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一
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窓の外では、少し前から予報外れの雨が降りだしていた。
夏の日の雨は、嫌なことを思い出して気が滅入るから、あまり好きじゃない。
そんな感傷に浸りながら、リビングのソファーに身を預け、メンソールのタバコの煙を吸い込んだ。いつもより不味い気がするのは、きっと湿気のせいなのだろう。
――ピンポーン。
突然、玄関からチャイムの音が聞こえた。
宅配便かなにかだろうか?
酷い味がするタバコを消して、玄関に向かう。
でも、玄関のドアを開けても、宅配便の配達員の姿はなかった。
その代わり、一人の少女が立ちすくんでいる。
雨に濡れたセーラー服を着て、右手には大きなキャリーバッグの取っ手。
それだけでもわけが分からないというのに、少女は左腕に異様なものを抱えていた。
白地に銀糸で菊の花が刺繍された巾着のような布の包み。
包みの大きさや形状から、中に入っているものが骨壺だと言うことは一目で分かった。
それでも、なぜ……。
「こちらは、川上光さんのお宅でよろしいですか?」
唐突に、少女が落ち着いた声でたずねてきた。
「はい、そうですけれど、どちら様ですか?」
「はじめまして。私は、吉川椿と申します。吉川……、いえ、岡崎真由子の娘です」
「え?」
岡崎真由子……、さっきまで私の気を滅入らせていた原因だ。
彼女の娘が、一体なんの用なんだろうか?
「母が先日自殺をしました」
……え?
「……自殺?」
「はい、そうです。なので、遺言に従ってこちらに参りました」
「遺言?」
「はい。母の遺骨をこちらに置かせてください」
椿と名乗った少女は、抑揚のない声で言葉を続けた。
本当に、一体なにが起きているんだろう……。
「クシュン」
不意に、椿が顔を背けて小さくクシャミをした。よく見ると、唇が紫色に変色している。
……夏場とはいえ、雨に濡れたままでいれば、身体も冷えるか。
「ともかく、詳しく話を聞きたいから、中へ」
「はい。ありがとうございます」
椿は深々と頭を下げてから、玄関の中へ入ってきた。
リビングに戻ると、さっきまで吸っていたタバコの臭いが、まだ残っていた。それでも、椿は顔をしかめることもなかった。
……真由子はタバコの臭いなんて、大嫌いだったのに。
「……なにか?」
「……なんでもないよ。ひとまず、抱えているそれをテーブルに置いて」
「分かりました」
椿は軽くうなずいて、テーブルの上に骨壺を置いた。
「それで、なんで、ここに遺骨を持ってきたの?」
「先ほども申し上げたとおり、母の遺言だからです」
「なら、なんで、君の母親はそんな遺言をしたの?」
「さあ? 私には分かりません。むしろ、私も知りたいくらいです」
無表情にそう言い捨てたけれど……、自分の母親の死に対して、なんでこんなに他人事のように振る舞えるんだ?
たしかに、難しい年頃なのかもしれない。でも、それにしたって、どこか異常な気が……。
「クシュン」
再び、椿が小さくクシャミをした。
ひとまず、気味悪がっている場合じゃなさそうだ。
「キャリーバッグに服が入っているなら、着替えてきた方がいいよ。洗面所は部屋を出て右にあるから」
「分かりました。ありがとうございます」
椿は表情を変えずに深々と頭を下げると、リビングを出ていった。
ドアが閉まると同時に、自然と深いため息が漏れる。ひとまず、タバコを吸って気を落ち着かせよう。
相変わらず湿気ってタールの酷い味がする煙を吸い込みながら、テーブルの上の骨壺に目を向けた。白くて分かりづらかったが、骨壺の包みも酷く濡れている。
……あんなに強い雨の中やってきたんだから、当然か。
そういえば、真由子とも、下校の途中にこんな雨に降られたことがあったな。
そのときは、取り乱す彼女と一緒に近くの駅まで全力で走った。駅にたどり着いたら、涙目になりながら頬を赤らめて、必死に呼吸を整えていたっけ……。
それにくらべて、椿は一切、息を切らしていなかった。
多分、突然の雨にも取り乱すことなく、平然と歩いていたのだろう。
親子なのに、随分と似ていな――
「川上も、災難だったな」
――ああそうか。
親というのは、母親だけじゃないか。
椿の落ち着き払った様子は、父親の様子とよく似ている。
気づいた途端に、胃が痛くなってきた。こみ上げてきた胃酸の臭いと混じり、重苦しいタバコの味が更に不快なものになる。こうなると、もうタバコを吸ったって、なんのストレス解消にもならない。
ため息とあわせて全ての煙を吐き出して、タバコをもみ消した。それと同時に、リビングのドアノブが回る音がした。
ああ、椿が戻って来てしまったのか。
……いや、あの男の面影を持っているというだけで、疎ましく思うのはよくない。
だって今、ここにいるのはあの男じゃなくて――
「お待たせいたしました」
――え?
