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本編第五章:宴会編
第八十四話「美食文化の振興策」
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トーレス王宮での晩餐会が終わった。
少し変わった趣向だったが、十分に満足できる料理と酒を味わい、俺もウィズも笑顔が絶えない。
この後はトーレス王アヴァディーンと魔王アンブロシウス、四天王のベリエスと、美食と酒の文化を普及させる事業に関し、話し合いを行うことになっている。
晩餐会会場であった大広間から国王の私室がある王宮の奥に向かう。
既に午後九時を過ぎているが、王宮の中には思いの外、多くの人が働いていた。明日の魔物暴走終息を祝う式典の準備を行っているらしい。
目的地に到着した。
私室と言ってもプライベートな客を招待する応接室だ。分厚い絨毯にトーレス王家の紋章が描かれたタペストリー、更には高そうな花瓶や彫刻などが並んでいる。
侍従が待ち構えており、ブランデーらしき酒のボトルや様々な形のグラスなどが用意されていた。
革張りの立派なソファに座ると、
「既にランジーを呼んでおるので、ブランデーを楽しみながらお待ちいただきたい」
事業計画の責任者、内務卿のレスター・ランジー伯爵が来るまでの間、トーレス王国自慢のブランデーを楽しむことになった。
「まずは最も気に入っているエクスニング三十年を飲んでいただきたい」
エクスニングは先ほどの晩餐会にも出てきたワインの産地で、ハイランド連合王国との国境付近の町だ。
アヴァディーンがそう言うと、侍従が「飲み方はいかがされますか?」と聞いてきた。
魔王は侍従の言っていることが理解できず、「飲み方だと」と言って片方の眉を上げる。
「えっ、あっ、その……」と侍従が怯えて言葉にならない。フォローするため、アヴァディーンに話しかけた。
「私としてはストレートがよいのですが、陛下のお勧めの飲み方はどのようなものでしょうか」
アヴァディーンも魔王を気にして慌てていた。
「そ、そうだな。エドガー殿の申す通り、ストレートがよかろう。アンブロシウス陛下もそれでよろしいですかな」
そこで魔王も自分が気を使われていることに気づいたようだ。
「うむ。それで頼む」と言いながら、短慮を起こしたことに僅かに焦りの表情を見せている。
侍従がブランデーを入れたグラスをテーブルに置いた。
美しい琥珀色の液体が足の短いブランデーグラスの中で揺れている。
手に取って香りを嗅ぐと、凝縮されたブドウの香りが鼻腔を支配する。口を付けると、その香りは一層強くなる。
舌先に感じる刺激からアルコール度数が高いと分かるが、飲みにくさは全くなく、慣れると干しブドウのような甘みを感じるほどだ。
「これはいいブランデーですね。本日の白ワインを蒸留したものでしょうか」
「さすがはエドガー殿だな。その通りだ」とアヴァディーンが答える。
「ブランデーとはワインの蒸留酒じゃと思っておったが、違うのかの?」とウィズが聞いてきた。
「基本的にはその通りなんだが、もう一つの作り方があるんだ」
「もう一つの作り方とはなんじゃ?」
「ワインはブドウの実を潰して発酵させて作る。その際にブドウの実や皮なんかが搾りかすとして残るんだが、その搾りかすにもアルコール分が残っている。それに水を加えて濾すと、僅かだがアルコール分が取り出せる。それを蒸留して作る方法もあるんだ」
フランスで言う“マール”のことだ。ちなみに白ワインを蒸留するものは“フィーヌ”と呼ばれる。
「なるほどの。だが、その作り方の方はあまり美味そうではないの」
