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8、夜月1
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「夜月が近くにいるわ」
突然の来客の後は暇な時間が続き、ゆっくりと昼食を終えて手持無沙汰にしていたところ、突然はっとしたように篝がそう伝えて来た。
「本当か?」
「うん、私も夜月ちゃんの気配を感じるよー」
妖刀二振り共が残る一振りの気配を伝えてきたのなら、まず間違いはないだろう。
「ようやく来たか……」
明久は立ち上がって、居間に飾ってあった刀を手にする。
篝や初音によれば、妖刀夜月は三姉妹の中で一番手ごわいとのことだった。自然緊張の色が明久の表情に出ていた。
「ちょっと。近くにいるとはいったけど、今すぐ来たりはしないわよ、きっと」
「……日が落ちた頃に闇討ちしてくるということか?」
「うーん、そうじゃなくて……あの子は……」
篝が困ったように言いよどんだ。傍らにいた初音が篝の代わりとばかりに口を開く。
「あのね、夜月ちゃんちょっと方向音痴なの」
「……ほ、方向音痴だと?」
「うん、夜月ちゃんにそう言うと方向音痴じゃなくて迷いやすい体質なだけだって怒ってくるけどね」
「まさか、お互いに気配が分かりながら、今日までここにこれなかったのは……それが原因なのか?」
「かもしれないね」
明久は少し頭を抱えたくなった。稀代の妖刀がそんなに間が抜けているなどありえるのだろうか。
「まあようやくここまで近くに来れたんだから、今日中にはこの家にやってくるわよ、多分」
自信なさげに篝が言った。
「いっそのこと、こちらから夜月の所に行ってみるのはどうだ?」
「あー……止めた方がいいと思うけど? こっちから近づいていったら、あっちもこっちに近づこうとして変にすれ違いが起こると思うわ」
「……そこまでひどいのか?」
「一度道を覚えたらあまり迷わないんだけどね。初めて行く所だとどうしても迷うみたい」
「……お前たちがしきりに夜月はやってくると行って俺に探索させなかったのは、これが原因だったのだな」
「まあね、夜月は私たちが居る所に絶対やってくるはずだから、変にうろちょろするよりも一つの場所でじっとしているほうがいいのよ。いくらあの子でも、目的の方向さえ分かってたらそのうちたどりつけるはずだもん」
明久は溜息をついて刀を元の位置に戻した。
「ゆっくり待つしかないか……」
妖刀夜月が近くに居ようと、彼女がなんとかここまでやってくるまでどれほど時間がかかるか分からない。今は待つほかなかった。
居間にいるよりも庭の前の縁側で待つ方がいいだろうと判断し、明久は縁側に腰掛けた。初音と篝も明久の後に続いた。
時刻はようやく一時を回りだした頃。焦りは禁物と思いながらも、明久の精神は高ぶっていた。
しかしその高ぶりを翻弄されるように、夜月は一向にこない。一時間、二時間と経ち、温かい気候に思わず眠気を感じてしまう。
そのまま時間が過ぎていき、空が朱に染まり始めた頃。ふと気配を感じて、明久はおもむろに塀の上を見た。
塀の上に少女が立っている。その姿をしっかり見ようとして目を細めた時には、少女は庭に飛び降りていた。
「初音、篝、探しましたよ」
現れたのは、金色の目が印象的な少女だった。年頃や身長は初音や篝と同じくらいだが、纏っている空気が二人とは違う。
小柄な体躯に金色の目。長い髪を三つ編みにして右肩より前に出した少女の姿は、どこかこの世のものとは思えない。
「夜月!」
篝がその少女を見て大きな声をあげた。
彼女こそが妖刀の三本目、夜月。少女らしさにあふれる初音や篝と違い、夜月の纏う雰囲気は抜き身の刀剣が発する冷気に酷似している。
「……そこの男は?」
夜月の金色の目にじろりとにらまれ、思わず明久は生唾を飲み込んだ。
「お前が、妖刀夜月……か?」
「……なるほど」
夜月は明久、そして篝と初音の三人を見比べた後、溜息をついた。
「あなたたち、この男に負けたのですね。情けない」
「なっ!? ま、負けてなんかいないわよ! ちょ、ちょっと実力を認めてあげただけなんだから!」
「私は負けちゃったけどねー」
「……まあ、いいでしょう。見たところその男、それなりに剣を使えるようですから、あなたたちが遅れを取るのも無理はありません」
冷たい夜月の言葉を聞いて、篝はふん、と顔を背けた。
「あいかわらずの物言いね……本当、変わらないんだから」
