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第一話
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今は亡き母親が言った。
「女の子はお砂糖とスパイスと素敵なものでできているのよ」
「砂糖とスパイスと素敵なもの?」
まだ六歳になったばかりのイーサンが聞き返すと、母親はにっこりと笑う。
「そうよ。だから女の子には優しくしてあげるのよ、イーサン」
その母親の言葉を胸に、イーサンは十六歳になる今日まで生きてきた。
女の子が困っているところを見たら助け、杖をついた老婆がいたら家まで背負ってあげて……。
男達の中には、そんなイーサンを女に尻尾を振る犬と揶揄する者もいたが、イーサンは構わなかった。助けてあげた女性達がとても感謝してくれたから報われる気持ちだった。
(外野がなんと言おうと関係ない。俺は俺の道を行くんだ)
そう信じて疑わなかった。
けれど、幼馴染の聖女プリシアと再会して、イーサンはこれまでの自分の行いを激しく後悔した。
(自分が女性に優しくしてこなければ、こんなことには……)
手首を揺らすと、ガチャガチャと椅子の背もたれがきしむ。手首と長椅子の背もたれが縄できつく縛られているのだ。
普通の椅子に拘束されているだけなら間抜けではあるが中腰で立って逃げ出すこともできるだろう。しかし長椅子では体を鍛えているイーサンでも身動きができない。
(ここは村の協会か?)
室内には長椅子が並び、祭壇の向こうにはステンドグラスに照らされた聖母の像が見おろしている。
イーサンは聖母像の前に立つプリシアを睨みつけた。
「プリシア、これはいったいどういうつもりだ?」
プリシアはイーサンの怒りと戸惑いの眼差しを見て、うっとりと身を震わせる。
「あぁん、イーサン! そんな目つきも素敵……ッ」
(話が通じない……)
この幼馴染は昔からそうだ。
十年前に道で転んで泣いていた彼女を家まで送り届けてから、ずっとこの調子である。
見た目は腰まである銀髪と、大きな青い目を持つイーサンと同じ十六歳の美少女だ。
聖職衣からはほっそりとした白い手足が伸びており、胸元は苦しげに存在を主張している。
「ここは村の協会だろう? 司祭様はどうした?」
「やーん、そんな怖い目で見ないで。司祭様はプリシアがお願いしたら快く貸してくれたのよ」
プリシアは十年前に聖女の力に目覚めた。王都から使いがきて村を出てからは大聖堂で聖女見習いとしての任についている。
たまに村に帰ってきてはイーサンに夜這いをかけようとしたり、こうして監禁まがいのことをしかけてくるのだ。
「プリシアね~、ようやく一人前の聖女として認められたの。だ・か・ら、これからはイーサンを養ってあげられるのよ! 必死に頑張ってきて良かったぁぁ!」
プリシアは健気そうに目尻の涙をぬぐっている。
「……そうか。それはおめでとう。だが、俺を椅子に縛り付ける必要はないだろう」
「ええ~? だって、イーサンってモテモテだし、外に出したらどこかの女と浮気しちゃうかもしれないじゃない。プリシア、それは許せないなぁ」
「浮気って……俺とプリシアはそもそも付き合ってない」
十年前に助けてから、イーサンはずっと彼女に付きまとわれているだけだ。
「え~、『将来は結婚しようね』って約束したの、忘れちゃったの!?」
(それはお前が勝手にそう言っているだけだろう)
とは思ったが、女の子には優しくしなさいと諭した母親の教えを思い出して、ぐっと言葉に詰まる。
結婚の誓いにしたって、どうせイーサンの寝言で言質を取ったとか、そんなレベルだ。
「ロマンティックだから、イーサンと再会するのは協会にしようって決めたの! イーサンを養うためにプリシアは頑張ったのよ? 褒めて褒めて~」
