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石に花咲く
40.
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時は、六時間ほど前に遡る。
殿下がシィーファ嬢を連れて寝室に姿を消したので、ウーアはセネウを探し始めた。
セネウは、夕食の準備を始めたらしく、厨房にいた。
とんとんとんとん、と規則的な刻み音が聞こえるので、セネウは包丁を握って野菜の下ごしらえでもしているのだろう。
「セネウ」
その、セネウの後ろ姿に、ウーアが声を掛けると、包丁の規則的な刻み音がピタリと止んだ。
ことり、と一度包丁を置いたセネウが、前掛けで手を拭きながら振り返る。
「何を怒っているの?」
白々しい台詞を吐いたセネウに、ウーアは苛立ちを禁じえない。
だから、つかつかと厨房に立ち入って、セネウの前に立つ。
「私を怒らせるようなことをした自覚があるのか?」
低く、静かに問う。
セネウがぎくりとしたところを見ると、ウーアが何に苛立っているのか、きちんと自覚があるということなのだろう。
だから、ウーアは容赦なく切り込んだ。
「シィーファ様が、出ていかれるのを、見過ごしただろう」
ぎゅっと唇を噛んだセネウが、ふいと目を逸らす。
やはり、セネウはシィーファ嬢が屋敷を出ていくのを知っていて、何も言わずに行かせたのだろう。
「セネウ」
ウーアの口からは、叱責に近い声が出た。
表情だって、いつもよりも厳しくなっていると思う。
ここで殊勝な態度に出れば可愛げがあるものの、セネウは逆切れをして、開き直るのだ。
「商売女のひとりやふたり、いなくなったところで、何も変わらないでしょう」
腕組みをしたかと思うと、強気な口調で吐き捨てた。
だが、顔はふいと横をむいたままだから、多少、悪いことをしている、言っている自覚はあるのだろう。
だから、ウーアは、セネウにとっては酷だろうことを、わざと口にするのだ。
「お前は、殿下にとってのシィーファ様が、ただの【商売女】だと思うのか?」
セネウが、息を呑んだ気配がした。
ウーアは、その反応に眉間に皺を寄せる。
セネウだって、わかっているはずだ。
殿下にとってのシィーファ嬢が、【商売女】などではないことは。
「思わないから、見て見ぬふりをしたんだろう」
責めるような、言い方になったことは否めない。
セネウは、ぎゅっと唇を噛んで、前掛けに皺が寄るほどに、ぎゅっと握りしめた。
それを見て、ウーアは、人知れず溜息をつく。
実はウーアは、殿下にこの逃避行の計画を打ち明けられたときに、ご忠告申し上げたのだ。
セネウを、連れて行かない方がいいのではないか、と。
あのとき、ウーアの一存で、全ての責めをウーアが負うことにして、セネウに正確な場所を教えなければよかった。
そう思ったからこそ、唇からは大きな溜息が漏れてしまった。
はああ、という大きな溜息を、セネウの耳が聞き逃すはずもない。
ものすごい勢いでウーアに向き直ったかと思うと、挑むような、睨みつけるような視線をウーアに向けて、くわっと口を開いた。
「ウーア兄にはわからないわよ! 大好きなひとと恋人同士になって、らぶらぶいちゃいちゃできてるウーア兄には!」
「らっ…!? いっ…!!?」
まさか、今、そのことを指摘されるとは思わなくて、ウーアは狼狽した。
目を白黒させて、口を無意味に動かすしかない。
火が付いたらしいセネウは、地団駄でも踏みそうな勢い、あるいはその場で飛び跳ねそうな勢いで喚き散らしている。
「だって、だって、『少しの間身を隠すから、ついてきてくれる?』なんて言われたら、ワンチャンあるかもって思うじゃない!!」
言い終えて、はーっはーっと肩で息をしていたセネウだったが、ぴたりと動きを止める。
今度は何が起きるのか、とはらはらしていると、セネウは下唇をぐっと噛んで、大粒の涙をその目からぼろぼろっ…と零す。
癇癪持ちの子どものようだと思ったら、いきなり情緒不安定だ。
追い詰めたのは自分とはいえ、なんと声をかけたらいいものかと思案していると、セネウがまたつんざくような叫び声をあげた。