「ええ、私は変わりません。あなたたちは少し変わったようですね。人間相手に、よく懐いているように見えます」
「い、犬か猫みたいに言わないでよっ!」
「ふふ……似たようなものでしょう」
「似てないわよっ! 初音もなんか言い返しなさい!」
「犬か猫で言うと私が犬で篝ちゃんが猫だよねー」
「なんの話よ!」
「そういう所は変わりませんね」
夜月は呆れたように笑みを漏らした。
「しかし遊んでいる暇はありません。我らの目的、忘れた訳ではないでしょう?」
「当然よ。だから私たちはここにいるの」
「……彼が、そうだと?」
夜月がわずかに視線を動かし、明久を見る。射抜くような視線だった。
明久は篝の含んだ言葉にピンとこなかったが、どうも夜月には思う所があったらしい。
「人間など、信用できるとは思えませんが……」
憮然と呟く夜月を前にして、明久は一歩進んだ。
「すまないが、積もる話は後にしてくれないか?」
「……私と斬り合うつもりですか? 人間」
「できれば、このまま大人しく収集されてくれれば助かるんだがな……そうはいかないんだろう?」
「当然でしょう。初音と篝を縛るあなたを見捨てる理由はありません」
戦意を高める妖刀夜月を前にして、明久は少しばかり緊張の汗をかいた。
「ちょっと明久、気をつけなさいよ。夜月は……強いわ」
「……俺の心配をしているのか?」
「……べつにしてない。明久が怪我してもあたしには関係ないもの」
篝は拗ねるように顔を背ける。明久はそれを見て、わずかに迷いをみせながら篝に言った。
「篝、お前を使わせてくれないか?」
「……え、あ、あたしを?」
「ああ、お前との斬り合いでもう分かっている。妖刀がなければ夜月とは勝負にもならない」
「は、初音じゃなくてあたしでいいの?」
「夜月と戦う時は、初音ではなくお前を手にして戦いたいと決めていた」
「あ……ぅ……」
また篝は顔を背けた。今度は赤くなる顔を隠す様に。
篝を手にして戦いたい。それは明久の本音だった。
そもそも篝との斬り合いで、普通の刀ではまず相手にならないことが分かっている。ならば妖刀を用いなければ尋常な戦いの場に立つことすらできないのだ。
篝を手にして戦おうと考えたのは、あるいは逃避に近い行動だったのかもしれない。
彼女との斬り合いは明久にとって死をも覚悟するギリギリのものだった。そんな彼女を手にすれば、今よりも自分の実力が上がるような……自然と心の片隅でそう思っていたとしても、否定はできない。
「そこまで言うなら分かったわよ……あんたに使われてあげる」
篝が明久の左手に触れ、ほんの一瞬、その体が光子になったように淡く輝いた。次の瞬間には篝の姿はなく、明久の左手には刀が握られていた。
妖刀篝である。明久はゆっくりと鯉口を切って、篝を抜き払った。
抜き身となった妖刀篝は、姉妹剣だけあって初音と似た意匠だった。
素朴な波紋に飾り気のない柄。しかしどこか彼女の気の強さを表現しているのか、反りが薄い。
本来の刀の姿になった妖刀篝の柄をしっかりと握る。やはり初音と同じく手に馴染むようだった。
「篝、その男に味方するのですか。存外その男を気に入っている様ですね」
『そんなことないわよ!』
突然どこからか篝の大声が響いた。どうやら本来の妖刀の姿になっていても、声を出すことはできるようだ。
「普通の刀ならともかく、篝を手にして戦うつもりならば……私も、手加減することはできません」
夜月の手が宙に掲げられる。ほんの瞬き一つの時間に、その手には抜き身の刀が握られていた。
彼女が握る刀こそが彼女の本体、妖刀夜月。初音や篝と同じく似た意匠ではあるが、やはり細部や纏う雰囲気がどことなく違う。
刀というものが持つ冷気が刀身から溢れている様で、明久はどこか寒気を覚えた。
その寒気を跳ねのける様に、やや大きな動作で八双に構える。
夜月は明久の構えを見て、冷たい微笑みを浮かべていた。
「……どうぞ、いつでも」
夕日が空を赤く彩る中、静かで冷ややかな真剣勝負が始まった。
夜月は、その手に握った刀をだらりと下げている。構えていない……のではなく、これは無構えとも呼ばれるものだった。
最初はあえて構えを見せず、相手の出方に合わせて柔軟に剣形を変化させ、相手の動きに乗じて勝つ。いわばカウンター狙いと言ってもいい構えだが、そう言葉に表すよりもこの構えは奥が深い。
無構えはそうそう簡単に扱えるものではない。それをこうも自然にできる夜月の実力は……明久の背をうすら寒くさせるものだった。
――こいつ、二人よりも明らかに強い……!
