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はたして自分はいつになったら、ここに胸をはって帰ってこられるのだろうか?
神野は広い湯舟に手足を広げ、一日の疲れと冷えを癒しながら、ほうっと息を吐いた。
なにせ篠山はもちろんのこと、春臣や遼太郎を見ていると自分が子どもみたいに思えて嫌になるのだ。
遼太郎には勝てないとしても、せめて彼に指さきが届くくらいには近づきたい。そうでないと、いつか篠山がまた彼のもとに戻ってしまいそうで怖い。
「ん~、ん~、とくかく、がんばろう」
バシャリと掬った湯で顔を洗い気持ちを引き締めた神野は、やる気を充満させて風呂からあがった。
それなのに。
(手伝えることが、なにもない……)
どうして自分が風呂にはいっていたたった三十分の間に、人数分のハンバーグプレートができあがってしまっているのだろうか。
春臣の手際のよさに眉を顰めた神野は、漲らせていたやる気を透かされてしまい、恨みがましくテーブルに並んだ料理を眺めた。
しかも春臣は料理したあとの片づけさえもおおかた終わらせていて、シンクにはあとはフライパンひとつの洗い物を残すのみになっている。
「おぉおっ⁉ びっくりした。神野どうした?」
うぅ、と呻きながら戸口のまえでつったっていた神野に、うしろからやって来た篠山がぶつかりかけて、慌てて体をよけていた。
「あ、いえ、なんでもありません。すみません」
神野は篠山に謝ると春臣に「お風呂さきにいただきました」と声をかけ、彼に風呂を勧めると残りの洗い物を引き受けた。
篠山がソファーで一服しかけると、さきに席について食事をはじめていた遼太郎が彼を呼んだ。すると篠山が灰皿をもって、席をダイニングに移す。
「匡彦さん、藤野商店さんとこの事務員さんまた辞めたって。社長が経理にてこずっていて、また俺にきて欲しいって云ってきてるんだけど?」
「はぁ? またかよ? なんで懲りないんだよ、あの社長は。で? 次のパートは募集してるのか?」
「うん。もう決まってさ。で、藤野さん自分で教えるとまた辞められるんじゃないかって、俺に新しいひとに仕事の引継ぎやって欲しいらしい」
「ここは派遣会社じゃねえって……。いいよ、遼太郎断って。こっちも人手が足りないんだ。それにお前にばっか無理させてられない」
「ん。でも俺はかまわないんだよ。で、今日、昼にちょっと顔だしてきた。つくっておいたレクチャーのノートがあるから、それを新しいパートさんに見せてできる範囲内で教えてきたんだけど。明日も午前中、ちょっと行ってやってもいいかな? こっちには間に合うようにするから」
フライパンをゴシゴシと洗いながらも、どうしても篠山と親しげに話す遼太郎のことが気になってしまってちらちらと彼を見てしまう。
篠山の顔を見上げる遼太郎はきりっと弓なりの眉に、多めのまつ毛に縁どられた濡れた黒い瞳をしていて、凛々しくうつくしい。
育ちがいいのか、ソースがついた口もとを拭う仕草ひとつにしても、彼はとても品よく見えた。
(かっこいい……、っていうよりも、きれいって感じなのかな?)
遼太郎は今二十四で、自分よりも二個うえだ。彼は税理士試験の勉強をしながら、篠山の個人会計事務所で税理士補助として働いていた。
趣味は絵を描くことで、この部屋でも彼はよくクロッキー帳にシャープペンを走らせている。モチーフはあの世だそうで、去年に彼の描いた地獄絵図は一冊の本となって売りにだされている。それを知った神野はさっそく本屋で彼のイラスト集を探しだしてなけなしの小遣いで購入したのだが、せっかくだからと彼にサインをお願いして嫌な顔をされてしまっていた。そのうえ無駄遣いをするなと怒られている。
遼太郎はすごいと思う。彼はなんでもできるのだ。
自分のことや仕事だけではなく、ひとの世話まで難なくやってしまう彼のことを神野は尊敬していた。
(見た目もよくて、有能で、絵も描けるとか、俺には太刀打ちできない……)
「あっ」
悔しい気持ちを乗せすぎたせいか、力がはいったスポンジから跳ねた泡がシンクの扉に滴り落ちていった。
(あれ?)