子犬が尻尾を振りながら寄ってくるようにプリシアはイーサンの膝の上に乗って頬ずりしてくる。
大きな胸がふにょっと押し付けられて、イーサンはうっかりグラリと理性が揺れそうになるが、いかんいかんと己を律する。
(プリシアだけは絶対に駄目だ。なぜなら──)
彼女は目の奥にハートが見えそうな恍惚とした表情で、イーサンの頬に指を這わせる。
「イーサンの食事は全て私が手ずから食べさせてあげるからね。もちろん排泄処理もしてあげる。逃げられたら嫌だから、寝る時以外は椅子に縛り付けちゃうけど許してね? イーサンは無能だから私が全部してあげるから何も心配しなくて良いんだよ。たくさん子作りしようねぇ♡」
そう迷いなく言う幼馴染は、間違いなく狂っていると思うからだ。
◇◆◇
(はぁ……なんとか助かった)
イーサンは手首に残る縄の跡を撫でながら歩く。
なんとかプリシアの隙をついて、幼い頃から磨いておいた縄抜けのスキルで事なきを得た。
しかし、もう明け方だ。急いで療養所に向かわなければ遅刻してしまう。
イーサンは幼い頃に『薬師』というSSSスキルに目覚め、今は村で唯一の診療所で働いているのだ。
しかし、ようやくたどり着いた先で所長に言われたのは思ってもいない言葉だった。
「イーサン、この診療所を辞めてほしい」
「えっ……ど、どうしてですか?」
所長はため息を落としながら言う。
「君は本当に優秀だから、私としても辞めてもらいたくないが……聖女様のご命令なんだ」
「聖女……? プリシアの?」
国で唯一の聖女。プリシアの命令は王族でさえ跳ねのけることは難しい。
ましてや、診療所の所長や協会の司祭にはプリシアの言葉は神の命令にも等しいはずだ。
「……悪く思わないでくれ」
自分よりずっと年上の老年の所長に深く頭を下げられ──イーサンは何も言えなくなった。
両親を早くに亡くしたイーサンは、十年間この診療所で勤勉に働いてきた。
長い付き合いの所長は、もはや父親も同然の存在で、彼がそんなに身を縮めている姿は見たくなかった。
「……良いんです。気にしないでください。仕方のないことですから」
イーサンはそう言うと、自宅への道をこれからの身の振り方を考えながら歩いた。
自宅前に見知った姿をがあって、イーサンは足を止める。
そこにいたのはプリシアだ。嬉しそうにこちらに手を振っている。周囲には彼女の護衛らしき屈曲な男性が四人いた。
「イーサン! 良かったぁ! びっくりしちゃったよぅ。急に出ていくんだから……っ」
プリシアはイーサンに飛びつくように抱きついた。
イーサンは強張った表情で問いかける。
「……プリシア、君は診療所の所長に何か言ったのか?」
「え? ああ、もうイーサンは仕事しなくても私が養うから大丈夫ですって伝えたよ! イーサンは無能でも良いんだよ。何も心配いらないからね」
プリシアの表情には悪意はない。
イーサンが喜ぶに違いないと思っているのだ。
そしてイーサンが何もできない無能だと思い込んでいる。
いや、そうであってほしいと自分の願望を押し付けているのだろう。
その姿を見て、イーサンは己の中で何かがプツリと切れるのを感じた。
(……俺は自分の薬師としてのスキルでやっていきたいって何度もプリシアに言ってきたけど、もうダメだ。彼女には何も伝わらない。プリシアの願うような、手足を拘束された種馬にはなりたくない)
それだけは、いくら母親の教えに背くことになろうとも嫌だった。
イーサンはプリシアの肩をつかんで優しい笑みを浮かべる。
「君の気持ちはよく分かったよ。早く二人きりになりたいな。周りの護衛達は帰してくれないか?」
「はぅん……っ、イーサンの声ゾクゾクするぅ! ハァハァ……落ち着いて私……ッ! そ、それって、その……つまり、その、初夜ってこと?」