心中の警戒をあらわす様に、明久は八双に構えた刀身をわずかに後ろに寝かせた。
「……ふふ、なるほど」
真剣を持って互いに向かい合えば、自然と互いの実力が伝わり合うというもの。明久は夜月の実力に歯を噛みしめ、夜月は薄く笑った。
この時点で、すでに勝敗は決しているようなものであった。篝の言った通り、夜月は明久よりも頭一つ強い。明久自身そんな印象を持っていた。
それでもなお、彼の構えに一切の迷いは無く、じわりじわりと距離を詰めていく。
強い者が勝ち、弱い者が負ける。剣と剣の勝負が常にそのような単純な結果に収まるというのならば、どうして不敗を貫いた過去の強者たちが剣豪、あるいは剣聖と崇められる事だろうか。
真剣勝負とはしょせん水物である。身体能力や技量に劣る者が勝利を得るのは珍しいことではない。
まだ刃を一度も交わしていないのだから、敗北を受け入れるなどありえないことだった。
――勝負の要因は、見切り合い、か……。
夜月の技量を考えると、うかつな進退は即敗北につながる。思慮のない一刀を打ち放つことはできない。
夜月との斬り合いは激しく切り結ぶものではなく、静かな湖面にわずかに浮かぶ波紋を察知し合うようなものだと明久はとらえていた。
つまりは、相手が動く機をとらえてこちらが先に斬る。先の先と呼ばれるものである。
もし互いに動きを見せなければ、気力が尽きて大きな隙を見せた方が負けるのである。
夜月の構えは変わらず無構えのまま。曇りない月のように澄んでいる。身動き一つせず、じわりと近づいてくる明久の動きを注視していた。
――初音や篝の時のような寸止めは自殺行為だな。
この一刀を振るう時は、相手の骨肉と命を確実に断つ気概が必要不可欠である、と明久は心を改めた。
そうしなければ、まず敗北は避けられない。今瞳に映る少女の姿を忘れ、あの姿は仮初のものとしてとらえるのだ。
そう、あの姿は本体である妖刀からしたら影のようなもの。それを斬ったからと言って本体になんの影響もない。ならば、斬れ。斬るべきだ。
自分に言い聞かせるように、明久は心の中で何度もそう反芻した。斬る。斬るのだ。あの少女……あの仮初の肉体を、斬る。
じわりじわりと近づく明久の足が止まった。ここが間合いの際。体格に優れる明久は夜月より射程距離が長い。つまりこの距離は明久の間合いであり、夜月の間合いは外れている。
この間合いからならば、先に明久が斬りに行くことができるのだ。
しかし明久が一歩踏み込んで斬りにいけば、必然その体は前に出て夜月の間合いとなる。明久が動く機を夜月がとらえられたなら、一歩踏み込む明久の未来位置を予測し鋭く小さい一刀を放って彼を斬ることができる。
この間合い。明久が有利なのは揺らぎないが、その有利を覆すことができることを決して忘れてはいけない。
明久と夜月の目が絡み合う。真剣勝負で目の付け所というのは重要な要素である。目は口ほどに物を言うということわざがあらわす様に、相手の目の動きでそれなりに動きを予測できるのだ。
しばし硬直するように二人は立ち止まっていた。
攻め入る機が見いだせない。隙の無い相手に先に斬りかかっては、応じ技の餌食になるだけである。ここは耐えるしかなかった。
この緊迫した状況。どちらかが隙を出さなければ、体力が続く限り睨みあったままだろう。
あるいは……外的な要因で斬りに行く好機が発生するかどうかである。
……明久と夜月を照らしていた夕暮れの光が、消えていく。どうやら太陽が雲の中に隠れたようだ。
頬に汗が伝う。空は光を失って、地を暗くしている。目を凝らして、明久は夜月を見つめ続けた。
その時、雲の切れ目から顔を出した太陽の光が、地を照らした。夕暮れの光が溢れる。夜月の顔を照らす。明久の刃がはしった。
同時に、夜月の一刀もはしっていた。初動はほぼ互角。ならば勝負の決め手は剣速にかかっている。
