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[二巻]

〇限、プロローグ

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 もう四、五年前のこと。
 私が煤掛にいた頃の話。
 二人の出会いはなんだったのだろう。
 政界を志す御父様と、それを秘書として支える御母様の間に生まれた私は、多くの人の救いとなるよう『杏奈』と名付けられた。父がそれを願ったように。
 生まれつき知能指数の高かった私は、御父様に言われるがまま多くの学問へ比較的早く関心を持った。絵本は幼稚園に入るか入らないかで飽きたことは覚えている。だから、識字力は周囲の誰よりも優れていて、それでいてその言葉が何を意味するか。感受性を得るのにもそう時間を要さなかった。
 そんな私だからこそ、今にも抱き続けるのが幼い頃の記憶。
 敏腕の鈴川県議の若かりし日の過ちである。
 御父様は県議に初当選するまでは、それは貧相な暮らしで。築三十年を優に超えたような木造アパートの一室でささやかな家庭を分かち合っていた。きっと借金だって多かったのだと思う。有名大学を卒業しても就職を頑なに拒んだ御父様は政治のことばかりで。政務活動には勿論お金がかかるわけだけど、その話を御母様が話題にするといつも物に当たっていた。何かが壊れると、次に御母様はぶたれて悲鳴をあげるのだ。
 だから、御母様には御父様にお金の話をするのをやめた方がいいと言った覚えもある。
 御母様は御父様とは違ってとても優しい人だった。どんなに存外に扱われようとも健気でいて、それでいて家族のことを思いやってくれていた。それだもので、どこの家よりも早くに御母様はパートでの出稼ぎを始めた。言わずもがな、御父様の政務活動の片手間にだ。外でもきっと罵られているであろうに、御父様はそんなこと気にもせずに自分の言いたいことだけを御母様に言って困らせていた。それでも、一つも怒らずに静かに受け止めて、夜になると私の寝床に寄り添ってくれるのだ。自分が眠るのはきっともっと先のことなんだろうに。
 御母様は優しい人だった。
 笑顔を絶やさない人だった。
 幼い私には、それが至極痛々しく思えた。
 小学校にあがって間もなくのある日、御父様が県議会議員選挙に初当選した。
 プレハブに構えた事務所で支持者を囲み、御父様は喜んでいた。
 私にはそれを純粋に喜べる感情は既に備わっていなかった。
 今まで見向きもされなかった御父様が何故突然選挙で勝ったのかが分からなかったのである。
 でも、それを言おうとも思わなかった。言えばきっと御母様と同じ思いをするから。
 けど、世論というのは残酷なもので。
 程なくして、御父様の悪行は週刊誌によって取り上げられた。
 選挙期間中に、使途不明の多額の資金が動いていたというものであり、当時の〈憲民党〉副幹事長に賄賂を送り、見返りに政党公認を取り付けたのではないかという記事であった。
 この手の雑誌は三文推理をよくよくするものであるが、御父様であればやりかねないとも思っていた。
 けれど、その借入れの名義を御母様にしているとまでは思わなかった。
 あまつさえ、火消しに躍起になった御父様は記者の群れに向かってこう言ったのだ。
「秘書のしたことで私はまったく存じておりませんでした」と。
 嘘泣きまでして、白々しい人だと思った。思うことは自由だ。自分に火の粉が降りかからないと知っているからだ。でも、それを聞いた御母様はどう感じたことだろう。
 さぞ、悔しかったのではないだろうか。いや、そうだったのだろう。
 気のせいではなかったはずだ。その晩聞いた慟哭にも似た嗚咽の声は。
 騒動は二、三日で静まった。
 当然だ。疑惑の人がいなくなったのだから。
 あの日の放課後。
 赤いランドセルを玄関に放り出して家を歩いて回ると、見つけてしまった。
