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身を忍ばせて盗みみてしまった彼らの濃厚で艶やかな蜂蜜を舐めとりあうような口づけは、ねっとりとした粘膜の絡みあう音を響かせていた。
まれに思いだしては歯噛みしているので、あのとき彼らのあいだに割ってはいらなかったことを今では後悔している。
「祐樹、その目、怖いからやめて……」
頭に載っていた手でふいに視界を覆われた神野はべりっと春臣の手を引き剥がし、「私は真剣なんですからっ」と唇を尖らせた。
「とにかく、私は遼太郎さんに本当に恋人がいるかどうかはっきりしたいんです。もし遼太郎さんが嘘をついているんだとしたら、それがなぜなのか知りたいですし、原因が私にあるのなら、ちゃんと考えないといけないですし――」
それでもその原因が、彼がまだ篠山のことを好きでいるからだとしても、神野は彼に篠山を譲ることはできないし、篠山に心変わりされて彼のもとに戻られるわけにもいかないのだ。
(そんなのは、絶対にいやだ)
この疑心暗鬼にかられ、不安でなにをしでかすかわからない衝動をはやく治めてしまいたい。
こうして暢気に恋愛していられて、嫉妬なんかにうつつを抜かしていられるのも、自分がいま食べることや生きることに心配がいらない、穏やかで安全な暮らしができているからだとわかっている。
そしてもちろんそれらの環境は、彼らによって与えられたものだということも。
時間があるというのは、やりたいことができて自分を大切にすることができる反面、その使いかたを誤ってしまうと、いくらでもくだらないことに悩んでいられもする。
それこそ今みたいに遼太郎と比べて自分を卑下し、篠山だって彼がいいのではないかといじけていたりとだ。
時間を暇として扱っている自分を自覚した神野は、もったいないことしていてはだめだと唇を咬みしめた。
こんなふうにして、いつまでもぐじぐじと醜い感情に囚われていては、それこそ篠山に愛想をつかれてしまうに違いない。いじけていては駄目なのだ。
せっかく彼らにつくってもらった時間なのだから、彼らのためにも自分は変わる努力を怠ってはならない。自分をちゃんと磨こう。
「とりあえず、いろいろがんばります」
きゅっと顎をひき、膝のうえに載せた手のひらで握り拳をつくって決意を改めていると、正面にいた春臣がちいさく「うわぁ……」と口にして、一歩二歩と退いていった。
*
忙しくていっしょにゆっくりと過ごすことができないのなら、せめて恋人のお世話は、自分が引き受けるのもいいだろう。
翌日の土曜日。
春臣を手伝ってアパートの共同部分に丁寧な箒をかけていた神野は、カレーならひとりでつくれるからと、さっそく春臣に提案してみた。
「できたらメールしますんで、だから春臣くんはそれまでは家でゆっくりしておいてください」
しかし告げた途端に春臣に「今日はカレーはだめー」と、駄目だしされてしまう。
「末広さんが今日は娘さん連れて来るっていっていたから。どうしてもカレーにするなら、さきに可乃子ちゃんの食べられるルーを訊いておいて、大人のぶんとわけないと駄目だよ?」
末広と似ていない丸っこい顔をした少女の顔を想いう浮かべると、神野はふんふんと頷いた。子どもがいればそういうところにも考えを巡らせなければならないのか、と素直に感心する。今年小学一年になる可乃子とも、それなりのつきあいの長さがあるのだろう春臣は、既にそういった考えかたに慣れているようだ。
「わかりました。じゃぁ、牛丼とかどうですか?」
「ちゃんと肉いれるならね。豚じゃなくて、牛にしといてね」
「はい」
そして意気揚々とスーパーで買った食材を持って、神野が篠山のマンションを訪れたときには既に遼太郎は出勤していて、キッチンで篠山とふたりぶんのコーヒーを淹れているところだった。
「おはよう」
ドリッパーになみなみと注いだ湯が泡立つの見つめながら、遼太郎がこちらを見ることもしないで、そっけない挨拶をくれる。
神野は買ってきた食材をキッチン台に並べながら、それにぺこりと頭をさげて「おはようございます」と挨拶を返した。
柔らかい素材を好む遼太郎の着ている服は冬だというのに首まわりの寒そうなVネックのセーターで、注ぎ口の細いコーヒー用のポットからドリッパーに湯を丁寧に注ぐ俯き加減の彼のうなじがすっきりと見えている。
その滑らかな肌についつい目がいってしまうのは、神野にとってそれがもう習慣になっているからだった。そしていままでにいちども確認できたことがなかった目当ての赤い痣を、今日にかぎって見つけてしまい、「あっ!」と、ちいさく叫んでしまう。まだつけられて間もない口づけのあと。
「なに?」
「あ、いえ……」
まっさきに考えたのは、それをつけたのが篠山じゃないかということだった。それでも、いやそんなわけはないとすぐさまその妄想を否定する。
昨夜遼太郎は自分たちといっしょにアパートに帰ってきている。あれからこのマンションにわざわざ戻ったとは考えにくい。だから遼太郎が夜に出かけたとするのならば、別のところだろう。まずは、恋人に会いに行ったと考えるべきだ。
