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あなたを助ける大作戦
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「おはよう!山本さん」
彼の席の前に行き、挨拶をする。
彼はとまどっていた。そりゃそうだ。だってまだこの世界では私と彼は話したことがない。
「え、あ、おはよう」
私はくるりと向きを変え、トイレに直行する。
私の一番落ち着くところ。考え事をするにはもってこい。絶対誰にも邪魔されない場所、トイレの個室!
「はぁー。緊張したー」
誰もいないトイレでひとりごちる。
まずは彼に私の存在を知ってもらう。前回彼と体育館裏で会ったのは席替えのあとだ。今日その席替えが行われるから、おそらく一週間以内に彼がいじめられる場面に遭遇する。彼は前回私があの日会ったから死ななかったのだと言った。つまりそこで会わなければ彼はここで死んでいる可能性がある。まずはそこで遭遇しなければ。
一週間毎日挨拶をし続け、放課後学校に意味なく残り、ついに遭遇。今度はもっとうまく先輩二人をかわし彼の元へ行く。
「大丈夫?」
二回目なのに大丈夫でないことを分かっていながらそう聞いてしまう自分の馬鹿さにあきれながらティッシュを渡す。
「誰にも言わないで」
彼は鼻水をかんで言った。前回はまず話そうとしてくれなかったから大きな進歩だ。
「それは、約束できない」
「え……ダメだよ。次は横山さんがやられるかもしれない」
「そうだね。でもあなたが苦しむのはもっと嫌だ」
「俺は、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ。怪我させられてるんだ。私から見たら全然大丈夫じゃない。私じゃ力になれないかもしれないけど、全力で助けたいって思ってる。だから私一人じゃ無理だって思ったら、先生とか周りの大人に頼るよ」
彼は不安そうな顔をした。私は急にきまずくなる。
「ごめん頼りはないね。ひょろひょろだし、ちびだし。多分あの先輩に手出されたら一瞬でKOだよ」
あははと無理して笑って見せる。彼がさらに気まずい顔をしたので、私は顔を反対に向けた。
「でも助けたいんだ。それはほんとだよ」
我ながら恥ずかしくなってきた。
「ありがとう。なんかあったら助けてもらう」
彼が立ち上がる。よろけたので私は慌てて支える。
「大丈夫?戻らなくていいよ。帰ろう」
「荷物向こうだし、コーチも待ってるから。ありがとう」
彼はそう言って私から離れて走っていった。
次の日。私は教室のドアを開け、彼が席にいることを確認する。彼がこちらを見て目が合った。私は彼の机にまで歩いていきいつも通り挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう。ちょっと待って。あのさ、これ」
彼はそう言って飴を一つバッグから取り出した。
「ティッシュと話聞いてくれたお礼」
小さい声でそう言って私にイチゴ味の飴をくれた。
「いいよ。あんなの二・三枚だし」
私は顔がにやけるのを必死に隠して、本当はお礼を言いたいのに、口は勝手に遠慮してしまう。
「いや、何個も入ってるうちの一個だし」
彼はそう言って笑った。上がった口角の両端にへこみができる。いつもは大人っぽい顔立ちなのに、笑うと子どものようなくしゃっとした顔をする。初めて自分に向かって笑いかけてもらえた。喜びでこちらが死んでしまいそうだ。
「ありがとう。じゃあもらうね」
ぺこっとおじぎして、私は席につく。飴は私の手の中に心地よく収まり離したくない。ちょっとだけこらえきれず笑みがこぼれる。
「嬉しそうだね。」
自分の椅子のすぐ隣に柊さんが立っていた。
「飴?山本君からもらったの?」
彼女は彼を名字で呼んだ。そうか。まだ付き合う前なんだ。
「え、あ、うん」
「仲いいんだね」
笑顔で話してくれるが、どことなく怒りの感情を抱いているように聞こえて、少し焦る。
「どうだろう。私はいい人だと思ってるけど」
「ふーん。好きなの?」
「え?」
思ってもいなかった言葉が聞こえて彼女の顔を凝視する。どうやら本気でそう思っているみたいだ。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ告白されてもオッケーしない?」