「一般的には白ワインを蒸留したものの方が上品で美味いんだが、元のワインがいいものだと、搾りかすから作ったものでも充分に美味いものができる。それにワインを直接蒸留する場合は白ワインじゃないとダメなんだが、この方法なら赤ワインでも作れる。今日飲んだブルートンの最高の赤ワインの搾りかすのブランデーなら美味いものができそうな気がするな」
「そうなのか。ところでなぜ白ワインでしか作れんのじゃ?」
「俺も詳しくは知らないが、赤ワインの渋み成分が邪魔をすると聞いたことがある。だから、赤ワインそのものでは渋み成分が強すぎて、美味いブランデーにならなかったはずだ」
「いろいろと難しいものじゃの。だが、その搾りかすのブランデーとやらも飲んでみたいものじゃ」
そう言ってアヴァディーンの方をちらりと見る。
「確かフォーテスキューの粕取りブランデーがあったはずだ。あとで飲んでいただこう」
「催促したみたいですみません」と謝っておくが、俺も飲みたいので断りはしない。
侍従がつまみを出してきた。
「チョコレートでございます」
ガラスの器に直径二センチほどの円形のチョコレートが入っていた。色は二種類あり、ビターとミルクのようだ。
「これは食べたことがないの」とウィズは言いながら、チョコレートをつまもうとしていた。
「色の薄い方がまろやかで甘みが強いはずだ。濃い方は苦みと香りが強いと思う」
そう言いながらビターと思しきチョコレートを口に入れる。
予想通り、ビターチョコレートでえぐみを感じないギリギリの濃さだ。
「そう言えば久しぶりに食べたな。やっぱり美味い」
「確かに美味い菓子じゃ。この独特の香りと甘み、それに渋みがよい。ブランデーにもよく合うの」
ウィズもチョコレートとブランデーを楽しみ、満足そうだ。
「この酒はよいな、アヴァディーン殿」と魔王も気に入ったようだ。
「ハイランドのウイスキーも食後酒によいですが、我が国のブランデーも負けてはおりません。特に食事の後のゆっくりとした時間を過ごすという点では、ブランデーが最適だと思っております」
「その考えに私も賛成ですね。ウイスキーも長期熟成のものはゆったりと飲めますが、ソファに座り、グラスを揺らしながら香りを楽しむという点ではブランデーの方が合う気がします」
単にイメージの問題なのだが、革張りのソファに背を預けて飲むというシチュエーションで思い浮かぶのはブランデー、特に高級なコニャックやアルマニャックだ。同じブランデーでもイタリアのグラッパは高級なものであっても何となくイメージが違う。
そんな話をしていると、内務卿のレスター・ランジー伯爵が三人の文官と共に部屋に入ってきた。目の下には隈があり、疲れているように見える。しかし、目だけは爛々と輝いていた。
「遅くなり申し訳ございません」
そう言って頭を下げると、文官が数枚の書類を国王、魔王、そして俺の前に置いた。
「皆様の前に置かせていただいた書類には骨子が書かれております。早速説明を始めてもよろしいでしょうか」
アヴァディーンが魔王に「よろしいですかな」と聞き、魔王が頷いたところでランジー伯が説明を始めた。
「まず計画の概要でございますが、大きく分けて三つの事業が柱になると考えております。第一に料理人などの教育、第二に食材の確保、第三に新たな料理の研究です……」
料理人の教育では、ここブルートンに王立の料理学校を設立すること、市井の料理人に対し、弟子を取った場合の補助金を出すことなどが提案されていた。
学校を設立するための行政の担当部署の立ち上げ、予算の確保、大まかなスケジュール、設置場所など、結構詳細に検討されていた。
説明された計画ではブルートン近郊に学術都市のようなものを建設するとあり、大規模な計画であることが分かる。
食材の確保はまだ検討中のようで、農業や漁業の振興、外国の食材を輸入するための貿易の振興だけでなく、魔物の素材を得るための探索者への支援や野生の魔物を狩る狩人の育成なども計画に盛り込まれている。
また、外国の食材を輸入するために新たに専用魔導飛空船を建造する計画まで入っていた。