なんで、真由子がここに……。
「洗面所を貸していただき、ありがとうございました」
いや、違う……、これは椿……か。
でも、この色褪せて首元がよれた緑色のパーカーと、色褪せた水色のキュロットスカートは……。
「どうかしましたか?」
「……なぜ、そんなに古い服を着ている、の?」
「ああ、これですか? 母が昔着ていた服くらいしか、持っていないんです。制服以外の服を買うことは、祖父母から禁じられているので」
「禁じられている?」
「はい。色気づいた格好をして面倒ごとを起こされたら困る、と言われているので」
「……そう」
……娘が化粧やファッションに興味を持つことを嫌う保護者が、一定数いることは知っている。友人や知人の中にも、そういった親を持つ子が何人かいるから。それに、当の真由子が、そんな愚痴をこぼしていた記憶もある。
でも、服を買うこと事態を禁止するというのは、厳しすぎるんじゃないだろうか?
たしかに、椿が生まれた経緯を考えると、祖父母からの風当たりが強くなるのも当然なことなのかもしれないけれど……。
「それで、これはこちらに置いていただけますか?」
不意に、椿がテーブルの上に置かれた骨壺を指さした。
「いや、さっきは突然のことで上手く答えられなかったけど、突然そんなことを言われても困るよ」
「そうですか」
椿は反論することもなく、小さくうなずいた。それから、テーブルの上に腕を伸ばし、骨壺を抱えた。
「それでは、これは私の方で処分いたします」
「処分?」
「はい」
椿が再び小さくうなずく。
「祖父母から、処分してくるように、と言われていますので。ここに置いていただけないのであれば、どこかで砕いて処理します」
「砕いて処理って……」
顔色すら変えずに、なんてことを言い出すんだろう……。
状況はまだ飲み込めていないけれど、母親の遺骨を娘に砕かせる、というのは気が引ける。
遺骨が真由子のもので、砕くのがその娘なら、なおさら。
「……その骨壺を私が預かることで、なにかトラブルが発生する、という可能性はある?」
「いえ、ありません。祖父母には、処分してこい、と言われていますし」
「じゃあ、父親からは?」
「父は、祖父母の言うことに意見することはないですから、この件についても、特になにか口を出すことはないと思います」
椿の言葉には、妙な説得力があった。
あの男が、真由子に対してなにか特別な感情を持っているわけないか。それなら……。
「……ここで預かっても構わないよ。ただし、なにかトラブルになるようなら、すぐに持って帰ってもらうから」
我ながらどうかしているとしか思えない言葉が、ため息と一緒に口からこぼれた。
「ありがとうございました」
椿は先ほどまでよりもほんの少しだけ頬を緩めてそう言うと、深々と頭を下げた。
厄介だとは思うけれど、自分が原因で真由子の遺骨を娘に砕かせた、という罪悪感を抱くよりは多少ましだろう。
「それでは、私はこれで失礼いたします。骨壺のことでなにかありましたら、こちらにご連絡ください」
椿がテーブルの上にメモ用紙を置き、再び深々と頭を下げた。
厄介な用事を頼みに来た割には、随分あっさりと帰えるんだな。
まあ、でも、用が済んだなら、初対面の相手の家に長居する必要もないのか。こっちとしても、長居されて厄介ごとが長引くよりは、さっさと家に帰ってくれた方がありがたいし、引き止める必要もないか。
……たとえ、その後ろ姿が、落ち込んだときの真由子に酷似していたとしても。
「これから、どこに行くつもり?」