 あの姿。脱衣所で血を流している御母様を、私は、未だに忘れられない。
 御母様の葬儀は淡々としていた。親族は、あの子が全部背負っていったと御父様を励ましていたが、あの人はそんなこと片時も思っていなかった。むしろ、好都合だったと。そう感じていたに違いない。
 そんな推察は的を得ていたようで血生臭いアパートは不吉だと言って、御母様の位牌も持たずに新築のマンションへと引っ越した。
「お前はあの女みたいになるんじゃないぞ」と言いつつも、御父様は私の教学に必要なものはよく揃えてくれた。専用の書斎まで作ってくれた。お金があるということはなんでも手に入るということなのかもしれない。けれども、私の心は温まることはなかった。買い与えられるたびに冷水を顔にかけられているようで。御母様を遠ざけられているようで。
 家には父性も、母性も、何もなかったのだ。
 すっかりと心身冷めきった小学三年の早秋。
 この頃になると、私の周囲には友人と呼べる存在はいなくなっていた。私の非凡さを同級生は煙たがり、御父様の子だと言うだけで教師を含め大人達からも敬遠されていた。でも、それらは皆等しく私にはどうすることもできない事柄だ。偽って人並みであり続けるほど協調に富んでいるわけでもない。かと言って、御父様のもとから離れた暮らしなど考えることもできない。結局は今あるものに依存し身を委ねるのが子供の性分であると。
 教学を盾に放課後の図書室に残ることが多かったのは、親に対するささやかな反抗だったのかもしれない。
 御父様は好きにはなれない。
 そんな折に、彼は私のもとへやってきたのだ。
 泥だらけになった運動着で部屋に転がり込んでくると、
「ここ、いるのはお前だけか?」と息を切らせながら訊いてきた。
 やる気のない学校司書は私に鍵を預けて帰っていたため、こくりと頷いた。
「頼む。匿ってくれ」
 彼が四つ這いになってカウンターに潜り込むと、程なくして同様のユニホームを着用した男子が数人、部屋に入ってきた。彼らは部屋を見回すと、私の存在を認めるなりゆっくりと後退して去っていった。理由は先述の通り。それが当然の反応。むしろ、私からしても異様そのものだったのが、彼だった。
 彼は追っ手が階段を下っていくのを窓から確認すると、
「いやぁ、助かったわ」と私に気兼ねることなく声をかけてきた。
「ねぇ」
「喋れたのか」
「私、鈴川よ」
「自己紹介か。俺は……って、言わなくても顔で分かるか」
「知らない。そうじゃなくて。私鈴川だって言ってるの。嫌われ者の鈴川」
 人を遠ざけたかったのかもしれない。関与して欲しくなかったのかもしれない。それとも、自分自身の知名度に陶酔していた。だとしたら、きっとあの日。私は彼に同調してしまったのだろうか。お互いが名を馳せていると思い込んだ、噂に左右されない者同士に。
「知らねぇよ。そんなこと」と言う彼の顔つきに、私は閉鎖された毎日の糸口を見出そうとしていたのだろう。
 それから、来る日も来る日も。
 放課後の教室に彼はやってきた。
 曰く、彼はクラスの学級委員で当時人望が厚かったのだそうな。けれども、親の勧めで入ったスポーツチームであの日いざこざがあり、以来は何かと理由をつけては練習のボイコットをしているということであった。
 彼は私が本を読み聞かすと、嫌な顔もせず熱心に聞いてくれた。
 ある日のことだった。
 私が児童書から太宰の作品を読んで聞かせると、彼は涙ぐんで私に訴えてきた。
「いい奴じゃん。メロスの友情。俺、感動したぜ」
「そうかしら。私はなんだか終盤が短絡的な気がする。あれだけ横柄だった暴君が心を許すなんて。作者はきっと編集か期日に追われて適当にまとめたに違いないわ」
「いいじゃねぇか。フィクションなんだから」
「フィクションでも、登場するのは私達と同じ人間よ」
「仮想の世界の中くらい夢見たっていいじゃねぇか」