新たな料理の研究は斬新なものだった。
教育機関の設立と共に各国から料理人を集め、美食アカデミーのようなものを設立し、そこで新たな調理法を考えるというものだ。
その中には流れ人が持ち込んだ知識の集約と分類、資料の整備などもあり、食の総合大学と言ってもいいほどだ。
「……以上が計画の概要でございます」
ランジー伯はそう言って頭を小さく下げる。
アヴァディーンは「よくまとめてくれた」と労った後、俺の意見を求めてきた。
「エドガー殿、何か付け加えることがあれば、遠慮せず言っていただきたい」
「素晴らしい計画だと思います」
俺の言葉にランジー伯らが安堵の表情を浮かべる。
「ただ一点だけ、付け加えた方がよいのではないかと思うことがあります」
「それはどのようなことでしょうか」とランジー伯は警戒気味に聞いてくる。
「文化を作るという点では申し分ないのですが、普及という点では改善の余地があるのではないかと」
「普及ですか……」
「はい。どれだけよいものであっても多くの人が知らなければ、発展は見込めません。特に今まで縁がなかった料理に対し、人はなかなか手を出さないものです。ですので、知るきっかけを作ることが重要だと思います」
「おっしゃられることは分からないでもありませんが、具体的にはどのようなことをお考えなのでしょうか」
「例えば、食の博覧会のようなイベントを開催するというのもいいかもしれません。少し余裕のある平民が興味を持つような工夫があれば、より一層広がるのではないかと」
「イベントですか……」と呟き、ランジー伯は悩みだす。
「試食会や試飲会のようなものを定期的に開催しても面白いかもしれませんね。地方の方のために主要都市を巡回するという方法もあります」
「なるほど。確かに未知のものに対しては手を出しにくかろう。余もジン・キタヤマの料理になかなか手を出さなかった。あれほど評判になっていたにもかかわらずだ。エドガー殿の言うことは検討の余地があるのではないか」
アヴァディーンがそういうと、ランジー伯は「御意」と頭を下げ、
「その計画も盛り込むようにいたします。他には何かございませんか」
「そうですね。あとは食材や酒の品質維持が重要になります。特に巨大な予算を投入されるのですから、質の悪い領主や商人なら、いい加減なものでも補助金を請求してくる可能性は否定できません」
「確かにそうですな。その点はあまり考えておりませんでした」
「酒や食材の品質に関する法律の整備とそれを取り締まる部署の新設も必要になると思います」
俺がイメージしているのはフランスなどの原産地呼称統制、いわゆるAOCだ。
原産地と生産方法を厳格に明示することで、粗悪なものを排除するのだ。
「取り締まる人材を揃えるのは難しいかもしれません」
「その点は理解しています。すぐには難しいと思いますので、今後の課題として検討を進めていただければと思います」
俺の言葉に「さすがはエドガー殿だ」とアヴァディーンが褒める。
「私の方からはこのくらいですね」というと、
「では余から一つ提案させてもらってもよいだろうか」
魔王がそう言って話し始めた。
「学校を作るとのことだが、エドガー殿の名を冠してはどうだろうか」
「それはよいお考えですな」とアヴァディーンが賛同する。
突然の話に慌てる。
「いや、待ってください。この件で私は何もしていません。資金を提供するのはアンブロシウス陛下ですから、名を付けるとしたら陛下の名です。“アンブロシウス美食アカデミー”なんていうのはどうでしょうか」
「余は何もしておらぬし、美食の知識もない。不自然過ぎると思うのだが」と魔王は断ってきた。
「私の方がよほど不自然ですよ。ただのシーカーなんですから。それに目立ちたくないという私の願いと矛盾します」
「確かにそうですな」とアヴァディーンが頷く。