恥ずかしげに頬を赤らめて尋ねるプリシアに、イーサンは否定も肯定もせず微笑む。
プリシアは目の奥にハートを作りながら、そばにいた護衛達に言った。
「聞いたでしょ。あなた達、先に宿に戻ってちょうだい」
「し、しかし聖女様! 我々はあなたを一人にしてはいけないと大司教様から命じられております……っ」
プリシアはイーサンには見せない氷のような眼差しを護衛に向ける。
「あなたは誰に仕えているの? それとも大司教が私より上の立場だと言うつもり?」
「い、いえ……そんなことは! 出過ぎた発言をして申し訳ありません」
「まぁ良いでしょう。一度なら許すわ」
プリシアがそう言うと、護衛達は後ろ髪を引かれた様子ではあったが、しぶしぶ去って行った。
「さあ、イーサン。邪魔者はいなくなったわ」
「そうだね。じゃあ、部屋に入って、ゆっくり過ごそう。とりあえずお茶でも淹れるよ」
そう言いながらプリシアの背を押して、家の中に入れた。
そしてお茶に自分が煎じた強力な睡眠薬を入れて彼女を眠らせる。
プリシアが完全に机に突っ伏したのを見て、イーサンは冷たく言い放った。
「……もう君に会うことはないだろう」
どこか他の国へ行って、名前を変えて生きていくつもりだった。
イーサンの持つレアスキルならきっと、どこでも重宝されるはずだから。
◇◆◇
プリシアは目を覚ました時、愛するイーサンの姿が村のどこにもないことに気付いて激高した。
(裏切られた……)
結婚を誓いあった少年に、婚前で捨てられたのだ。これが裏切りでなくて何なのだろう。
怒りが込み上げてきたが、ふいにその感情が収束する。
「あ、そっか……そういえば、お母様もおっしゃっていたわね。男の人は縛られるのを嫌うから、一度は浮気したがるものだって……」
プリシアはそれを想像して顔をしかめる。
でも、イーサンが他の誰かと付き合うのは許せなかった。遊びでもダメだ。プリシアには耐えられない。
「一度は許してあげるけど……でも、もうイーサンは私から一度逃げちゃったんだから次はないわ」
プリシアはそうつぶやくと、イーサンが使っていたカップを手に取った。
そして、うっとりと彼が口をつけていた場所に舌を這わせる。
「絶対に、どんな手段を持ってしても捕まえてやる……っ! そうよ……椅子に手足を縛り付ける程度じゃ生ぬるかったわね。薬を使って意識を朦朧とさせてあげましょう。──そしたら、もう二度と私から離れたいだなんて思わなくなるわよね」
そう言うプリシアの姿は、聖女にはとても似つかわしくなかった。
「女の子はお砂糖とスパイスと素敵なものでできているのよ」
「砂糖とスパイスと素敵なもの?」
まだ六歳になったばかりのイーサンが聞き返すと、母親はにっこりと笑う。
「そうよ。だから女の子には優しくしてあげるのよ、イーサン」
その母親の言葉を胸に、イーサンは十六歳になる今日まで生きてきた。
女の子が困っているところを見たら助け、杖をついた老婆がいたら家まで背負ってあげて……。
男達の中には、そんなイーサンを女に尻尾を振る犬と揶揄する者もいたが、イーサンは構わなかった。助けてあげた女性達がとても感謝してくれたから報われる気持ちだった。
(外野がなんと言おうと関係ない。俺は俺の道を行くんだ)
そう信じて疑わなかった。
けれど、幼馴染の聖女プリシアと再会して、イーサンはこれまでの自分の行いを激しく後悔した。
(自分が女性に優しくしてこなければ、こんなことには……)
手首を揺らすと、ガチャガチャと椅子の背もたれがきしむ。手首と長椅子の背もたれが縄できつく縛られているのだ。
普通の椅子に拘束されているだけなら間抜けではあるが中腰で立って逃げ出すこともできるだろう。しかし長椅子では体を鍛えているイーサンでも身動きができない。
(ここは村の協会か?)