 それは、私がいつしか諦めていた言葉だった。
「夢……」
「そうだよ。実は俺が天涯孤独の自由人で、お前が超有名な生徒会長ってのも夢じゃねぇか。夢が誰かの考えに縛られるなんてつまんねぇよ。だから、人間って夢見るもんなんだよ」
 抽象的な根拠。でも、それを自信ありげに語る彼は理想家そのものだった。御父様なんかよりもよっぽど将来が期待できそうで、人が憧れる素質を感じられた。
「夢も大事だけど、テストの答えは一つなんだから」
 それで、私は彼の宿題の面倒を見てあげることになった。
 なかなかに飲み込みは早かった。
 ちやほやされていた脱走癖のあるスポーツ少年は、その年の冬には満点の答案用紙を私に見せつけてきた。
「すげぇよ、お前!」
「別に。私は答えしか教えてないし」
「そんなことねぇよ。お前、きっとそういう才能あるんだって。いつか、絶対に人に尊敬される人間になるって」
「尊敬……」
 私はその時初めて彼に笑顔を見せた。
「そうなったら、貴方は私の……」
「えっ?」
 あの瞬間に勢いで言っていれば、どれだけ心に清福が得られたことだろうか。それでも、私の理性は堅牢なもので、自らの醜い容姿が窓辺に映るとたちまち後ろめたしくなってしまった。痛めてしまった双眼のためにつけた値段だけが取り柄の金縁眼鏡。生まれつきの濡羽髪の結い方も知らず、その様はまるで金持ちのおばあさんのようで。とても端麗と呼べる顔立ちではなかった。おまけに、彼には幼馴染みの女子がいた。それを知って、彼にあれこれと求めるのは人間としてどうなのかと。結局は現実に束縛されて、言い出せなかった。
「……ごめん。なんでも、ない」
 それが悔しくて。改めてその場を設けようと、二学期の終わりに彼をクリスマスイベントに誘ってみた。すんなりと出た承諾に、私は胸を弾ませて帰路についたことを覚えている。
 けれども、私達には見えない手が立ちはだかった。
 約束の日。
 私は御父様に唐突にこう告げられた。
「学習塾に体験学習に行くぞ」と。
 どうしても阻止したかった。できればはっきり拒否をしたかった。それでも、それができないことを知ってか、
「来年度からは霧林に引っ越す。今の学校は田舎臭いし、お前も頭打ちを起こしているだろう。街全体を見ても向こうの方が栄えているし、学習塾がたくさんある。中学に入るまでに他の子達を引き離しておけば、将来有利になる。それともお前は――」
 その言葉を耳にしてしまうと、私は従わなければならなかった。
直接行くことも許されず、かと言って電話で伝えることもできずに。
 クリスマスイブの夜はあっという間に過ぎていってしまった。
 それから、彼の顔を見ることが恥ずかしくなってしまい図書館通いをやめた。
 廊下ですれ違っても、特に声をかけることもなく日々は過ぎていった。
 転校は内密なものになった。それでも、馬鹿な大人が子供に漏らしたようで、私の最後の登校日にはすれ違いざまに罵倒の声を吐き捨てる子もいた。
 放課後に図書室に寄ると、彼がやってきた。
「よかった。まだいたんだな」
 彼は安堵した表情で、私に小さな紙袋を渡してきた。
「これ。クリスマスの時の」
「なんで。私、貴方を裏切ったのに」
「誰だって用の一つや二つあるだろ。それに、すっぽかしとか俺に責める資格ねぇし」
 袋の中身は白い花があしらわれたヘアピンだった。
「クリスマスプレゼント。幼馴染み待たせて一人で出かけたのに、貰った小遣い残したまま帰るのが嫌でさ」
 すぐさまそれを髪に通す。
 頭の後ろで腕を組む彼は、にたっと笑った。
「やっぱり。お前、お洒落すれば可愛くなるって」
 鼓動は高鳴った。赤面してたかもしれない。
 抑え切れずに、私は。
「私、中学になったら煤掛に戻ってくるから」
「おう。俺も勉強頑張って待ってるぜ」
「そしたら。あの、貴方のこと……お兄ちゃんって」
 恋愛下手な私が精一杯考えて告白した結果だった。自分の稚拙さに羞恥心すら感じる。