「山本さんは……」
山本さんは柊さんのことが好きなんだよ。と喉まででかかった言葉を飲み込む。
「山本さんは、私のことなんか相手にしないよ」
「なにそれ。質問の答えになってないよ。告白されてもオッケーしないのかって聞いてるの」
どうして彼女が少し苛ついているのかがさっぱり分からない。とりあえず質問を頭の中で反芻させる。
「どうだろう」
「なに?どうだろうって」
私の2回目の人生じゃ聞かなかったような低い怒りを抑えた声。私は怖くてうつむく。
「もし、そんなことがありえたら、私はどう答えればいいか分からないと思う。告白とかされたこと無いし。それに私より柊さんみたいなスタイルよくて性格いい子のほうがきっと好きだよ」
「は?喧嘩売ってんの?」
彼女が私の椅子を蹴った。私はびっくりして立ち上がる。周りにいた友達が彼女を抑えた。
「ちょっと止めときなって」
「何よ。なにが私のほうが合ってるって。そんなの私が1番分かってる!」
「ちょっと……」
友達が彼女を引っ張っていって教室から出ていった。後ろにいた子が私に耳打ちをした。
「ごめんね。昨日恵美さ、山本君に振られたんだよね。だからちょっと気が立ってて」
「え!?」
私があまりに大きな声をあげたのでクラスメイトの視線が私に注がれる。
「あ、そうなんだ。全然気にしてないから」
そう言って椅子を戻し座る。その友達が離れると視界の端に彼が見えた。彼が私のほうを見ている。なんとなく気まずい。前の席の友達に話しかけられ、彼の視線が私から逸れる。安心する。誰にも気にかけられないほうが安心できるなんて、おかしいだろうか。
すぐに授業が始まったが、もちろん数学の問題なんて解いている暇ではない。彼と柊さんが結ばれない。どうして変わってしまっているんだろう。私はその関係を変えた覚えはない。どの選択がそれにつながったんだろう。でも多分柊さんとの仲は確実に悪くなった。はっきり分かったのは、前の人生で彼女が私と仲良くしていたのは、私が2人の関係を脅かす存在では無かったからだということだ。今は確実に敵対視されている。同等な人間なはずないのに。
私は大きくため息をついた。
「おい。横山。そんなにでかいため息をついてどうした。この問題の答えは?わからないのか?」
全く。耳に残るいやにうるさい野太い声だ。この授業も何度目だと思ってるんだ。そんなに聞いてほしいならもっと面白い授業をしろ。いや、そんなことより柊さんだ。彼女との関係が悪くなったということはイベントの日。2人で話していて彼が死ぬ瞬間を見逃すという可能性は大きく減る。今の関係のままでいけば、本番彼を行かせないか、あるいは止められるかも知れない。
「どうした。そんなに難しい顔をして。お前の頭ならそんな難しい問題じゃないだろ」
「何言ってるんですか!人生に関わる大問題ですよ!」
なんなのよ。あっ。
血の気がひいていく感覚はこういうのを言うんだろう。一気に全身が冷たくなった。先生はあまりの衝撃にチョークを落とし、クラスメイトの全員の視線を私は奪った。私はもう教室にいられなくなり、教室を飛び出した。無理。帰りたい。死にたい。
屋上に行く階段の踊り場。屋上は閉鎖されているから誰もこない。そこで私はへなへなと座り込んだ。やってしまった。思い出すだけで恥ずかしくて顔から火がでそうだ。逃げる時に一瞬見た彼の顔は変人を見る目にすら見えた。あぁなんだ。安心して、柊さん。彼は私に興味なんかありません。振られたのは他にきっと理由があるの。何かは知らないけど、何かがあったの。もうそれしか言えない。
目から水が出て、頬を伝う感覚がある。私は右手でそれを拭った。拭っても拭っても、瞬きをするたびに溢れてくる。上を向いていると涙が伝う感覚が気持ち悪くて、うつむいて膝と膝の間に顔をうずめる。そうするとそのまま涙は地面に落ちていった。このまま溢れ続けたらいつか水たまりができて、池になって、川になって、海にならないだろうか。そこに私は落ちていって死ぬのだ。彼と同じ道をたどる。それは苦しいんだろうか。それとも死にたいと思うほど辛いことがあったあとなら、死ぬことはそれほど辛くないんだろうか。心が死ぬのと、体が死ぬのと、どちらが辛いんだろうか。死ぬとは、なんなんだろうか。
「よ……さん。横山さん!」
カタカタと階段を上がる音がする。私は顔を上げるのが嫌で俯いたままでいる。
「横山さん!」