薄い時間。明久の一刀の方がわずかに速かった。夜月の一刀が明久を斬るよりも早く、彼の一刀が夜月の細い肩に到達しようとしていた。
刃が夜月の肩に食い込む……その瞬間。
「……ぐっ!」
「……っ!?」
明久は苦々しげに口元を歪めて一刀を寸止めし、夜月は驚きに目を開いた。
だが、夜月の刃は止まらない。
瞬き一つの時間。鈍い音が辺りに響いた。その音に遅れて、明久はうめき声をあげていた。
「……私の勝ちですね」
「ぐ……! あ、ぁ……!」
激痛のあまり、明久は倒れ込んでいた。夜月の放った一刀は、明久の左肩口に食い込んだのだ。
しかしその肩は斬られてはいない。夜月は刀が到達する瞬間に柄を握る左手をひねり、咄嗟に刃を裏返しみねうちにしたのだ。
「明久っ!」
人の姿になった篝と初音が、慌てて明久にかけよった。打たれた肩がみねうちだったことを知って、二人はほっと息を吐いていた。
「それにしても愚かな人間ですね……なぜ刃を止めたのです? あのまま私の肩から斬っていれば、おそらく相打ちだったでしょうに……」
見下ろしてくる夜月に、返す言葉はなかった。激痛で舌がうまく回らない。喉からせり上がってくるのは苦悶に満ちたうめきだけだった。
「みねうちにしたのは、あなたの愚かさを哀れに思ったからだと知りなさい。あのままあなたを斬っていたら、気分が悪いですからね」
「ぐっ……ぁっ……!」
激痛に蒼白になる明久の顔を見て、夜月は刀を消して初音たちに視線を合わせた。
「初音、篝、行きますよ」
「……い、行きますよ、じゃないわよ! なにしてるのよあんた!」
「……な、なにを怒っているのです」
篝に怒声を浴びせられ、夜月はめんくらっていた。
「夜月ちゃんひどいよっ! 途中で剣を止められたでしょ!?」
「え……そ、それは確かに。で、でも、止める理由などないじゃないですか」
「あるよ! 夜月ちゃんの鬼畜!」
「き、鬼畜……!?」
篝どころか初音にまできつく睨まれ、夜月の冷静な表情が曇った。なぜ怒られているのか理解できないと言った風だ。
「あ、あなたたち、なんだというのです。そんな男を心配して……」
言葉の途中で篝のきつい目線を受けて、夜月はばつが悪そうに眼を逸らした。
「と、とにかくお家に運ばなきゃだよね?」
「そうね。多分肩折れてる……っていうか砕けてると思うし、何かしら手当はしてあげないと……う、こいつ細く見える癖に結構重いわね……」
夜月に目もくれず明久の体を抱き上げた二人は、おぼつかない足取りで縁側から屋内へ入ろうとしていた。
「あの、二人とも……」
「ちょっと夜月! あんたも手伝いなさい!」
「は? な、なぜ私が……」
「いいから早く!」
篝に怒られて、夜月はしぶしぶ明久の肩を担いだ。
「いいですか二人とも。この人間を助けてなんになるというのです。人間などを信用しても……」
「ああもう、うるさいわよ夜月!」
「黙ってお兄ちゃん運ぼうよ夜月ちゃん」
「……な、なんなんですか、もう……」
しょんぼりと肩を落としながら、妖刀三振りは仲良く気を失った明久を運んでいった。
突然の来客の後は暇な時間が続き、ゆっくりと昼食を終えて手持無沙汰にしていたところ、突然はっとしたように篝がそう伝えて来た。
「本当か?」
「うん、私も夜月ちゃんの気配を感じるよー」
妖刀二振り共が残る一振りの気配を伝えてきたのなら、まず間違いはないだろう。
「ようやく来たか……」
明久は立ち上がって、居間に飾ってあった刀を手にする。
篝や初音によれば、妖刀夜月は三姉妹の中で一番手ごわいとのことだった。自然緊張の色が明久の表情に出ていた。
「ちょっと。近くにいるとはいったけど、今すぐ来たりはしないわよ、きっと」
「……日が落ちた頃に闇討ちしてくるということか?」
「うーん、そうじゃなくて……あの子は……」
篝が困ったように言いよどんだ。傍らにいた初音が篝の代わりとばかりに口を開く。
「あのね、夜月ちゃんちょっと方向音痴なの」
「……ほ、方向音痴だと?」