濡れた扉を拭こうとしてしゃがむと、扉の側面にも古い汚れを見つけてしまう。神野は扉を開くとそこと、ついでに扉の内側のほうもごしごしと拭いておいた。
ザルや調理器具が収納されたシンクしたは、独特の湿気た匂いがしていて、神野は鼻をすんと蠢かすと眉を顰ひそめた。カビでも発生しているのではないかと、なかをきょろきょろ見渡してみる。
神野はお互いを信頼しきっているふたりの会話をなんとはなしに聞きながら、目についた汚れをごしごしと拭いていった。
「それはかまわないけど。あんま無理すんなよ? あの社長もちょっと痛い目みないと、なかなか性格があらためられないからな。あの口の悪さで、いままでに何人に辞められてきてるんだ? しかも無断欠勤の末の音沙汰なしだなんて、恨まれてなきゃされないだろ……」
「それについては、社長も社労士に怒られたってさ。でも笑って云ってたから、まぁ、凝りてないだろ? ――あと、児島生花店のぶん全部終わったから、またチェックしておいてほしい」
「あぁ、わかった」
神野は広い湯舟に手足を広げ、一日の疲れと冷えを癒しながら、ほうっと息を吐いた。
なにせ篠山はもちろんのこと、春臣や遼太郎を見ていると自分が子どもみたいに思えて嫌になるのだ。
遼太郎には勝てないとしても、せめて彼に指さきが届くくらいには近づきたい。そうでないと、いつか篠山がまた彼のもとに戻ってしまいそうで怖い。
「ん~、ん~、とくかく、がんばろう」
バシャリと掬った湯で顔を洗い気持ちを引き締めた神野は、やる気を充満させて風呂からあがった。
それなのに。
(手伝えることが、なにもない……)
どうして自分が風呂にはいっていたたった三十分の間に、人数分のハンバーグプレートができあがってしまっているのだろうか。
春臣の手際のよさに眉を顰めた神野は、漲らせていたやる気を透かされてしまい、恨みがましくテーブルに並んだ料理を眺めた。
しかも春臣は料理したあとの片づけさえもおおかた終わらせていて、シンクにはあとはフライパンひとつの洗い物を残すのみになっている。
「おぉおっ⁉ びっくりした。神野どうした?」
うぅ、と呻きながら戸口のまえでつったっていた神野に、うしろからやって来た篠山がぶつかりかけて、慌てて体をよけていた。
「あ、いえ、なんでもありません。すみません」
神野は篠山に謝ると春臣に「お風呂さきにいただきました」と声をかけ、彼に風呂を勧めると残りの洗い物を引き受けた。
篠山がソファーで一服しかけると、さきに席について食事をはじめていた遼太郎が彼を呼んだ。すると篠山が灰皿をもって、席をダイニングに移す。
「匡彦さん、藤野商店さんとこの事務員さんまた辞めたって。社長が経理にてこずっていて、また俺にきて欲しいって云ってきてるんだけど?」
「はぁ? またかよ? なんで懲りないんだよ、あの社長は。で? 次のパートは募集してるのか?」
「うん。もう決まってさ。で、藤野さん自分で教えるとまた辞められるんじゃないかって、俺に新しいひとに仕事の引継ぎやって欲しいらしい」
「ここは派遣会社じゃねえって……。いいよ、遼太郎断って。こっちも人手が足りないんだ。それにお前にばっか無理させてられない」
「ん。でも俺はかまわないんだよ。で、今日、昼にちょっと顔だしてきた。つくっておいたレクチャーのノートがあるから、それを新しいパートさんに見せてできる範囲内で教えてきたんだけど。明日も午前中、ちょっと行ってやってもいいかな? こっちには間に合うようにするから」
フライパンをゴシゴシと洗いながらも、どうしても篠山と親しげに話す遼太郎のことが気になってしまってちらちらと彼を見てしまう。
篠山の顔を見上げる遼太郎はきりっと弓なりの眉に、多めのまつ毛に縁どられた濡れた黒い瞳をしていて、凛々しくうつくしい。
育ちがいいのか、ソースがついた口もとを拭う仕草ひとつにしても、彼はとても品よく見えた。
(かっこいい……、っていうよりも、きれいって感じなのかな?)
遼太郎は今二十四で、自分よりも二個うえだ。彼は税理士試験の勉強をしながら、篠山の個人会計事務所で税理士補助として働いていた。
趣味は絵を描くことで、この部屋でも彼はよくクロッキー帳にシャープペンを走らせている。モチーフはあの世だそうで、去年に彼の描いた地獄絵図は一冊の本となって売りにだされている。それを知った神野はさっそく本屋で彼のイラスト集を探しだしてなけなしの小遣いで購入したのだが、せっかくだからと彼にサインをお願いして嫌な顔をされてしまっていた。そのうえ無駄遣いをするなと怒られている。
遼太郎はすごいと思う。彼はなんでもできるのだ。
自分のことや仕事だけではなく、ひとの世話まで難なくやってしまう彼のことを神野は尊敬していた。
(見た目もよくて、有能で、絵も描けるとか、俺には太刀打ちできない……)
「あっ」
悔しい気持ちを乗せすぎたせいか、力がはいったスポンジから跳ねた泡がシンクの扉に滴り落ちていった。
(あれ?)
濡れた扉を拭こうとしてしゃがむと、扉の側面にも古い汚れを見つけてしまう。神野は扉を開くとそこと、ついでに扉の内側のほうもごしごしと拭いておいた。
ザルや調理器具が収納されたシンクしたは、独特の湿気た匂いがしていて、神野は鼻をすんと蠢かすと眉を顰ひそめた。カビでも発生しているのではないかと、なかをきょろきょろ見渡してみる。
神野はお互いを信頼しきっているふたりの会話をなんとはなしに聞きながら、目についた汚れをごしごしと拭いていった。
「それはかまわないけど。あんま無理すんなよ? あの社長もちょっと痛い目みないと、なかなか性格があらためられないからな。あの口の悪さで、いままでに何人に辞められてきてるんだ? しかも無断欠勤の末の音沙汰なしだなんて、恨まれてなきゃされないだろ……」
「それについては、社長も社労士に怒られたってさ。でも笑って云ってたから、まぁ、凝りてないだろ? ――あと、児島生花店のぶん全部終わったから、またチェックしておいてほしい」
「あぁ、わかった」
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