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after the rain

fourth color

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「お、ようやく相手の男は結婚する気になったか」


 お昼のときに、同じ総務課の先輩女性社員にそんなことを言われて、天音アマネは内心でぎくりとした。
「え」
「あんな、彼氏彼女の延長みたいな指輪でいつまでもいるもんだから…。 よかった」
「昨日の有給だって、ご実家に挨拶にでも行ってたんじゃないのー? それ、婚約指輪?」


 目ざとい人とはどこにでもいるものだ。
 あからさまに安堵する和泉イズミ先輩と、どこかからかいを含んだ様子の箕作ミツクリ先輩に、内心でひやひやしている天音は、もしかすると笑顔が引くついているかもしれない。


「一応、婚約指輪だと、言ってもらいました、けど」
 相手がサカキ課長だとばれたら、大事おおごとになる。 だから、天音は言葉を濁した。


 その反応を、迷いと受け取ったのだろうか。
 和泉先輩は、少しだけ心配そうな顔になった。
「ちゃんと家事してくれるひとと結婚した方がいいよ、でないと箕作先輩みたいになるから」
「和泉、あなた、時短社員を馬鹿にしているの?」
 ばちばちと先輩二人の間に火花が散っているように見えて、天音はおろおろとする。 というか、おろおろとすることしかできない。
 かと思えば、箕作先輩の矛先が天音に向いた。


「で、間宮マミヤちゃんの彼氏は、家事とかしてくれるひと?」
 天音は、少し考えて、答える。
「…料理は苦手って言ってました。 でも、掃除は得意みたいです」
 そうすれば、箕作先輩の目がギラリと光った。
「人生の先輩として忠告しておいてあげる。 今から仕込んでおいた方がいいわよ。 まだ間に合うわ」
「は…はぁ…」
 天音が曖昧に返事をしていると、和泉先輩が気だるそうに頭の後ろに片手をやって首を捻るような動作をする。


「でも、逆に男が出来過ぎても嫌じゃないです? 榊課長みたいに」


 和泉先輩の言葉に、天音は目を瞬かせた。
「え」
「榊君って、料理できるの? っていうか、なんで知ってるのよ」
 天音が口を開くより先に箕作先輩が口を開いて、天音の心情を代弁してくれた。


「うちの上の姉が、学生時代、榊課長と同じサークルだったらしいんですけど、榊課長、カレーとかスパイスから作っちゃうくらい本格派らしくて、女子どん引きだったっていうwww」
 和泉先輩は、「え~、榊課長? なんでもできて胡散臭くないっすかぁ? 完璧すぎてあたしは好みじゃないです」と断言するだけあり、語尾には草まで生えている。 割と辛辣だ。


 凌士リョウジさんより年上で、つまりは凌士さんの先輩でもある箕作先輩は、何か思い出したのか楽しそうに微笑んで、頷いた。
「あ、でも、榊君らしい。 凝り性っぽいものね」
「榊課長の奥さんて、そういうの気にならないひとなんでしょうね。 バリキャリって噂じゃないですか?」
「そうなのよねぇ、扶養している配偶者や親族はいないとなると、相手も働いているってことだものねぇ」
 その辺は、完全に凌士さんの作戦勝ちというかカムフラージュな指輪の効果である。
 箕作先輩と和泉先輩は、凌士さんの架空の妻についてあれこれと妄想談義に花を咲かせているようだが、天音はもう、それどころではなかった。


 凌士さんは、天音に嘘をついたのか?
 凌士さんがなんでもかんでもできることによって、天音が、プレッシャーを感じないように?
 どうして、気づかなかったのだろう。 確かに、あの朝、凌士さんが用意してくれた朝食は美味しかったというのに。



 凌士さんがなんでもかんでもできること、というよりも、凌士さんに気を遣わせたことが気になって、天音はスマホを手にベッドの上で悩んでいた。
 連絡を、すべきだろうか、と思うけれど、何をどう言ったものかわからない。 もともと天音はまめなほうではないし、人付き合いは苦手なほうだという自覚もある。
 頭を悩ませてスマホと睨めっこしていると、手の中のスマホがぶるるっと震え、画面にぱっと【凌士さん】の文字が出た。 慌てて天音は電話に出る。