気づけば、少しうな垂れた椿の背に向かって声をかけていた。
ドアノブに手をかけたまま、椿が足を止める。
「……どこかに泊まるつもりです。家を出る前に、祖父から、しばらく顔を見せないように、と言いつけられているので」
少し間を置いてから、そんな言葉が返ってきた。
「そう……。それなら、今日はここに泊まっていかない?」
再び、どうかしているとしか思えない言葉が口からこぼれる。
椿も振り返り、怪訝そうに眉を寄せている。
「日は長くなってるけれど、行く当てのない未成年を放っておくのは、さすがに気が引けるから」
それに、話しぶりから、家族は椿がここに来ることを知っているのだろう。あまり大事にはされいないようだけれど、万が一椿の身になにかが起これば、責任を追及されないとも限らない。
それなら、いっそのこと宿を貸す方が、厄介なことにならないはずだ。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」
「ああ。そうするといいよ。ただし、保護者の許可は取るように」
「保護者の許可、ですか……」
椿はほんの少し表情を曇らせたが、すぐに無表情に戻り軽くうなずいた。
「分かりました。父に、確認いたします」
そして、抑揚のない声で返事をしながら、キュロットスカートのポケットからスマートフォンを取り出して操作した。
「椿です。はい、おかげさまで、用事は済みました。はい。それで、一晩泊めていただくことになったのですが、いいでしょうか? はい、そうです。はい、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
事務的な口調で会話を終えた無表情な顔が、こちらに向いた。
「父から了承を取れました」
「そう。なにか注意されたりした?」
「はい。ご迷惑をかけないようにしろ、と」
「そう」
身を案じる言葉は出なかったのか。
宿泊先は、かつて妻と交際していた相手の家だというのに。
……いや、べつに驚くこともないか。
あの男が娘の身を案じるような父親なら、そもそも椿はここに真由子の骨壺を持って来ることもなかったんだろうから。
ともかく、長居されるのも厄介だし、明日には家に帰ってもらおう。
夏の日の雨は、嫌なことを思い出して気が滅入るから、あまり好きじゃない。
そんな感傷に浸りながら、リビングのソファーに身を預け、メンソールのタバコの煙を吸い込んだ。いつもより不味い気がするのは、きっと湿気のせいなのだろう。
――ピンポーン。
突然、玄関からチャイムの音が聞こえた。
宅配便かなにかだろうか?
酷い味がするタバコを消して、玄関に向かう。
でも、玄関のドアを開けても、宅配便の配達員の姿はなかった。
その代わり、一人の少女が立ちすくんでいる。
雨に濡れたセーラー服を着て、右手には大きなキャリーバッグの取っ手。
それだけでもわけが分からないというのに、少女は左腕に異様なものを抱えていた。
白地に銀糸で菊の花が刺繍された巾着のような布の包み。
包みの大きさや形状から、中に入っているものが骨壺だと言うことは一目で分かった。
それでも、なぜ……。
「こちらは、川上光さんのお宅でよろしいですか?」
唐突に、少女が落ち着いた声でたずねてきた。
「はい、そうですけれど、どちら様ですか?」
「はじめまして。私は、吉川椿と申します。吉川……、いえ、岡崎真由子の娘です」
「え?」
岡崎真由子……、さっきまで私の気を滅入らせていた原因だ。
彼女の娘が、一体なんの用なんだろうか?
「母が先日自殺をしました」
……え?