彼が私の肩を揺すった。私は恐る恐る顔を上げる。泣いたのがバレるのが嫌で涙の跡をこすった。
「あぁよかった。死んだかと思った」
あまりに突拍子も無い言葉で私は唖然として、泣いたのを隠すのも忘れて彼の顔を凝視する。
「なんで?」
「なんでって。横山さん、急に飛び出していったきり、2時間も帰ってこないから」
「2時間!?」
腕時計を見る。確かに今11時過ぎだ。朝一の授業で飛び出したから、ばっちり2時間目の授業をサボったことになる。
「今3時間目じゃん。なんでここにいるの?」
「探しに来たんだよ。さっきの休み時間に柊さんに聞いたんだ。俺が振ったこと言ったんだって。ほら。柊さん振られると思ってなかったからショックだったみたいで。ごめんな。面倒なことに巻き込んで」
「こっちこそごめん。授業サボらせて。すぐ帰るから。先帰ってて」
「帰りにくいでしょ。一緒に帰るよ」
彼はほらと言って立ち上がって私を見下ろした。私は教室に帰りたくなくて立ち上がれない。
「じゃあじゃんけんして俺が勝ったら行こう。横山さんが勝ったら、保健室行って体調悪いってことにして帰らせてもらおう」
「いいの?帰って」
「帰りたいっていうんだったら止めないよ。俺が部活にどうしても行きたいない日はそうしてる」
「じゃ、じゃあ……」
右手を掲げる。彼は私の手のすぐそばに右手を近づける。
「最初はグー。じゃんけんぽん!」
「ねぇ、あれ」
「なんで山本君と帰ってきたの?」
「恵美との話聞いたんでしょ?嫌がらせ?図々しい」
「やめときな、聞こえるよ」
はい。全部聞こえてます。私は目を伏せたまま席に戻る。見たことのある黒板が消されていく。私は2回受けているけれど彼は1回目だ。申し訳ないな。
「ごめん勝っちゃって」
彼がこそっと耳打ちする。いいよとだけ言って彼を席に帰す。これ以上一緒にいたら、彼がなんて言われるか分からない。そっと柊さんを見ると、こちらを見ていた顔を背けて友達との会話に花を咲かせる。彼女に弁解をする必要など無いのかもしれない。3回目にして手に入れた彼と普通に話せる世界を、このまま手放したくない。私の中の自分勝手な欲望が、彼女が付き合っていた世界を消していく。それが誰にとって幸せで、誰にとってそうでないのかも定かでないまま。
彼の席の前に行き、挨拶をする。
彼はとまどっていた。そりゃそうだ。だってまだこの世界では私と彼は話したことがない。
「え、あ、おはよう」
私はくるりと向きを変え、トイレに直行する。
私の一番落ち着くところ。考え事をするにはもってこい。絶対誰にも邪魔されない場所、トイレの個室!
「はぁー。緊張したー」
誰もいないトイレでひとりごちる。
まずは彼に私の存在を知ってもらう。前回彼と体育館裏で会ったのは席替えのあとだ。今日その席替えが行われるから、おそらく一週間以内に彼がいじめられる場面に遭遇する。彼は前回私があの日会ったから死ななかったのだと言った。つまりそこで会わなければ彼はここで死んでいる可能性がある。まずはそこで遭遇しなければ。
一週間毎日挨拶をし続け、放課後学校に意味なく残り、ついに遭遇。今度はもっとうまく先輩二人をかわし彼の元へ行く。
「大丈夫?」
二回目なのに大丈夫でないことを分かっていながらそう聞いてしまう自分の馬鹿さにあきれながらティッシュを渡す。
「誰にも言わないで」
彼は鼻水をかんで言った。前回はまず話そうとしてくれなかったから大きな進歩だ。
「それは、約束できない」
「え……ダメだよ。次は横山さんがやられるかもしれない」
「そうだね。でもあなたが苦しむのはもっと嫌だ」
「俺は、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ。怪我させられてるんだ。私から見たら全然大丈夫じゃない。私じゃ力になれないかもしれないけど、全力で助けたいって思ってる。だから私一人じゃ無理だって思ったら、先生とか周りの大人に頼るよ」
彼は不安そうな顔をした。私は急にきまずくなる。
「ごめん頼りはないね。ひょろひょろだし、ちびだし。多分あの先輩に手出されたら一瞬でKOだよ」
あははと無理して笑って見せる。彼がさらに気まずい顔をしたので、私は顔を反対に向けた。
「でも助けたいんだ。それはほんとだよ」
我ながら恥ずかしくなってきた。
「ありがとう。なんかあったら助けてもらう」