更にベリエスも俺の顔をちらりと見てから魔王に進言する。
「陛下、ここはエドガー殿の提案を受け入れてはいかがでしょうか」
魔王は「しかしだな……」と言いかけるが、ベリエスの視線を受けて口を噤む。
「よいではないか。魔王が美食家というのはなかなかに面白いのではないかの」
ウィズまで調子に乗って意見を言っている。
「ここは諦めるしかないようですな。アンブロシウス陛下」とアヴァディーンがいい、魔王も諦め顔で「仕方あるまい」と渋々認めた。
その後、魔王国に派遣する料理人の待遇などについても話し合われた。
■■■
アンブロシウス美食アカデミーは翌年の大陸暦一一二一年に開校した。
名誉学長に魔王アンブロシウスが就き、有名な料理人を講師として招聘した。その中にはハイランド連合王国のホテル・レイクサイドの料理長ロナルド・ボーデンがいた。
ボーデンは当初断ったが、ハイランド王フレデリックが自らレイクサイドに出向き、説得を行ったため、受諾したと言われている。
他にもジン・キタヤマの弟子が和食部門の筆頭講師になるなど、料理人を目指す若者たちが挙って門を叩いた。
アカデミーの教育資料だが、流れ人が持っていた資料を基に作られている。その中にはゴウ・エドガー氏が提供したものが多数あった。彼はタブレットに保管されていた様々な料理や酒の本を開示し、その情報の多くがテキストに採用されている。
このアカデミーには料理だけでなく、酒に関する部門がある。
酒造部門には日本酒、ワイン、ビールなどの醸造酒部門とウイスキーやブランデーなどの蒸留酒部門があり、その講師も有名な醸造家たちが招かれていた。
また、酒造だけでなく、酒を提供する専門家を養成する部門も設立されている。
そこには世界中の酒が集められ、酒博物館が作られた。
この博物館にはウィスティア・ドレイク氏が毎日のように顔を出したという逸話が残されている。それだけではなく、あまりに多くの酒を飲むことから、博物館の責任者がゴウ・エドガー氏に苦情の手紙を送り、ドレイク氏の飲む量が減ったという記録も残されていた。
少し変わった趣向だったが、十分に満足できる料理と酒を味わい、俺もウィズも笑顔が絶えない。
この後はトーレス王アヴァディーンと魔王アンブロシウス、四天王のベリエスと、美食と酒の文化を普及させる事業に関し、話し合いを行うことになっている。
晩餐会会場であった大広間から国王の私室がある王宮の奥に向かう。
既に午後九時を過ぎているが、王宮の中には思いの外、多くの人が働いていた。明日の魔物暴走終息を祝う式典の準備を行っているらしい。
目的地に到着した。
私室と言ってもプライベートな客を招待する応接室だ。分厚い絨毯にトーレス王家の紋章が描かれたタペストリー、更には高そうな花瓶や彫刻などが並んでいる。
侍従が待ち構えており、ブランデーらしき酒のボトルや様々な形のグラスなどが用意されていた。
革張りの立派なソファに座ると、
「既にランジーを呼んでおるので、ブランデーを楽しみながらお待ちいただきたい」
事業計画の責任者、内務卿のレスター・ランジー伯爵が来るまでの間、トーレス王国自慢のブランデーを楽しむことになった。
「まずは最も気に入っているエクスニング三十年を飲んでいただきたい」
エクスニングは先ほどの晩餐会にも出てきたワインの産地で、ハイランド連合王国との国境付近の町だ。
アヴァディーンがそう言うと、侍従が「飲み方はいかがされますか?」と聞いてきた。
魔王は侍従の言っていることが理解できず、「飲み方だと」と言って片方の眉を上げる。
「えっ、あっ、その……」と侍従が怯えて言葉にならない。フォローするため、アヴァディーンに話しかけた。
「私としてはストレートがよいのですが、陛下のお勧めの飲み方はどのようなものでしょうか」
アヴァディーンも魔王を気にして慌てていた。
「そ、そうだな。エドガー殿の申す通り、ストレートがよかろう。アンブロシウス陛下もそれでよろしいですかな」