まれに思いだしては歯噛みしているので、あのとき彼らのあいだに割ってはいらなかったことを今では後悔している。
「祐樹、その目、怖いからやめて……」
頭に載っていた手でふいに視界を覆われた神野はべりっと春臣の手を引き剥がし、「私は真剣なんですからっ」と唇を尖らせた。
「とにかく、私は遼太郎さんに本当に恋人がいるかどうかはっきりしたいんです。もし遼太郎さんが嘘をついているんだとしたら、それがなぜなのか知りたいですし、原因が私にあるのなら、ちゃんと考えないといけないですし――」
それでもその原因が、彼がまだ篠山のことを好きでいるからだとしても、神野は彼に篠山を譲ることはできないし、篠山に心変わりされて彼のもとに戻られるわけにもいかないのだ。
(そんなのは、絶対にいやだ)
この疑心暗鬼にかられ、不安でなにをしでかすかわからない衝動をはやく治めてしまいたい。
こうして暢気に恋愛していられて、嫉妬なんかにうつつを抜かしていられるのも、自分がいま食べることや生きることに心配がいらない、穏やかで安全な暮らしができているからだとわかっている。
そしてもちろんそれらの環境は、彼らによって与えられたものだということも。
時間があるというのは、やりたいことができて自分を大切にすることができる反面、その使いかたを誤ってしまうと、いくらでもくだらないことに悩んでいられもする。
それこそ今みたいに遼太郎と比べて自分を卑下し、篠山だって彼がいいのではないかといじけていたりとだ。
時間を暇として扱っている自分を自覚した神野は、もったいないことしていてはだめだと唇を咬みしめた。
こんなふうにして、いつまでもぐじぐじと醜い感情に囚われていては、それこそ篠山に愛想をつかれてしまうに違いない。いじけていては駄目なのだ。
せっかく彼らにつくってもらった時間なのだから、彼らのためにも自分は変わる努力を怠ってはならない。自分をちゃんと磨こう。
「とりあえず、いろいろがんばります」
きゅっと顎をひき、膝のうえに載せた手のひらで握り拳をつくって決意を改めていると、正面にいた春臣がちいさく「うわぁ……」と口にして、一歩二歩と退いていった。
*
忙しくていっしょにゆっくりと過ごすことができないのなら、せめて恋人のお世話は、自分が引き受けるのもいいだろう。
翌日の土曜日。
春臣を手伝ってアパートの共同部分に丁寧な箒をかけていた神野は、カレーならひとりでつくれるからと、さっそく春臣に提案してみた。
「できたらメールしますんで、だから春臣くんはそれまでは家でゆっくりしておいてください」
しかし告げた途端に春臣に「今日はカレーはだめー」と、駄目だしされてしまう。
「末広さんが今日は娘さん連れて来るっていっていたから。どうしてもカレーにするなら、さきに可乃子ちゃんの食べられるルーを訊いておいて、大人のぶんとわけないと駄目だよ?」
末広と似ていない丸っこい顔をした少女の顔を想いう浮かべると、神野はふんふんと頷いた。子どもがいればそういうところにも考えを巡らせなければならないのか、と素直に感心する。今年小学一年になる可乃子とも、それなりのつきあいの長さがあるのだろう春臣は、既にそういった考えかたに慣れているようだ。
「わかりました。じゃぁ、牛丼とかどうですか?」
「ちゃんと肉いれるならね。豚じゃなくて、牛にしといてね」
「はい」
そして意気揚々とスーパーで買った食材を持って、神野が篠山のマンションを訪れたときには既に遼太郎は出勤していて、キッチンで篠山とふたりぶんのコーヒーを淹れているところだった。
「おはよう」
ドリッパーになみなみと注いだ湯が泡立つの見つめながら、遼太郎がこちらを見ることもしないで、そっけない挨拶をくれる。
神野は買ってきた食材をキッチン台に並べながら、それにぺこりと頭をさげて「おはようございます」と挨拶を返した。
柔らかい素材を好む遼太郎の着ている服は冬だというのに首まわりの寒そうなVネックのセーターで、注ぎ口の細いコーヒー用のポットからドリッパーに湯を丁寧に注ぐ俯き加減の彼のうなじがすっきりと見えている。
その滑らかな肌についつい目がいってしまうのは、神野にとってそれがもう習慣になっているからだった。そしていままでにいちども確認できたことがなかった目当ての赤い痣を、今日にかぎって見つけてしまい、「あっ!」と、ちいさく叫んでしまう。まだつけられて間もない口づけのあと。
「なに?」
「あ、いえ……」
まっさきに考えたのは、それをつけたのが篠山じゃないかということだった。それでも、いやそんなわけはないとすぐさまその妄想を否定する。
昨夜遼太郎は自分たちといっしょにアパートに帰ってきている。あれからこのマンションにわざわざ戻ったとは考えにくい。だから遼太郎が夜に出かけたとするのならば、別のところだろう。まずは、恋人に会いに行ったと考えるべきだ。
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