室内には長椅子が並び、祭壇の向こうにはステンドグラスに照らされた聖母の像が見おろしている。
イーサンは聖母像の前に立つプリシアを睨みつけた。
「プリシア、これはいったいどういうつもりだ?」
プリシアはイーサンの怒りと戸惑いの眼差しを見て、うっとりと身を震わせる。
「あぁん、イーサン! そんな目つきも素敵……ッ」
(話が通じない……)
この幼馴染は昔からそうだ。
十年前に道で転んで泣いていた彼女を家まで送り届けてから、ずっとこの調子である。
見た目は腰まである銀髪と、大きな青い目を持つイーサンと同じ十六歳の美少女だ。
聖職衣からはほっそりとした白い手足が伸びており、胸元は苦しげに存在を主張している。
「ここは村の協会だろう? 司祭様はどうした?」
「やーん、そんな怖い目で見ないで。司祭様はプリシアがお願いしたら快く貸してくれたのよ」
プリシアは十年前に聖女の力に目覚めた。王都から使いがきて村を出てからは大聖堂で聖女見習いとしての任についている。
たまに村に帰ってきてはイーサンに夜這いをかけようとしたり、こうして監禁まがいのことをしかけてくるのだ。
「プリシアね~、ようやく一人前の聖女として認められたの。だ・か・ら、これからはイーサンを養ってあげられるのよ! 必死に頑張ってきて良かったぁぁ!」
プリシアは健気そうに目尻の涙をぬぐっている。
「……そうか。それはおめでとう。だが、俺を椅子に縛り付ける必要はないだろう」
「ええ~? だって、イーサンってモテモテだし、外に出したらどこかの女と浮気しちゃうかもしれないじゃない。プリシア、それは許せないなぁ」
「浮気って……俺とプリシアはそもそも付き合ってない」
十年前に助けてから、イーサンはずっと彼女に付きまとわれているだけだ。
「え~、『将来は結婚しようね』って約束したの、忘れちゃったの!?」
(それはお前が勝手にそう言っているだけだろう)
とは思ったが、女の子には優しくしなさいと諭した母親の教えを思い出して、ぐっと言葉に詰まる。
結婚の誓いにしたって、どうせイーサンの寝言で言質を取ったとか、そんなレベルだ。
「ロマンティックだから、イーサンと再会するのは協会にしようって決めたの! イーサンを養うためにプリシアは頑張ったのよ? 褒めて褒めて~」
子犬が尻尾を振りながら寄ってくるようにプリシアはイーサンの膝の上に乗って頬ずりしてくる。
大きな胸がふにょっと押し付けられて、イーサンはうっかりグラリと理性が揺れそうになるが、いかんいかんと己を律する。
(プリシアだけは絶対に駄目だ。なぜなら──)
彼女は目の奥にハートが見えそうな恍惚とした表情で、イーサンの頬に指を這わせる。
「イーサンの食事は全て私が手ずから食べさせてあげるからね。もちろん排泄処理もしてあげる。逃げられたら嫌だから、寝る時以外は椅子に縛り付けちゃうけど許してね? イーサンは無能だから私が全部してあげるから何も心配しなくて良いんだよ。たくさん子作りしようねぇ♡」
そう迷いなく言う幼馴染は、間違いなく狂っていると思うからだ。
◇◆◇
(はぁ……なんとか助かった)
イーサンは手首に残る縄の跡を撫でながら歩く。
なんとかプリシアの隙をついて、幼い頃から磨いておいた縄抜けのスキルで事なきを得た。
しかし、もう明け方だ。急いで療養所に向かわなければ遅刻してしまう。
イーサンは幼い頃に『薬師』というSSSスキルに目覚め、今は村で唯一の診療所で働いているのだ。
しかし、ようやくたどり着いた先で所長に言われたのは思ってもいない言葉だった。
「イーサン、この診療所を辞めてほしい」
「えっ……ど、どうしてですか?」
所長はため息を落としながら言う。
「君は本当に優秀だから、私としても辞めてもらいたくないが……聖女様のご命令なんだ」
「聖女……? プリシアの?」
国で唯一の聖女。プリシアの命令は王族でさえ跳ねのけることは難しい。
ましてや、診療所の所長や協会の司祭にはプリシアの言葉は神の命令にも等しいはずだ。
「……悪く思わないでくれ」
自分よりずっと年上の老年の所長に深く頭を下げられ──イーサンは何も言えなくなった。
両親を早くに亡くしたイーサンは、十年間この診療所で勤勉に働いてきた。
長い付き合いの所長は、もはや父親も同然の存在で、彼がそんなに身を縮めている姿は見たくなかった。