そこで魔王も自分が気を使われていることに気づいたようだ。
「うむ。それで頼む」と言いながら、短慮を起こしたことに僅かに焦りの表情を見せている。
侍従がブランデーを入れたグラスをテーブルに置いた。
美しい琥珀色の液体が足の短いブランデーグラスの中で揺れている。
手に取って香りを嗅ぐと、凝縮されたブドウの香りが鼻腔を支配する。口を付けると、その香りは一層強くなる。
舌先に感じる刺激からアルコール度数が高いと分かるが、飲みにくさは全くなく、慣れると干しブドウのような甘みを感じるほどだ。
「これはいいブランデーですね。本日の白ワインを蒸留したものでしょうか」
「さすがはエドガー殿だな。その通りだ」とアヴァディーンが答える。
「ブランデーとはワインの蒸留酒じゃと思っておったが、違うのかの?」とウィズが聞いてきた。
「基本的にはその通りなんだが、もう一つの作り方があるんだ」
「もう一つの作り方とはなんじゃ?」
「ワインはブドウの実を潰して発酵させて作る。その際にブドウの実や皮なんかが搾りかすとして残るんだが、その搾りかすにもアルコール分が残っている。それに水を加えて濾すと、僅かだがアルコール分が取り出せる。それを蒸留して作る方法もあるんだ」
フランスで言う“マール”のことだ。ちなみに白ワインを蒸留するものは“フィーヌ”と呼ばれる。
「なるほどの。だが、その作り方の方はあまり美味そうではないの」
「一般的には白ワインを蒸留したものの方が上品で美味いんだが、元のワインがいいものだと、搾りかすから作ったものでも充分に美味いものができる。それにワインを直接蒸留する場合は白ワインじゃないとダメなんだが、この方法なら赤ワインでも作れる。今日飲んだブルートンの最高の赤ワインの搾りかすのブランデーなら美味いものができそうな気がするな」
「そうなのか。ところでなぜ白ワインでしか作れんのじゃ?」
「俺も詳しくは知らないが、赤ワインの渋み成分が邪魔をすると聞いたことがある。だから、赤ワインそのものでは渋み成分が強すぎて、美味いブランデーにならなかったはずだ」
「いろいろと難しいものじゃの。だが、その搾りかすのブランデーとやらも飲んでみたいものじゃ」
そう言ってアヴァディーンの方をちらりと見る。
「確かフォーテスキューの粕取りブランデーがあったはずだ。あとで飲んでいただこう」
「催促したみたいですみません」と謝っておくが、俺も飲みたいので断りはしない。
侍従がつまみを出してきた。
「チョコレートでございます」
ガラスの器に直径二センチほどの円形のチョコレートが入っていた。色は二種類あり、ビターとミルクのようだ。
「これは食べたことがないの」とウィズは言いながら、チョコレートをつまもうとしていた。
「色の薄い方がまろやかで甘みが強いはずだ。濃い方は苦みと香りが強いと思う」
そう言いながらビターと思しきチョコレートを口に入れる。
予想通り、ビターチョコレートでえぐみを感じないギリギリの濃さだ。
「そう言えば久しぶりに食べたな。やっぱり美味い」
「確かに美味い菓子じゃ。この独特の香りと甘み、それに渋みがよい。ブランデーにもよく合うの」
ウィズもチョコレートとブランデーを楽しみ、満足そうだ。
「この酒はよいな、アヴァディーン殿」と魔王も気に入ったようだ。
「ハイランドのウイスキーも食後酒によいですが、我が国のブランデーも負けてはおりません。特に食事の後のゆっくりとした時間を過ごすという点では、ブランデーが最適だと思っております」
「その考えに私も賛成ですね。ウイスキーも長期熟成のものはゆったりと飲めますが、ソファに座り、グラスを揺らしながら香りを楽しむという点ではブランデーの方が合う気がします」