「うん、夜月ちゃんにそう言うと方向音痴じゃなくて迷いやすい体質なだけだって怒ってくるけどね」
「まさか、お互いに気配が分かりながら、今日までここにこれなかったのは……それが原因なのか?」
「かもしれないね」
明久は少し頭を抱えたくなった。稀代の妖刀がそんなに間が抜けているなどありえるのだろうか。
「まあようやくここまで近くに来れたんだから、今日中にはこの家にやってくるわよ、多分」
自信なさげに篝が言った。
「いっそのこと、こちらから夜月の所に行ってみるのはどうだ?」
「あー……止めた方がいいと思うけど? こっちから近づいていったら、あっちもこっちに近づこうとして変にすれ違いが起こると思うわ」
「……そこまでひどいのか?」
「一度道を覚えたらあまり迷わないんだけどね。初めて行く所だとどうしても迷うみたい」
「……お前たちがしきりに夜月はやってくると行って俺に探索させなかったのは、これが原因だったのだな」
「まあね、夜月は私たちが居る所に絶対やってくるはずだから、変にうろちょろするよりも一つの場所でじっとしているほうがいいのよ。いくらあの子でも、目的の方向さえ分かってたらそのうちたどりつけるはずだもん」
明久は溜息をついて刀を元の位置に戻した。
「ゆっくり待つしかないか……」
妖刀夜月が近くに居ようと、彼女がなんとかここまでやってくるまでどれほど時間がかかるか分からない。今は待つほかなかった。
居間にいるよりも庭の前の縁側で待つ方がいいだろうと判断し、明久は縁側に腰掛けた。初音と篝も明久の後に続いた。
時刻はようやく一時を回りだした頃。焦りは禁物と思いながらも、明久の精神は高ぶっていた。
しかしその高ぶりを翻弄されるように、夜月は一向にこない。一時間、二時間と経ち、温かい気候に思わず眠気を感じてしまう。
そのまま時間が過ぎていき、空が朱に染まり始めた頃。ふと気配を感じて、明久はおもむろに塀の上を見た。
塀の上に少女が立っている。その姿をしっかり見ようとして目を細めた時には、少女は庭に飛び降りていた。
「初音、篝、探しましたよ」
現れたのは、金色の目が印象的な少女だった。年頃や身長は初音や篝と同じくらいだが、纏っている空気が二人とは違う。
小柄な体躯に金色の目。長い髪を三つ編みにして右肩より前に出した少女の姿は、どこかこの世のものとは思えない。
「夜月!」
篝がその少女を見て大きな声をあげた。
彼女こそが妖刀の三本目、夜月。少女らしさにあふれる初音や篝と違い、夜月の纏う雰囲気は抜き身の刀剣が発する冷気に酷似している。
「……そこの男は?」
夜月の金色の目にじろりとにらまれ、思わず明久は生唾を飲み込んだ。
「お前が、妖刀夜月……か?」
「……なるほど」
夜月は明久、そして篝と初音の三人を見比べた後、溜息をついた。
「あなたたち、この男に負けたのですね。情けない」
「なっ!? ま、負けてなんかいないわよ! ちょ、ちょっと実力を認めてあげただけなんだから!」
「私は負けちゃったけどねー」
「……まあ、いいでしょう。見たところその男、それなりに剣を使えるようですから、あなたたちが遅れを取るのも無理はありません」
冷たい夜月の言葉を聞いて、篝はふん、と顔を背けた。
「あいかわらずの物言いね……本当、変わらないんだから」
「ええ、私は変わりません。あなたたちは少し変わったようですね。人間相手に、よく懐いているように見えます」
「い、犬か猫みたいに言わないでよっ!」
「ふふ……似たようなものでしょう」
「似てないわよっ! 初音もなんか言い返しなさい!」
「犬か猫で言うと私が犬で篝ちゃんが猫だよねー」
「なんの話よ!」
「そういう所は変わりませんね」
夜月は呆れたように笑みを漏らした。
「しかし遊んでいる暇はありません。我らの目的、忘れた訳ではないでしょう?」
「当然よ。だから私たちはここにいるの」
「……彼が、そうだと?」