「……良いんです。気にしないでください。仕方のないことですから」
イーサンはそう言うと、自宅への道をこれからの身の振り方を考えながら歩いた。
自宅前に見知った姿をがあって、イーサンは足を止める。
そこにいたのはプリシアだ。嬉しそうにこちらに手を振っている。周囲には彼女の護衛らしき屈曲な男性が四人いた。
「イーサン! 良かったぁ! びっくりしちゃったよぅ。急に出ていくんだから……っ」
プリシアはイーサンに飛びつくように抱きついた。
イーサンは強張った表情で問いかける。
「……プリシア、君は診療所の所長に何か言ったのか?」
「え? ああ、もうイーサンは仕事しなくても私が養うから大丈夫ですって伝えたよ! イーサンは無能でも良いんだよ。何も心配いらないからね」
プリシアの表情には悪意はない。
イーサンが喜ぶに違いないと思っているのだ。
そしてイーサンが何もできない無能だと思い込んでいる。
いや、そうであってほしいと自分の願望を押し付けているのだろう。
その姿を見て、イーサンは己の中で何かがプツリと切れるのを感じた。
(……俺は自分の薬師としてのスキルでやっていきたいって何度もプリシアに言ってきたけど、もうダメだ。彼女には何も伝わらない。プリシアの願うような、手足を拘束された種馬にはなりたくない)
それだけは、いくら母親の教えに背くことになろうとも嫌だった。
イーサンはプリシアの肩をつかんで優しい笑みを浮かべる。
「君の気持ちはよく分かったよ。早く二人きりになりたいな。周りの護衛達は帰してくれないか?」
「はぅん……っ、イーサンの声ゾクゾクするぅ! ハァハァ……落ち着いて私……ッ! そ、それって、その……つまり、その、初夜ってこと?」
恥ずかしげに頬を赤らめて尋ねるプリシアに、イーサンは否定も肯定もせず微笑む。
プリシアは目の奥にハートを作りながら、そばにいた護衛達に言った。
「聞いたでしょ。あなた達、先に宿に戻ってちょうだい」
「し、しかし聖女様! 我々はあなたを一人にしてはいけないと大司教様から命じられております……っ」
プリシアはイーサンには見せない氷のような眼差しを護衛に向ける。
「あなたは誰に仕えているの? それとも大司教が私より上の立場だと言うつもり?」
「い、いえ……そんなことは! 出過ぎた発言をして申し訳ありません」
「まぁ良いでしょう。一度なら許すわ」
プリシアがそう言うと、護衛達は後ろ髪を引かれた様子ではあったが、しぶしぶ去って行った。
「さあ、イーサン。邪魔者はいなくなったわ」
「そうだね。じゃあ、部屋に入って、ゆっくり過ごそう。とりあえずお茶でも淹れるよ」
そう言いながらプリシアの背を押して、家の中に入れた。
そしてお茶に自分が煎じた強力な睡眠薬を入れて彼女を眠らせる。
プリシアが完全に机に突っ伏したのを見て、イーサンは冷たく言い放った。
「……もう君に会うことはないだろう」
どこか他の国へ行って、名前を変えて生きていくつもりだった。
イーサンの持つレアスキルならきっと、どこでも重宝されるはずだから。
◇◆◇
プリシアは目を覚ました時、愛するイーサンの姿が村のどこにもないことに気付いて激高した。
(裏切られた……)
結婚を誓いあった少年に、婚前で捨てられたのだ。これが裏切りでなくて何なのだろう。
怒りが込み上げてきたが、ふいにその感情が収束する。
「あ、そっか……そういえば、お母様もおっしゃっていたわね。男の人は縛られるのを嫌うから、一度は浮気したがるものだって……」
プリシアはそれを想像して顔をしかめる。
でも、イーサンが他の誰かと付き合うのは許せなかった。遊びでもダメだ。プリシアには耐えられない。
「一度は許してあげるけど……でも、もうイーサンは私から一度逃げちゃったんだから次はないわ」
プリシアはそうつぶやくと、イーサンが使っていたカップを手に取った。
そして、うっとりと彼が口をつけていた場所に舌を這わせる。
「絶対に、どんな手段を持ってしても捕まえてやる……っ! そうよ……椅子に手足を縛り付ける程度じゃ生ぬるかったわね。薬を使って意識を朦朧とさせてあげましょう。──そしたら、もう二度と私から離れたいだなんて思わなくなるわよね」
そう言うプリシアの姿は、聖女にはとても似つかわしくなかった。
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