「あ、もしもし、天音です」
『ごめん、寝てた?』
 慌てて電話に出たために、声が上擦ったのを、凌士さんは寝起きと勘違いしたようだった。
 電話越しなのだから、そんなことをしても無意味なのだが、天音はベッドの上でぴっと背を正しててを振って否定していた。
「え、あの、どうかされましたか?」
『…いや、声が聴きたくて』


 意外な言葉に、天音が目を丸くしていると、耳元で大好きな声が吐息と苦笑い交じりに揺れる。
『一人で眠るのがこんなに寂しいものだったなんてね』


 ぎゅう、とまた胸が苦しくなる。
 電話なのが、勿体ないと、本気で思った。


 今、凌士さんは電話の向こうでどんな顔をして、今の言葉を語っていたのだろう。
 どんな瞬間も見逃したくない。 どうして、今、自分は凌士さんと同じ空間にいないのだろう。
 そんなことを思ったけれど、言葉にはしなかった。 きっと、凌士さんを困らせる。


『困らせた?』
 考えていた言葉が、自分の耳に届いて、天音はハッとする。
 こんな偶然ですら、何か運命めいたもののように思えてしまうのだから、可笑しくて、天音は笑った。
「いえ」


 昨日まで、凌士さんのお家でだらだらいちゃいちゃと過ごしていたからだろうか。 寂しいのは、天音も一緒だ。
 自分でも驚くほどすんなりと、その問いは口をついて出た。
「あの…、また、今週末、お泊まりしてもいいですか?」


 凌士さんが先に「寂しい」という単語を口にしてくれていなかったら、きっと昨日まで一緒にいたのにこんなことを言うなんて重いと思われないだろうか、とか色々と気にして、聞けなかったように思う。


『金曜日の夜?』
「ご迷惑でなければ」
 問われて、ほとんど反射で答えていた。


 本当は、土曜日の午前中にでもお邪魔するつもりだったのだけれど、そのように凌士さんが捉えたなら、それでいいと思った。
 一日でも早く会いたいのは、天音も一緒だ。 それが、凌士さんの迷惑にならないのであれば。
 そうすれば、天音の耳に、微笑むような音が聞こえた。 次いで、落ち着いた、柔らかな声が囁く。
『迷惑だなんて。 おいで。 なるべく早く帰るから』
「はい」
 天音も、笑顔でひとつ、頷いた。



 ・・・・・・・



「いらっしゃい」
 シンプルなシャツとジーンズという、これまたラフな格好の凌士さんに出迎えられて、天音はほっと安堵した。
「お邪魔します」
 靴を脱いで上がると、凌士さんが天音の荷物を受け取って持ってくれる。
 そして、天音を見てきた。
「抱きしめて、いいかな?」
「え」
 唐突に問われて、天音は思わず赤面したが、凌士さんの表情は冗談を言っているようには全く見えなかった。
 だから、頷く。
「…はい」


 ふわり、と凌士さんのにおいがした、と思った次の瞬間には、ぬくもりに強く抱きしめられる。
 それが嬉しくて心地よくて、凌士さんの胸に思わず頬擦りしそうになったところで、天音はハッと我に返って顔を上げる。
「あの、お夕飯、は」
「そういえば、お腹空いたね。 家にあるもので何か、和風の物、できるかな? 天音が得意な物でいいよ」
 荷物を椅子に置かせてもらって、手を洗い、エプロンをつけた天音は冷蔵庫の中を確認させてもらう。


 玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。 それから挽肉と卵。 ハンバーグ、ミートボール、カレー…、目の前の材料でできる天音のレパートリーは少ないうえ、和風ではない。 なんちゃって和風な創作料理ならできそうだけれど…。 そう考えて、天音はあることを思い出した。


「あの、凌士さん、カレー、得意なんですか?」
 天音が凌士さんを振り返りながら問うと、凌士さんは目を見張っていた。
 この反応は、イエスかノーか、どちらだろう。 判別がつかない天音は、もう一押しすることにした。