夜月がわずかに視線を動かし、明久を見る。射抜くような視線だった。
明久は篝の含んだ言葉にピンとこなかったが、どうも夜月には思う所があったらしい。
「人間など、信用できるとは思えませんが……」
憮然と呟く夜月を前にして、明久は一歩進んだ。
「すまないが、積もる話は後にしてくれないか?」
「……私と斬り合うつもりですか? 人間」
「できれば、このまま大人しく収集されてくれれば助かるんだがな……そうはいかないんだろう?」
「当然でしょう。初音と篝を縛るあなたを見捨てる理由はありません」
戦意を高める妖刀夜月を前にして、明久は少しばかり緊張の汗をかいた。
「ちょっと明久、気をつけなさいよ。夜月は……強いわ」
「……俺の心配をしているのか?」
「……べつにしてない。明久が怪我してもあたしには関係ないもの」
篝は拗ねるように顔を背ける。明久はそれを見て、わずかに迷いをみせながら篝に言った。
「篝、お前を使わせてくれないか?」
「……え、あ、あたしを?」
「ああ、お前との斬り合いでもう分かっている。妖刀がなければ夜月とは勝負にもならない」
「は、初音じゃなくてあたしでいいの?」
「夜月と戦う時は、初音ではなくお前を手にして戦いたいと決めていた」
「あ……ぅ……」
また篝は顔を背けた。今度は赤くなる顔を隠す様に。
篝を手にして戦いたい。それは明久の本音だった。
そもそも篝との斬り合いで、普通の刀ではまず相手にならないことが分かっている。ならば妖刀を用いなければ尋常な戦いの場に立つことすらできないのだ。
篝を手にして戦おうと考えたのは、あるいは逃避に近い行動だったのかもしれない。
彼女との斬り合いは明久にとって死をも覚悟するギリギリのものだった。そんな彼女を手にすれば、今よりも自分の実力が上がるような……自然と心の片隅でそう思っていたとしても、否定はできない。
「そこまで言うなら分かったわよ……あんたに使われてあげる」
篝が明久の左手に触れ、ほんの一瞬、その体が光子になったように淡く輝いた。次の瞬間には篝の姿はなく、明久の左手には刀が握られていた。
妖刀篝である。明久はゆっくりと鯉口を切って、篝を抜き払った。
抜き身となった妖刀篝は、姉妹剣だけあって初音と似た意匠だった。
素朴な波紋に飾り気のない柄。しかしどこか彼女の気の強さを表現しているのか、反りが薄い。
本来の刀の姿になった妖刀篝の柄をしっかりと握る。やはり初音と同じく手に馴染むようだった。
「篝、その男に味方するのですか。存外その男を気に入っている様ですね」
『そんなことないわよ!』
突然どこからか篝の大声が響いた。どうやら本来の妖刀の姿になっていても、声を出すことはできるようだ。
「普通の刀ならともかく、篝を手にして戦うつもりならば……私も、手加減することはできません」
夜月の手が宙に掲げられる。ほんの瞬き一つの時間に、その手には抜き身の刀が握られていた。
彼女が握る刀こそが彼女の本体、妖刀夜月。初音や篝と同じく似た意匠ではあるが、やはり細部や纏う雰囲気がどことなく違う。
刀というものが持つ冷気が刀身から溢れている様で、明久はどこか寒気を覚えた。
その寒気を跳ねのける様に、やや大きな動作で八双に構える。
夜月は明久の構えを見て、冷たい微笑みを浮かべていた。
「……どうぞ、いつでも」
夕日が空を赤く彩る中、静かで冷ややかな真剣勝負が始まった。
夜月は、その手に握った刀をだらりと下げている。構えていない……のではなく、これは無構えとも呼ばれるものだった。
最初はあえて構えを見せず、相手の出方に合わせて柔軟に剣形を変化させ、相手の動きに乗じて勝つ。いわばカウンター狙いと言ってもいい構えだが、そう言葉に表すよりもこの構えは奥が深い。
無構えはそうそう簡単に扱えるものではない。それをこうも自然にできる夜月の実力は……明久の背をうすら寒くさせるものだった。
――こいつ、二人よりも明らかに強い……!