単にイメージの問題なのだが、革張りのソファに背を預けて飲むというシチュエーションで思い浮かぶのはブランデー、特に高級なコニャックやアルマニャックだ。同じブランデーでもイタリアのグラッパは高級なものであっても何となくイメージが違う。
そんな話をしていると、内務卿のレスター・ランジー伯爵が三人の文官と共に部屋に入ってきた。目の下には隈があり、疲れているように見える。しかし、目だけは爛々と輝いていた。
「遅くなり申し訳ございません」
そう言って頭を下げると、文官が数枚の書類を国王、魔王、そして俺の前に置いた。
「皆様の前に置かせていただいた書類には骨子が書かれております。早速説明を始めてもよろしいでしょうか」
アヴァディーンが魔王に「よろしいですかな」と聞き、魔王が頷いたところでランジー伯が説明を始めた。
「まず計画の概要でございますが、大きく分けて三つの事業が柱になると考えております。第一に料理人などの教育、第二に食材の確保、第三に新たな料理の研究です……」
料理人の教育では、ここブルートンに王立の料理学校を設立すること、市井の料理人に対し、弟子を取った場合の補助金を出すことなどが提案されていた。
学校を設立するための行政の担当部署の立ち上げ、予算の確保、大まかなスケジュール、設置場所など、結構詳細に検討されていた。
説明された計画ではブルートン近郊に学術都市のようなものを建設するとあり、大規模な計画であることが分かる。
食材の確保はまだ検討中のようで、農業や漁業の振興、外国の食材を輸入するための貿易の振興だけでなく、魔物の素材を得るための探索者への支援や野生の魔物を狩る狩人の育成なども計画に盛り込まれている。
また、外国の食材を輸入するために新たに専用魔導飛空船を建造する計画まで入っていた。
新たな料理の研究は斬新なものだった。
教育機関の設立と共に各国から料理人を集め、美食アカデミーのようなものを設立し、そこで新たな調理法を考えるというものだ。
その中には流れ人が持ち込んだ知識の集約と分類、資料の整備などもあり、食の総合大学と言ってもいいほどだ。
「……以上が計画の概要でございます」
ランジー伯はそう言って頭を小さく下げる。
アヴァディーンは「よくまとめてくれた」と労った後、俺の意見を求めてきた。
「エドガー殿、何か付け加えることがあれば、遠慮せず言っていただきたい」
「素晴らしい計画だと思います」
俺の言葉にランジー伯らが安堵の表情を浮かべる。
「ただ一点だけ、付け加えた方がよいのではないかと思うことがあります」
「それはどのようなことでしょうか」とランジー伯は警戒気味に聞いてくる。
「文化を作るという点では申し分ないのですが、普及という点では改善の余地があるのではないかと」
「普及ですか……」
「はい。どれだけよいものであっても多くの人が知らなければ、発展は見込めません。特に今まで縁がなかった料理に対し、人はなかなか手を出さないものです。ですので、知るきっかけを作ることが重要だと思います」
「おっしゃられることは分からないでもありませんが、具体的にはどのようなことをお考えなのでしょうか」
「例えば、食の博覧会のようなイベントを開催するというのもいいかもしれません。少し余裕のある平民が興味を持つような工夫があれば、より一層広がるのではないかと」
「イベントですか……」と呟き、ランジー伯は悩みだす。
「試食会や試飲会のようなものを定期的に開催しても面白いかもしれませんね。地方の方のために主要都市を巡回するという方法もあります」
「なるほど。確かに未知のものに対しては手を出しにくかろう。余もジン・キタヤマの料理になかなか手を出さなかった。あれほど評判になっていたにもかかわらずだ。エドガー殿の言うことは検討の余地があるのではないか」
アヴァディーンがそういうと、ランジー伯は「御意」と頭を下げ、
「その計画も盛り込むようにいたします。他には何かございませんか」