「…シンデレラ・ストーリー、私にもあるかもって思うじゃないぃぃぃ!!」
そのまま、セネウはわんわんと泣き始める。
今度はこっそりと、ウーアは溜息をついた。
セネウはずっと、自分たちを買って、奴隷から人間にしてくれた殿下に、恋心を抱いていたのだ。
妻になりたいとか、愛人になりたいとか、遊びでもいいからとか、一夜の相手でもいいからとか、そういう具体的なものではなかった気がする。
王子様への憧れ、と表現するのが、一番近いかもしれない。
だが、王子様には、どこぞのお姫様がいるものだと、皆知っている。
殿下は向けられる好意に鈍い部分がある。
明確に言うのなら、恋愛を含んだ好意と、含まない好意の見極めができない、と表現すべきだろう。
色恋事からは、徹底的に距離を置かされてきた、殿下だ。
恋愛経験値はほぼゼロと言って差し支えない。
それなのに、殿下はもともとの性質なのか、誰に対しても穏やかで優しく振舞うので、相手に妙な気を持たせてしまうことがある。
殿下を擁護するわけではないが、セネウが恋愛対象として殿下を見ているなど、殿下は想像もしなかったのだろう。
ワンチャンあるかも、シンデレラ・ストーリーあるかも、と言いつつ、恐らく、それはその時点では、セネウの妄想というか、夢物語でしかなかったはずだ。
また、殿下が連れてきたのが、年若いどこぞの御令嬢だったり、姫君だったりしたら、セネウは敵視することなく、殿下の【お相手】として、受け容れたのだと思う。
だが、殿下が連れてきたのは、どこぞの御令嬢でも、姫君でもなく、殿下よりも年上だという【石女の一族】の女性だった。
どうして、彼女はよくて、私は駄目なのか。
どうして、私じゃなくて、彼女なのか。
そんな風に、思考が働くようになってしまったのだろう。
だが、それは、誰が悪いわけでもない。
「…惚れた相手がまずかったと、諦めなさい」
泣きじゃくるセネウに、ウーアが言えることはそれだけだ。
「それから、シィーファ様に嫌がらせをするのも、やめなさい。 お前がシィーファ様にぶつけている言葉は、そのままお前に返る言葉だとは、思わないのか?」
諫めながらも、泣かせてやろう、と思う。
今ならば、殿下に気づかれることもないはずだ。
殿下がシィーファ嬢を連れて寝室に姿を消したので、ウーアはセネウを探し始めた。
セネウは、夕食の準備を始めたらしく、厨房にいた。
とんとんとんとん、と規則的な刻み音が聞こえるので、セネウは包丁を握って野菜の下ごしらえでもしているのだろう。
「セネウ」
その、セネウの後ろ姿に、ウーアが声を掛けると、包丁の規則的な刻み音がピタリと止んだ。
ことり、と一度包丁を置いたセネウが、前掛けで手を拭きながら振り返る。
「何を怒っているの?」
白々しい台詞を吐いたセネウに、ウーアは苛立ちを禁じえない。
だから、つかつかと厨房に立ち入って、セネウの前に立つ。
「私を怒らせるようなことをした自覚があるのか?」
低く、静かに問う。
セネウがぎくりとしたところを見ると、ウーアが何に苛立っているのか、きちんと自覚があるということなのだろう。
だから、ウーアは容赦なく切り込んだ。
「シィーファ様が、出ていかれるのを、見過ごしただろう」
ぎゅっと唇を噛んだセネウが、ふいと目を逸らす。
やはり、セネウはシィーファ嬢が屋敷を出ていくのを知っていて、何も言わずに行かせたのだろう。
「セネウ」
ウーアの口からは、叱責に近い声が出た。
表情だって、いつもよりも厳しくなっていると思う。
ここで殊勝な態度に出れば可愛げがあるものの、セネウは逆切れをして、開き直るのだ。
「商売女のひとりやふたり、いなくなったところで、何も変わらないでしょう」
腕組みをしたかと思うと、強気な口調で吐き捨てた。
だが、顔はふいと横をむいたままだから、多少、悪いことをしている、言っている自覚はあるのだろう。
だから、ウーアは、セネウにとっては酷だろうことを、わざと口にするのだ。
「お前は、殿下にとってのシィーファ様が、ただの【商売女】だと思うのか?」
セネウが、息を呑んだ気配がした。
ウーアは、その反応に眉間に皺を寄せる。
セネウだって、わかっているはずだ。
殿下にとってのシィーファ嬢が、【商売女】などではないことは。
