない境遇に産み落とした元凶だ。悪く言いたくも、なるのだろう。

 それでも、椿の言葉に、苛立ちを覚えた。

 その苛立ちが、肉親に辛辣な言葉を吐くという非常識さに対してのものなのか、彼女に対する暴言に対してのものなのかは、分からないけれど。

「一体、なぜあの人と交際するなんてはめになったのですか?」

 苛立ちに気づくことなく、椿は再び不可解そうな表情で首をかしげた。
 なんで交際することになったか、か……。

「そうだね……」

 目を反らすと、またしても骨壺が目に入った。再び、楽しそうに笑う真由子の姿が頭に浮かぶ。

「女子校で同じクラスになった。しかも、隣の席だった。多分、出席番号が近かったからとか、そんな理由だったと思う」

 当時のことを思い返しながら説明すると、椿は軽く眉を寄せた。

「それだけの理由で、交際することになったのですか?」

「まさか。でも、可愛かったから、初対面のときから気になってはいたよ」

「外見だけで、あの人に惹かれたのですか?」

「まあ高校生くらいなら、そんなものだと思うよ」

「そうですか」

 質問に答えると、抑揚のない声が返ってきた。自分から振った話題なのに、もう興味を失ってしまったんだろうか? でも、他に話題もないし、気まずい沈黙を避けるためにも、この話題を続けさせてもらおう。
 
 真由子と親しくなったきっかけか……。
 思い出していると、視線が自然と骨壺に向いた。またしても、真由子の笑顔が頭に浮かぶ。

 まつげの長い目を細めた、楽しそうな笑顔。

「川上さん?」

「ああ、ごめん。ぼーっとしてた。お母さんと親しくなった、きっかけだったね」

「はい……」

「ある日、君の母親が国語の教科書を忘れてきてね、それで教科書を見せることになった」

「それが、好意を持ったきっかけ?」

「まあ、私の方はね。でも、君の母親はどうだったか分からない。なにせ、開いたページに、鼻毛を大量に書き足した芥川龍之介の写真が載っていたんだから」

「は、鼻毛っ……」

 椿の声とともに、目の前に真由子が現れた。

 そうだ、あの日もこの笑顔を見て、すごく可愛いと思ったんだった。
 二十年近く経つっていうのに、全然変わってないな……。

「……っ失礼しました。予想外のお話だったので」

 不意に、彼女の口から聞き慣れない声が響いた。
 二、三度まばたきをしてから目をこらすと、目の前には目を伏せて口元を隠す椿の姿があった。部屋の隅へ視線を動かすと、骨壺は変わらずに棚の上にある。

「川上さんって……、けっこう、やんちゃだったんですね」

 声のする方に視線を戻すと、椿が深呼吸をしていた。

「まあ、国語とかの文系科目が、があんまり好きじゃなかったからね。ノートや教科書に落書きすることも、あったよ」
 
「そうだったのですか」

「そうそう。まあ、そんなかんじで、教科書の落書きがきっかけで、君のお母さんと話す機会が増えたんだ。それで、話とか趣味が合ったから、一緒にいることが多くなった」

「それで、交際することになったんですか?」

「そうだね。あと、一緒にいると楽しいってだけじゃなくて、正反対な部分もあったから、お互い惹かれたんじゃないかな」

「正反対な部分?」

「そう。私は理系科目とか体育とかが、好きだし得意だった。対して君のお母さんは文系科目とか美術とかが、好きだし得意だった。そういう所が、お互い魅力的に思えたんだと思うよ」

「そうでしたか」

 言葉を交わしているうちに、いつのまにか、彼女の面影は消えてしまった。目の前にいるのは、無表情に抑揚のない声で話す少女だ。

「川上さん、どうしました?」

「……いや、なんでもないよ。それで、今のが君のお母さんとの関係と好意を持ったきっかけだけど、ご期待に添えない答えだったかな?」

「いえ。大丈夫です」

 椿は目を伏せて首を横に振った。

「教えていただき、ありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

 それからは、また黙々とした食事が続いた。


 私が食べ終わってから少しして、椿も自分の分を食べ終わった。椿はサラダ用の皿に箸を置くと、胸の辺りで手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした。朝食の量は足りたかな?」

「はい。充分です」

 椿は深々と下げた頭を上げながら答えると、静かに立ち上がった。それから、テーブル
の上の食器を重ねて手に取っていった。

「洗い物は私がしますので、水場を貸してください」

「ああ、分かった」

「ありがとうございます」

 椿は、重ねた食器を手に、キッチンスペースへ向かっていった。
 薄い微笑みを浮かべながら。

 その瞬間、かすかに真由子が現れた。
 
 ……真由子との決定的な違いは表情、か。
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