心中の警戒をあらわす様に、明久は八双に構えた刀身をわずかに後ろに寝かせた。
「……ふふ、なるほど」
真剣を持って互いに向かい合えば、自然と互いの実力が伝わり合うというもの。明久は夜月の実力に歯を噛みしめ、夜月は薄く笑った。
この時点で、すでに勝敗は決しているようなものであった。篝の言った通り、夜月は明久よりも頭一つ強い。明久自身そんな印象を持っていた。
それでもなお、彼の構えに一切の迷いは無く、じわりじわりと距離を詰めていく。
強い者が勝ち、弱い者が負ける。剣と剣の勝負が常にそのような単純な結果に収まるというのならば、どうして不敗を貫いた過去の強者たちが剣豪、あるいは剣聖と崇められる事だろうか。
真剣勝負とはしょせん水物である。身体能力や技量に劣る者が勝利を得るのは珍しいことではない。
まだ刃を一度も交わしていないのだから、敗北を受け入れるなどありえないことだった。
――勝負の要因は、見切り合い、か……。
夜月の技量を考えると、うかつな進退は即敗北につながる。思慮のない一刀を打ち放つことはできない。
夜月との斬り合いは激しく切り結ぶものではなく、静かな湖面にわずかに浮かぶ波紋を察知し合うようなものだと明久はとらえていた。
つまりは、相手が動く機をとらえてこちらが先に斬る。先の先と呼ばれるものである。
もし互いに動きを見せなければ、気力が尽きて大きな隙を見せた方が負けるのである。
夜月の構えは変わらず無構えのまま。曇りない月のように澄んでいる。身動き一つせず、じわりと近づいてくる明久の動きを注視していた。
――初音や篝の時のような寸止めは自殺行為だな。
この一刀を振るう時は、相手の骨肉と命を確実に断つ気概が必要不可欠である、と明久は心を改めた。
そうしなければ、まず敗北は避けられない。今瞳に映る少女の姿を忘れ、あの姿は仮初のものとしてとらえるのだ。
そう、あの姿は本体である妖刀からしたら影のようなもの。それを斬ったからと言って本体になんの影響もない。ならば、斬れ。斬るべきだ。
自分に言い聞かせるように、明久は心の中で何度もそう反芻した。斬る。斬るのだ。あの少女……あの仮初の肉体を、斬る。
じわりじわりと近づく明久の足が止まった。ここが間合いの際。体格に優れる明久は夜月より射程距離が長い。つまりこの距離は明久の間合いであり、夜月の間合いは外れている。
この間合いからならば、先に明久が斬りに行くことができるのだ。
しかし明久が一歩踏み込んで斬りにいけば、必然その体は前に出て夜月の間合いとなる。明久が動く機を夜月がとらえられたなら、一歩踏み込む明久の未来位置を予測し鋭く小さい一刀を放って彼を斬ることができる。
この間合い。明久が有利なのは揺らぎないが、その有利を覆すことができることを決して忘れてはいけない。
明久と夜月の目が絡み合う。真剣勝負で目の付け所というのは重要な要素である。目は口ほどに物を言うということわざがあらわす様に、相手の目の動きでそれなりに動きを予測できるのだ。
しばし硬直するように二人は立ち止まっていた。
攻め入る機が見いだせない。隙の無い相手に先に斬りかかっては、応じ技の餌食になるだけである。ここは耐えるしかなかった。
この緊迫した状況。どちらかが隙を出さなければ、体力が続く限り睨みあったままだろう。
あるいは……外的な要因で斬りに行く好機が発生するかどうかである。
……明久と夜月を照らしていた夕暮れの光が、消えていく。どうやら太陽が雲の中に隠れたようだ。
