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ノ53 底なし沼

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 中に入ろうと屋敷の正門に立った伊乃は、変貌してしまった両親のことを急に思い出し、そこから足が止まり一歩も動けずにいた。

 彼女が動けないまま暫くのあいだ門前に佇んでいると...

 金持ち風の着物を着た貫禄のある中年男が歩いて近づいて来る。

「お前さん、この屋敷になんぞ用事でもあるんかい?」

 伊乃は話し掛けてきた中年の男の顔に嫌悪感と違和感を同時に覚えた。
 顔の筋肉の動きが普通の人に比べ著しく少なかったことに加えて、喋り方も何処となく無機質で抑揚が感じられなかったからである。

「ここは十年くらい前までわたしが住んでた屋敷なんです。久しぶりに両親に会おうと思い、ふらふらと訪れた次第なのですが...」

 伊乃の話しを聞き、彼女の見窄らしい格好を改めて眺めた男が怪訝な表情になる。

「ふむ...俺は五年ほど前からこの屋敷の主になった山守勘助(やまもりかんすけ)と云うものだ。確かぁ、俺より以前の主は、商いが上手くいかずに屋敷を出て行ったと聞いているぞ」

 山守勘助と名乗る男が口にした現実は、伊乃にとって衝撃的な話しだった筈なのだが、彼女は男の話しよりも目に映る別の事象に驚いていた。

「あ、あなたは...いえ、いいのです。お話は承知しました。では、わたしの用事は無くなりましたので...」

「ん?...」

 伊乃が何かを言い掛けたことに対し、山守勘助が首を傾げたけれど、サッと彼に背中を向た彼女はその場を立ち去った。

 行く宛の無くなった彼女は村の道をゆっくりと歩き、山守勘助に見た事象について考えて呟く。

「あれはきっと怪異と呼ばれる者...もしかしたらだけれど、おっとうとおっかぁはあの怪異に喰い殺されたのかも知れない...」

 そう、屋敷の門前で山守勘助と話すあいだ、彼女の目には人に見えて人でない者がずっと映っていたのである。
 人に上手く化けたつもりの怪異の姿が...

「もう...親のことなど、いや、何もかもどうでも良いか...死に場所を探そう...」
 
 伊乃はとうとう思考することすら面倒だと感じてしまい、誰にも迷惑を掛けずに身投げ出来る場所を探して歩き続けた。

 幾許かの距離をふらり、ふらりとしながらも歩を進め、昼間なの陽の光が通らない暗い森に入り、付近に住む人々から底なし沼と恐れられる場所で足を止めた。
 
「此処なら...確実に死ねそう...」

 そう言ってドロドロに滑った底なし沼に足を踏み入れ、一歩、また一歩とゆっくり進むに連れて彼女の身体は沼の中へ深々と浸かっていった。このままいけば、彼女の全身は泥の中へ確実に埋まってしまうであろう...

 だが、自らの命を風前の灯火とさせた伊乃の目の前に、一人の美しき仙女が忽然と姿を現す。
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