彼が立ち上がる。よろけたので私は慌てて支える。
「大丈夫?戻らなくていいよ。帰ろう」
「荷物向こうだし、コーチも待ってるから。ありがとう」
彼はそう言って私から離れて走っていった。
次の日。私は教室のドアを開け、彼が席にいることを確認する。彼がこちらを見て目が合った。私は彼の机にまで歩いていきいつも通り挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう。ちょっと待って。あのさ、これ」
彼はそう言って飴を一つバッグから取り出した。
「ティッシュと話聞いてくれたお礼」
小さい声でそう言って私にイチゴ味の飴をくれた。
「いいよ。あんなの二・三枚だし」
私は顔がにやけるのを必死に隠して、本当はお礼を言いたいのに、口は勝手に遠慮してしまう。
「いや、何個も入ってるうちの一個だし」
彼はそう言って笑った。上がった口角の両端にへこみができる。いつもは大人っぽい顔立ちなのに、笑うと子どものようなくしゃっとした顔をする。初めて自分に向かって笑いかけてもらえた。喜びでこちらが死んでしまいそうだ。
「ありがとう。じゃあもらうね」
ぺこっとおじぎして、私は席につく。飴は私の手の中に心地よく収まり離したくない。ちょっとだけこらえきれず笑みがこぼれる。
「嬉しそうだね。」
自分の椅子のすぐ隣に柊さんが立っていた。
「飴?山本君からもらったの?」
彼女は彼を名字で呼んだ。そうか。まだ付き合う前なんだ。
「え、あ、うん」
「仲いいんだね」
笑顔で話してくれるが、どことなく怒りの感情を抱いているように聞こえて、少し焦る。
「どうだろう。私はいい人だと思ってるけど」
「ふーん。好きなの?」
「え?」
思ってもいなかった言葉が聞こえて彼女の顔を凝視する。どうやら本気でそう思っているみたいだ。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ告白されてもオッケーしない?」
「山本さんは……」
山本さんは柊さんのことが好きなんだよ。と喉まででかかった言葉を飲み込む。
「山本さんは、私のことなんか相手にしないよ」
「なにそれ。質問の答えになってないよ。告白されてもオッケーしないのかって聞いてるの」
どうして彼女が少し苛ついているのかがさっぱり分からない。とりあえず質問を頭の中で反芻させる。
「どうだろう」
「なに?どうだろうって」
私の2回目の人生じゃ聞かなかったような低い怒りを抑えた声。私は怖くてうつむく。
「もし、そんなことがありえたら、私はどう答えればいいか分からないと思う。告白とかされたこと無いし。それに私より柊さんみたいなスタイルよくて性格いい子のほうがきっと好きだよ」
「は?喧嘩売ってんの?」
彼女が私の椅子を蹴った。私はびっくりして立ち上がる。周りにいた友達が彼女を抑えた。
「ちょっと止めときなって」
「何よ。なにが私のほうが合ってるって。そんなの私が1番分かってる!」
「ちょっと……」
友達が彼女を引っ張っていって教室から出ていった。後ろにいた子が私に耳打ちをした。
「ごめんね。昨日恵美さ、山本君に振られたんだよね。だからちょっと気が立ってて」
「え!?」
私があまりに大きな声をあげたのでクラスメイトの視線が私に注がれる。
「あ、そうなんだ。全然気にしてないから」
そう言って椅子を戻し座る。その友達が離れると視界の端に彼が見えた。彼が私のほうを見ている。なんとなく気まずい。前の席の友達に話しかけられ、彼の視線が私から逸れる。安心する。誰にも気にかけられないほうが安心できるなんて、おかしいだろうか。
すぐに授業が始まったが、もちろん数学の問題なんて解いている暇ではない。彼と柊さんが結ばれない。どうして変わってしまっているんだろう。私はその関係を変えた覚えはない。どの選択がそれにつながったんだろう。でも多分柊さんとの仲は確実に悪くなった。はっきり分かったのは、前の人生で彼女が私と仲良くしていたのは、私が2人の関係を脅かす存在では無かったからだということだ。今は確実に敵対視されている。同等な人間なはずないのに。
私は大きくため息をついた。
「おい。横山。そんなにでかいため息をついてどうした。この問題の答えは?わからないのか?」