 それでも彼は嫌な顔一つしなかった。それどころか、俯く私の髪を撫でてくれたのだ。
「可愛い妹の出迎えくらいいつだってしてやるぜ」
 彼は最後まで私を受け入れてくれた。
 だから、私は煤掛に戻るまでどんな困難も甘んじて受け入れた。
 たとえ自分を欺こうとも。
 すべては、また彼に会うため。

 ❏

 煤掛中学校後者二階にある一室。黒いカーテンによって遮光された部屋では、数名の生徒が熱心にノートパソコンに指を滑らせていた。彼らは一様にして右腕に臙脂色の腕章を身に着けている。政治経済研究部、俗に言う政経部所属であることを表すものだ。
 そのうちの一人の女子が印刷の終えた書類を整える。
 黒い長髪を肩から垂らす様は美麗。しかし、その狼のような瞳孔を口説こうとする者は誰一人いない。
 それが副部長の鮫島莉帆さめじまりほであった。彼女を片腕として使役する者こそが。
「鈴川議長。草案が纏まりました」
「御苦労。例の件は盛り込んであるかしら」
「はい。『四五六シゴロ』が適用された際に議長が統領権限を嘱託される点を応用しまして、全校生徒評議委員会を設置。議会長として総代議長という席を設けさせて頂きました。ここには貴女様が。これにより、我が部はここを拠点とし新たな校内運営が可能となります」
 だが、杏奈は安易に了承しない。
「用意周到に動けば生徒達から反感を買われる可能性もあるわ」
「御安心下さい。議長当確までの間は我々所属部員が新たな番犬組織を結成致します。我が理想たるソビエトを尊重しまして〈チェーカー〉と命名しました。実務役として、いくつかの運動部に選挙協力と併せたアプローチをかけていますので、生徒の監視は問題ありません」
「メディア部はどうしたの?」
「難色を示しています。北沢は一筋縄にはいきそうにありません」
「惜しむ必要はない。彼女には存分な厚遇をしてやりなさい」
「かしこまりました」
 草案を受け取る杏奈の顔色をうかがうように、一人の男子部員が尋ねた。
「議長。恐れ多くも、書紀の席を設け空席にしたのは何故でしょう」
 これに対し、莉帆はきつい眼差しを向ける。
「貴方は議長に楯突くつもり?」
「いえ、そんなことは……!」
 焦燥を滲ませる男子部員をほくそ笑むと、杏奈は答えた。
「我が部は優秀な逸材を外部より引き込む。莉帆に負けずとも劣らぬ知謀を秘めた人間よ」
 議長たる杏奈は部員に起立を促した。
 躊躇なくただちに立ち上がる様はまさに訓練された精鋭の業。
「諸君。勝負は午後からだ。今こそ一瀬の創造してきた悪夢を打ち破る時である。協力する者は手厚く迎えよ。反抗する者は手厳しくもてなせ。同志に栄光を!」
 彼女が右手で心臓を叩きまっすぐに伸ばすと、部員達はこの動作を続けて行った。部内での敬礼と呼ばれるものである。その作法は間もなく校内に浸透することであろう。
 会議は終結した。
 部員達が退出したことを確認すると、杏奈はパソコンを落とし教室へと戻ろうとした。
「議長。書紀の件ですが」
 出入り口に隠れ問いかけてきたのは莉帆。
 杏奈と莉帆は小学四年来の言わば親友という間柄であった。殊に莉帆は杏奈に敬意を抱いており、彼女がなそうとしていることの一切を把握していた。
「彼に動きはあるかしら」
「はい。担任と秘密裏に話をしている様子ですので、必ず表舞台に現れるかと」
 杏奈は濡羽色の短髪に通していたヘアピンを見つめると、古い記憶を想見する。
(今の私は醜くはない。ようやく、胸を張って貴方に会える)
「手筈通りに進めば、すべては貴女様のものとなります」
 敬意を払う莉帆をよそに、杏奈は廊下の窓を開け放った。
しっとりとした風が彼女の髪を揺らす。
「もうすぐよ。西極くん」
 油蝉のけたたましい鳴き声が、昼下がりの空を席巻していた。
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