「……自殺?」
「はい、そうです。なので、遺言に従ってこちらに参りました」
「遺言?」
「はい。母の遺骨をこちらに置かせてください」
椿と名乗った少女は、抑揚のない声で言葉を続けた。
本当に、一体なにが起きているんだろう……。
「クシュン」
不意に、椿が顔を背けて小さくクシャミをした。よく見ると、唇が紫色に変色している。
……夏場とはいえ、雨に濡れたままでいれば、身体も冷えるか。
「ともかく、詳しく話を聞きたいから、中へ」
「はい。ありがとうございます」
椿は深々と頭を下げてから、玄関の中へ入ってきた。
リビングに戻ると、さっきまで吸っていたタバコの臭いが、まだ残っていた。それでも、椿は顔をしかめることもなかった。
……真由子はタバコの臭いなんて、大嫌いだったのに。
「……なにか?」
「……なんでもないよ。ひとまず、抱えているそれをテーブルに置いて」
「分かりました」
椿は軽くうなずいて、テーブルの上に骨壺を置いた。
「それで、なんで、ここに遺骨を持ってきたの?」
「先ほども申し上げたとおり、母の遺言だからです」
「なら、なんで、君の母親はそんな遺言をしたの?」
「さあ? 私には分かりません。むしろ、私も知りたいくらいです」
無表情にそう言い捨てたけれど……、自分の母親の死に対して、なんでこんなに他人事のように振る舞えるんだ?
たしかに、難しい年頃なのかもしれない。でも、それにしたって、どこか異常な気が……。
「クシュン」
再び、椿が小さくクシャミをした。
ひとまず、気味悪がっている場合じゃなさそうだ。
「キャリーバッグに服が入っているなら、着替えてきた方がいいよ。洗面所は部屋を出て右にあるから」
「分かりました。ありがとうございます」
椿は表情を変えずに深々と頭を下げると、リビングを出ていった。
ドアが閉まると同時に、自然と深いため息が漏れる。ひとまず、タバコを吸って気を落ち着かせよう。
相変わらず湿気ってタールの酷い味がする煙を吸い込みながら、テーブルの上の骨壺に目を向けた。白くて分かりづらかったが、骨壺の包みも酷く濡れている。
……あんなに強い雨の中やってきたんだから、当然か。
そういえば、真由子とも、下校の途中にこんな雨に降られたことがあったな。
そのときは、取り乱す彼女と一緒に近くの駅まで全力で走った。駅にたどり着いたら、涙目になりながら頬を赤らめて、必死に呼吸を整えていたっけ……。
それにくらべて、椿は一切、息を切らしていなかった。
多分、突然の雨にも取り乱すことなく、平然と歩いていたのだろう。
親子なのに、随分と似ていな――
「川上も、災難だったな」
――ああそうか。
親というのは、母親だけじゃないか。
椿の落ち着き払った様子は、父親の様子とよく似ている。
気づいた途端に、胃が痛くなってきた。こみ上げてきた胃酸の臭いと混じり、重苦しいタバコの味が更に不快なものになる。こうなると、もうタバコを吸ったって、なんのストレス解消にもならない。
ため息とあわせて全ての煙を吐き出して、タバコをもみ消した。それと同時に、リビングのドアノブが回る音がした。
ああ、椿が戻って来てしまったのか。
……いや、あの男の面影を持っているというだけで、疎ましく思うのはよくない。
だって今、ここにいるのはあの男じゃなくて――
「お待たせいたしました」
――え?
なんで、真由子がここに……。
「洗面所を貸していただき、ありがとうございました」
いや、違う……、これは椿……か。
でも、この色褪せて首元がよれた緑色のパーカーと、色褪せた水色のキュロットスカートは……。
「どうかしましたか?」
「……なぜ、そんなに古い服を着ている、の?」
「ああ、これですか? 母が昔着ていた服くらいしか、持っていないんです。制服以外の服を買うことは、祖父母から禁じられているので」
「禁じられている?」
「はい。色気づいた格好をして面倒ごとを起こされたら困る、と言われているので」
「……そう」
……娘が化粧やファッションに興味を持つことを嫌う保護者が、一定数いることは知っている。友人や知人の中にも、そういった親を持つ子が何人かいるから。それに、当の真由子が、そんな愚痴をこぼしていた記憶もある。
でも、服を買うこと事態を禁止するというのは、厳しすぎるんじゃないだろうか?