頬に汗が伝う。空は光を失って、地を暗くしている。目を凝らして、明久は夜月を見つめ続けた。
その時、雲の切れ目から顔を出した太陽の光が、地を照らした。夕暮れの光が溢れる。夜月の顔を照らす。明久の刃がはしった。
同時に、夜月の一刀もはしっていた。初動はほぼ互角。ならば勝負の決め手は剣速にかかっている。
薄い時間。明久の一刀の方がわずかに速かった。夜月の一刀が明久を斬るよりも早く、彼の一刀が夜月の細い肩に到達しようとしていた。
刃が夜月の肩に食い込む……その瞬間。
「……ぐっ!」
「……っ!?」
明久は苦々しげに口元を歪めて一刀を寸止めし、夜月は驚きに目を開いた。
だが、夜月の刃は止まらない。
瞬き一つの時間。鈍い音が辺りに響いた。その音に遅れて、明久はうめき声をあげていた。
「……私の勝ちですね」
「ぐ……! あ、ぁ……!」
激痛のあまり、明久は倒れ込んでいた。夜月の放った一刀は、明久の左肩口に食い込んだのだ。
しかしその肩は斬られてはいない。夜月は刀が到達する瞬間に柄を握る左手をひねり、咄嗟に刃を裏返しみねうちにしたのだ。
「明久っ!」
人の姿になった篝と初音が、慌てて明久にかけよった。打たれた肩がみねうちだったことを知って、二人はほっと息を吐いていた。
「それにしても愚かな人間ですね……なぜ刃を止めたのです? あのまま私の肩から斬っていれば、おそらく相打ちだったでしょうに……」
見下ろしてくる夜月に、返す言葉はなかった。激痛で舌がうまく回らない。喉からせり上がってくるのは苦悶に満ちたうめきだけだった。
「みねうちにしたのは、あなたの愚かさを哀れに思ったからだと知りなさい。あのままあなたを斬っていたら、気分が悪いですからね」
「ぐっ……ぁっ……!」
激痛に蒼白になる明久の顔を見て、夜月は刀を消して初音たちに視線を合わせた。
「初音、篝、行きますよ」
「……い、行きますよ、じゃないわよ! なにしてるのよあんた!」
「……な、なにを怒っているのです」
篝に怒声を浴びせられ、夜月はめんくらっていた。
「夜月ちゃんひどいよっ! 途中で剣を止められたでしょ!?」
「え……そ、それは確かに。で、でも、止める理由などないじゃないですか」
「あるよ! 夜月ちゃんの鬼畜!」
「き、鬼畜……!?」
篝どころか初音にまできつく睨まれ、夜月の冷静な表情が曇った。なぜ怒られているのか理解できないと言った風だ。
「あ、あなたたち、なんだというのです。そんな男を心配して……」
言葉の途中で篝のきつい目線を受けて、夜月はばつが悪そうに眼を逸らした。
「と、とにかくお家に運ばなきゃだよね?」
「そうね。多分肩折れてる……っていうか砕けてると思うし、何かしら手当はしてあげないと……う、こいつ細く見える癖に結構重いわね……」
夜月に目もくれず明久の体を抱き上げた二人は、おぼつかない足取りで縁側から屋内へ入ろうとしていた。
「あの、二人とも……」
「ちょっと夜月! あんたも手伝いなさい!」
「は? な、なぜ私が……」
「いいから早く!」
篝に怒られて、夜月はしぶしぶ明久の肩を担いだ。
「いいですか二人とも。この人間を助けてなんになるというのです。人間などを信用しても……」
「ああもう、うるさいわよ夜月!」
「黙ってお兄ちゃん運ぼうよ夜月ちゃん」
「……な、なんなんですか、もう……」
しょんぼりと肩を落としながら、妖刀三振りは仲良く気を失った明久を運んでいった。
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