全く。耳に残るいやにうるさい野太い声だ。この授業も何度目だと思ってるんだ。そんなに聞いてほしいならもっと面白い授業をしろ。いや、そんなことより柊さんだ。彼女との関係が悪くなったということはイベントの日。2人で話していて彼が死ぬ瞬間を見逃すという可能性は大きく減る。今の関係のままでいけば、本番彼を行かせないか、あるいは止められるかも知れない。
「どうした。そんなに難しい顔をして。お前の頭ならそんな難しい問題じゃないだろ」
「何言ってるんですか!人生に関わる大問題ですよ!」
なんなのよ。あっ。
血の気がひいていく感覚はこういうのを言うんだろう。一気に全身が冷たくなった。先生はあまりの衝撃にチョークを落とし、クラスメイトの全員の視線を私は奪った。私はもう教室にいられなくなり、教室を飛び出した。無理。帰りたい。死にたい。
屋上に行く階段の踊り場。屋上は閉鎖されているから誰もこない。そこで私はへなへなと座り込んだ。やってしまった。思い出すだけで恥ずかしくて顔から火がでそうだ。逃げる時に一瞬見た彼の顔は変人を見る目にすら見えた。あぁなんだ。安心して、柊さん。彼は私に興味なんかありません。振られたのは他にきっと理由があるの。何かは知らないけど、何かがあったの。もうそれしか言えない。
目から水が出て、頬を伝う感覚がある。私は右手でそれを拭った。拭っても拭っても、瞬きをするたびに溢れてくる。上を向いていると涙が伝う感覚が気持ち悪くて、うつむいて膝と膝の間に顔をうずめる。そうするとそのまま涙は地面に落ちていった。このまま溢れ続けたらいつか水たまりができて、池になって、川になって、海にならないだろうか。そこに私は落ちていって死ぬのだ。彼と同じ道をたどる。それは苦しいんだろうか。それとも死にたいと思うほど辛いことがあったあとなら、死ぬことはそれほど辛くないんだろうか。心が死ぬのと、体が死ぬのと、どちらが辛いんだろうか。死ぬとは、なんなんだろうか。
「よ……さん。横山さん!」
カタカタと階段を上がる音がする。私は顔を上げるのが嫌で俯いたままでいる。
「横山さん!」
彼が私の肩を揺すった。私は恐る恐る顔を上げる。泣いたのがバレるのが嫌で涙の跡をこすった。
「あぁよかった。死んだかと思った」
あまりに突拍子も無い言葉で私は唖然として、泣いたのを隠すのも忘れて彼の顔を凝視する。
「なんで?」
「なんでって。横山さん、急に飛び出していったきり、2時間も帰ってこないから」
「2時間!?」
腕時計を見る。確かに今11時過ぎだ。朝一の授業で飛び出したから、ばっちり2時間目の授業をサボったことになる。
「今3時間目じゃん。なんでここにいるの?」
「探しに来たんだよ。さっきの休み時間に柊さんに聞いたんだ。俺が振ったこと言ったんだって。ほら。柊さん振られると思ってなかったからショックだったみたいで。ごめんな。面倒なことに巻き込んで」
「こっちこそごめん。授業サボらせて。すぐ帰るから。先帰ってて」
「帰りにくいでしょ。一緒に帰るよ」
彼はほらと言って立ち上がって私を見下ろした。私は教室に帰りたくなくて立ち上がれない。
「じゃあじゃんけんして俺が勝ったら行こう。横山さんが勝ったら、保健室行って体調悪いってことにして帰らせてもらおう」
「いいの?帰って」
「帰りたいっていうんだったら止めないよ。俺が部活にどうしても行きたいない日はそうしてる」
「じゃ、じゃあ……」
右手を掲げる。彼は私の手のすぐそばに右手を近づける。
「最初はグー。じゃんけんぽん!」
「ねぇ、あれ」
「なんで山本君と帰ってきたの?」
「恵美との話聞いたんでしょ?嫌がらせ?図々しい」
「やめときな、聞こえるよ」
はい。全部聞こえてます。私は目を伏せたまま席に戻る。見たことのある黒板が消されていく。私は2回受けているけれど彼は1回目だ。申し訳ないな。
「ごめん勝っちゃって」
彼がこそっと耳打ちする。いいよとだけ言って彼を席に帰す。これ以上一緒にいたら、彼がなんて言われるか分からない。そっと柊さんを見ると、こちらを見ていた顔を背けて友達との会話に花を咲かせる。彼女に弁解をする必要など無いのかもしれない。3回目にして手に入れた彼と普通に話せる世界を、このまま手放したくない。私の中の自分勝手な欲望が、彼女が付き合っていた世界を消していく。それが誰にとって幸せで、誰にとってそうでないのかも定かでないまま。
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