たしかに、椿が生まれた経緯を考えると、祖父母からの風当たりが強くなるのも当然なことなのかもしれないけれど……。
「それで、これはこちらに置いていただけますか?」
不意に、椿がテーブルの上に置かれた骨壺を指さした。
「いや、さっきは突然のことで上手く答えられなかったけど、突然そんなことを言われても困るよ」
「そうですか」
椿は反論することもなく、小さくうなずいた。それから、テーブルの上に腕を伸ばし、骨壺を抱えた。
「それでは、これは私の方で処分いたします」
「処分?」
「はい」
椿が再び小さくうなずく。
「祖父母から、処分してくるように、と言われていますので。ここに置いていただけないのであれば、どこかで砕いて処理します」
「砕いて処理って……」
顔色すら変えずに、なんてことを言い出すんだろう……。
状況はまだ飲み込めていないけれど、母親の遺骨を娘に砕かせる、というのは気が引ける。
遺骨が真由子のもので、砕くのがその娘なら、なおさら。
「……その骨壺を私が預かることで、なにかトラブルが発生する、という可能性はある?」
「いえ、ありません。祖父母には、処分してこい、と言われていますし」
「じゃあ、父親からは?」
「父は、祖父母の言うことに意見することはないですから、この件についても、特になにか口を出すことはないと思います」
椿の言葉には、妙な説得力があった。
あの男が、真由子に対してなにか特別な感情を持っているわけないか。それなら……。
「……ここで預かっても構わないよ。ただし、なにかトラブルになるようなら、すぐに持って帰ってもらうから」
我ながらどうかしているとしか思えない言葉が、ため息と一緒に口からこぼれた。
「ありがとうございました」
椿は先ほどまでよりもほんの少しだけ頬を緩めてそう言うと、深々と頭を下げた。
厄介だとは思うけれど、自分が原因で真由子の遺骨を娘に砕かせた、という罪悪感を抱くよりは多少ましだろう。
「それでは、私はこれで失礼いたします。骨壺のことでなにかありましたら、こちらにご連絡ください」
椿がテーブルの上にメモ用紙を置き、再び深々と頭を下げた。
厄介な用事を頼みに来た割には、随分あっさりと帰えるんだな。
まあ、でも、用が済んだなら、初対面の相手の家に長居する必要もないのか。こっちとしても、長居されて厄介ごとが長引くよりは、さっさと家に帰ってくれた方がありがたいし、引き止める必要もないか。
……たとえ、その後ろ姿が、落ち込んだときの真由子に酷似していたとしても。
「これから、どこに行くつもり?」
気づけば、少しうな垂れた椿の背に向かって声をかけていた。
ドアノブに手をかけたまま、椿が足を止める。
「……どこかに泊まるつもりです。家を出る前に、祖父から、しばらく顔を見せないように、と言いつけられているので」
少し間を置いてから、そんな言葉が返ってきた。
「そう……。それなら、今日はここに泊まっていかない?」
再び、どうかしているとしか思えない言葉が口からこぼれる。
椿も振り返り、怪訝そうに眉を寄せている。
「日は長くなってるけれど、行く当てのない未成年を放っておくのは、さすがに気が引けるから」
それに、話しぶりから、家族は椿がここに来ることを知っているのだろう。あまり大事にはされいないようだけれど、万が一椿の身になにかが起これば、責任を追及されないとも限らない。
それなら、いっそのこと宿を貸す方が、厄介なことにならないはずだ。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」
「ああ。そうするといいよ。ただし、保護者の許可は取るように」
「保護者の許可、ですか……」
椿はほんの少し表情を曇らせたが、すぐに無表情に戻り軽くうなずいた。
「分かりました。父に、確認いたします」
そして、抑揚のない声で返事をしながら、キュロットスカートのポケットからスマートフォンを取り出して操作した。
「椿です。はい、おかげさまで、用事は済みました。はい。それで、一晩泊めていただくことになったのですが、いいでしょうか? はい、そうです。はい、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
事務的な口調で会話を終えた無表情な顔が、こちらに向いた。
「父から了承を取れました」
「そう。なにか注意されたりした?」
「はい。ご迷惑をかけないようにしろ、と」
「そう」
身を案じる言葉は出なかったのか。
宿泊先は、かつて妻と交際していた相手の家だというのに。
……いや、べつに驚くこともないか。
あの男が娘の身を案じるような父親なら、そもそも椿はここに真由子の骨壺を持って来ることもなかったんだろうから。
ともかく、長居されるのも厄介だし、明日には家に帰ってもらおう。
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