「そうですね。あとは食材や酒の品質維持が重要になります。特に巨大な予算を投入されるのですから、質の悪い領主や商人なら、いい加減なものでも補助金を請求してくる可能性は否定できません」
「確かにそうですな。その点はあまり考えておりませんでした」
「酒や食材の品質に関する法律の整備とそれを取り締まる部署の新設も必要になると思います」
俺がイメージしているのはフランスなどの原産地呼称統制、いわゆるAOCだ。
原産地と生産方法を厳格に明示することで、粗悪なものを排除するのだ。
「取り締まる人材を揃えるのは難しいかもしれません」
「その点は理解しています。すぐには難しいと思いますので、今後の課題として検討を進めていただければと思います」
俺の言葉に「さすがはエドガー殿だ」とアヴァディーンが褒める。
「私の方からはこのくらいですね」というと、
「では余から一つ提案させてもらってもよいだろうか」
魔王がそう言って話し始めた。
「学校を作るとのことだが、エドガー殿の名を冠してはどうだろうか」
「それはよいお考えですな」とアヴァディーンが賛同する。
突然の話に慌てる。
「いや、待ってください。この件で私は何もしていません。資金を提供するのはアンブロシウス陛下ですから、名を付けるとしたら陛下の名です。“アンブロシウス美食アカデミー”なんていうのはどうでしょうか」
「余は何もしておらぬし、美食の知識もない。不自然過ぎると思うのだが」と魔王は断ってきた。
「私の方がよほど不自然ですよ。ただのシーカーなんですから。それに目立ちたくないという私の願いと矛盾します」
「確かにそうですな」とアヴァディーンが頷く。
更にベリエスも俺の顔をちらりと見てから魔王に進言する。
「陛下、ここはエドガー殿の提案を受け入れてはいかがでしょうか」
魔王は「しかしだな……」と言いかけるが、ベリエスの視線を受けて口を噤む。
「よいではないか。魔王が美食家というのはなかなかに面白いのではないかの」
ウィズまで調子に乗って意見を言っている。
「ここは諦めるしかないようですな。アンブロシウス陛下」とアヴァディーンがいい、魔王も諦め顔で「仕方あるまい」と渋々認めた。
その後、魔王国に派遣する料理人の待遇などについても話し合われた。
■■■
アンブロシウス美食アカデミーは翌年の大陸暦一一二一年に開校した。
名誉学長に魔王アンブロシウスが就き、有名な料理人を講師として招聘した。その中にはハイランド連合王国のホテル・レイクサイドの料理長ロナルド・ボーデンがいた。
ボーデンは当初断ったが、ハイランド王フレデリックが自らレイクサイドに出向き、説得を行ったため、受諾したと言われている。
他にもジン・キタヤマの弟子が和食部門の筆頭講師になるなど、料理人を目指す若者たちが挙って門を叩いた。
アカデミーの教育資料だが、流れ人が持っていた資料を基に作られている。その中にはゴウ・エドガー氏が提供したものが多数あった。彼はタブレットに保管されていた様々な料理や酒の本を開示し、その情報の多くがテキストに採用されている。
このアカデミーには料理だけでなく、酒に関する部門がある。
酒造部門には日本酒、ワイン、ビールなどの醸造酒部門とウイスキーやブランデーなどの蒸留酒部門があり、その講師も有名な醸造家たちが招かれていた。
また、酒造だけでなく、酒を提供する専門家を養成する部門も設立されている。
そこには世界中の酒が集められ、酒博物館が作られた。
この博物館にはウィスティア・ドレイク氏が毎日のように顔を出したという逸話が残されている。それだけではなく、あまりに多くの酒を飲むことから、博物館の責任者がゴウ・エドガー氏に苦情の手紙を送り、ドレイク氏の飲む量が減ったという記録も残されていた。
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