「思わないから、見て見ぬふりをしたんだろう」
責めるような、言い方になったことは否めない。
セネウは、ぎゅっと唇を噛んで、前掛けに皺が寄るほどに、ぎゅっと握りしめた。
それを見て、ウーアは、人知れず溜息をつく。
実はウーアは、殿下にこの逃避行の計画を打ち明けられたときに、ご忠告申し上げたのだ。
セネウを、連れて行かない方がいいのではないか、と。
あのとき、ウーアの一存で、全ての責めをウーアが負うことにして、セネウに正確な場所を教えなければよかった。
そう思ったからこそ、唇からは大きな溜息が漏れてしまった。
はああ、という大きな溜息を、セネウの耳が聞き逃すはずもない。
ものすごい勢いでウーアに向き直ったかと思うと、挑むような、睨みつけるような視線をウーアに向けて、くわっと口を開いた。
「ウーア兄にはわからないわよ! 大好きなひとと恋人同士になって、らぶらぶいちゃいちゃできてるウーア兄には!」
「らっ…!? いっ…!!?」
まさか、今、そのことを指摘されるとは思わなくて、ウーアは狼狽した。
目を白黒させて、口を無意味に動かすしかない。
火が付いたらしいセネウは、地団駄でも踏みそうな勢い、あるいはその場で飛び跳ねそうな勢いで喚き散らしている。
「だって、だって、『少しの間身を隠すから、ついてきてくれる?』なんて言われたら、ワンチャンあるかもって思うじゃない!!」
言い終えて、はーっはーっと肩で息をしていたセネウだったが、ぴたりと動きを止める。
今度は何が起きるのか、とはらはらしていると、セネウは下唇をぐっと噛んで、大粒の涙をその目からぼろぼろっ…と零す。
癇癪持ちの子どものようだと思ったら、いきなり情緒不安定だ。
追い詰めたのは自分とはいえ、なんと声をかけたらいいものかと思案していると、セネウがまたつんざくような叫び声をあげた。
「…シンデレラ・ストーリー、私にもあるかもって思うじゃないぃぃぃ!!」
そのまま、セネウはわんわんと泣き始める。
今度はこっそりと、ウーアは溜息をついた。
セネウはずっと、自分たちを買って、奴隷から人間にしてくれた殿下に、恋心を抱いていたのだ。
妻になりたいとか、愛人になりたいとか、遊びでもいいからとか、一夜の相手でもいいからとか、そういう具体的なものではなかった気がする。
王子様への憧れ、と表現するのが、一番近いかもしれない。
だが、王子様には、どこぞのお姫様がいるものだと、皆知っている。
殿下は向けられる好意に鈍い部分がある。
明確に言うのなら、恋愛を含んだ好意と、含まない好意の見極めができない、と表現すべきだろう。
色恋事からは、徹底的に距離を置かされてきた、殿下だ。
恋愛経験値はほぼゼロと言って差し支えない。
それなのに、殿下はもともとの性質なのか、誰に対しても穏やかで優しく振舞うので、相手に妙な気を持たせてしまうことがある。
殿下を擁護するわけではないが、セネウが恋愛対象として殿下を見ているなど、殿下は想像もしなかったのだろう。
ワンチャンあるかも、シンデレラ・ストーリーあるかも、と言いつつ、恐らく、それはその時点では、セネウの妄想というか、夢物語でしかなかったはずだ。
また、殿下が連れてきたのが、年若いどこぞの御令嬢だったり、姫君だったりしたら、セネウは敵視することなく、殿下の【お相手】として、受け容れたのだと思う。
だが、殿下が連れてきたのは、どこぞの御令嬢でも、姫君でもなく、殿下よりも年上だという【石女の一族】の女性だった。
どうして、彼女はよくて、私は駄目なのか。
どうして、私じゃなくて、彼女なのか。
そんな風に、思考が働くようになってしまったのだろう。
だが、それは、誰が悪いわけでもない。
「…惚れた相手がまずかったと、諦めなさい」
泣きじゃくるセネウに、ウーアが言えることはそれだけだ。
「それから、シィーファ様に嫌がらせをするのも、やめなさい。 お前がシィーファ様にぶつけている言葉は、そのままお前に返る言葉だとは、思わないのか?」
諫めながらも、泣かせてやろう、と思う。
今ならば、殿下に気づかれることもないはずだ。
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