「一緒に作って、教えてもらえませんか?」
 そうすれば、凌士さんがますます驚いたような表情になるものだから、何かまずいことを言ったのだろうかと天音は内心でひやひやだ。
 だが、凌士さんは軽く肩を落として、すっと視線を天音から流した。
「天音は、俺が料理できるの嫌じゃない?」


 これもまた、天音にとっては意外な問いで、天音は目を瞬かせる。
「え? たまに作ってもらえると嬉しいですし、わたしも頑張ろうって思います。 だって、凌士さんの好きな味がつくれたら、凌士さんに喜んでもらえそうだし」
 自然と笑顔になりながら言えば、凌士さんはしばし天音を見つめた後、ぽつぽつと語り始めた。
「…洋食は、それなりに。 実は、パスタマシンもあるくらい。 母が、イタリアンが好きで、自然とね。 凝り性なのは血筋みたいだ」


 パスタマシンがあるって、それなりにのレベルではないのではないだろうか。
 天音がそんな風に考えていると、凌士さんは視線を天音に向ける。
「だからかな、和食には結構、憧れがあって…。 天音が作ってくれたら、嬉しいと思った」
「…はい」
 どこか、腑に落ちた思いで、天音は頷いた。


 凌士さんの言った、和食が食べたいは、自分が普段作らないから、の意味か、と。
 天音の実家から帰った日の外食も、高級割烹のようなところだった。 御作りと天ぷらの、『THE・和食』というようなお料理を提供するお店で、天音はひたすらに恐縮してしまった。
 凌士さん曰く、「たまにしか来ないけど、気に入ってる。 誰かに教えたのも、一緒に来たのも、天音が初めて」ということだった。


「お母様、お料理上手だったんですね」
「おしゃれな料理ばかりだったけどね。 美味しかったよ。 でも、グリルとかローストばかりで、家でフライを食べた覚えはないな。 だから、そう。 フライとか唐揚げも好きかも」
 凌士さんが、フライを好きなんて意外だ。


 でも、お母様も何となくだがきっとおしゃれさんだろうから、ついさっき凌士さんが言ったように作るのはおしゃれなお料理ばかりだったのだろう。 凌士さんは和食もだけれど、育ち盛りの中高生が好むようながっつりメニューや庶民的な料理も好きなのかもしれない。


「母は、キッチンが汚れるのが嫌、とか言ってね。 掃除が苦手な人だったんだ。 だから、天音も掃除が苦手と聞いて、縁を感じたよ」
 そこまで言って、凌士さんはハッとしたようだった。
 その顔が、罰が悪そうな、天音の様子をうかがうようなものになるので、天音は凌士さんを見返すしかない。


「母の話、嫌だったかな?」
 そのように問われて、天音は何となくだが、思い至る。
 凌士さんは、天音と天音の前の彼氏であり婚約者が、どうして駄目になったかを知っている。 だから、きっと、天音が凌士さんのお母様の話を快く思わないだろうと思ったのだろう。
 けれど、凌士さんの心配するようなことは全くなく、先の話を聞いていられたので、天音は無理をしているわけではなく首を横に振ることができた。 
「いえ」
 それでも凌士さんが、どこか気まずそうな様子なので、天音は脈絡があるようでない話でいろいろと紛らわそうとした。


「お母さんが苦手な食べ物ってあまり食卓に上がりませんよね。 わたしの母はにんじん苦手で、カレーのにんじんはいつもイチョウ切りだったんです。 だから、給食のにんじんがごろごろなのがすごく不思議で」
「天音」
 凌士さんに呼ばれて、天音は一度言葉を切り、凌士さんを見た。


 凌士さんは、微笑んでいた。 少し照れたような、それから、安堵したような微笑みだった。
「ありがとう」
 ちゅっと音を立てる、親愛を示すような軽いキスを頬にくれたかと思えば、凌士さんも手を洗い始める。 天音がその様子を見つめていると、凌士さんは手を洗いながら天音に微笑みかけてくれた。
「じゃあ、今夜はカレーにしようか」

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