上 下
10 / 396
第一章 輪廻のアルケミスト

第10話 成長の片鱗

しおりを挟む
 転生後の今の生活にも慣れ、最近は眠りが少しずつ浅くなってきたように思う。今までは昼夜問わず眠気があったが、このところは朝に目覚め、夜に眠るというサイクルに入っている。

 前世――グラス=ディメリアの記憶の中に、赤ん坊の頃の記憶は存在しない。僕が置かれていた環境から察するに、生き残っていたのは奇跡だと思えた。

 グラス=ディメリアとしての人生の最初の記憶は、汚物と異臭に塗れた薄暗い部屋の記憶だった。断片的な記憶ではあるが、それがリーフの両親であるナタルとルドラのような、穏やかな庇護下ではないだろうことは容易に想像がつく。何故なら、次に気がついた時には、路地裏でゴミを漁る生活をしていたからだ。

 冬の寒い季節だった。子供だけで身体を寄せ合って震えながら眠り、痛みで目が覚める。冬を越せない仲間はたくさんいた。それが『普通』だった。

 リーフとして生まれた今の人生は、グラスとして生きてきた人生の『普通』とはまるで違う。

 例えば、この家にいる限り、寒い日も暑い日もほとんど意識せずに過ごすことができる。空調魔導器と呼ばれるもので室温を管理し、室内の温度がほぼ一定に保たれているからだ。

 僕がグラスとして生きていた時代では、寒い日には魔法で火をおこし、暖炉に火を焼べていたが、ナタルもルドラも暖炉は使わない。生まれてすぐの頃は暖炉があったが、いつの間にか使われなくなっていた。二人の会話で耳にしたが、空調魔導器に入れ替えたのは、僕のためを思ってのことらしい。

 生活の全てが、僕に合わせて動いているような印象があった。
 僕はただ寝ているだけで、両親が代わる代わる世話してくれる。
 餓えやかつえに苦しむことなどない。そもそも我慢することを、ナタルもルドラも許容しなかった。

 不思議なことに、僕が自分の状態を知らせることで、彼らは喜ぶのだ。知らせると言っても、「あー」とか「うー」しか喋ることができないわけだが、どういうわけか彼らは僕の状況や要望を正しく理解する。

 手間が増えるだろうにと思うが、その手間を喜んでいるのも理解できなかった。それを苦とも思わないのだろうというのは、目が少しずつ見えるようになって明らかになった。彼らは僕の世話をするときはいつも笑顔でいるからだ。

「少し体重が増えてきたわね、リーフ」

 今も目を覚ました僕に気づいた母が、優しく抱き上げながら嬉しそうに頬を寄せている。

「ミルクを良く飲んでくれるからかしらね、ありがとう」

 僕は欲求の一つを満たしているだけだというのに、母はそれに感謝の意を述べる。礼を言うのは僕の方で、どうにかして感謝の気持ちを伝えたいが、まだ微笑み以外の方法はない。

「あーううあ」

 毎日少しずつ唇や舌のかたちを意識しながら発声を試してみるが、思うような成果は得られない。だが、それで通じるようで母は満足げに僕の頭をそっと撫でてくれる。

「いいこね、リーフ。とってもいいこよ」

 優しくて甘い匂いのする母にそう言われながら抱かれていると、奇妙なまでの安堵を覚える。こんな感覚は、グラスとしての人生では経験したことがなかったものだ。

『そうね。今度は良い環境に生まれるように計らうから、あの酷い人生と比べたらかなりいい感じになるんじゃないかな。まあ、幸福だとかなんとか感じられるかは、それを知らないあんたには難しいかもしれないけど』

 不意に、フォルトナの言葉が脳裏を過った。
 確かにあの女神の言う通りなのかもしれない。僕はグラスとしての自分の人生を幸福だと思ったことがない。幸福というものを知らなかったから、こういう世界があることを知らなかった。

 かつて所属していた錬金術学会には、自分の周りにいた人物も似たような人間が集まっていた。自分が成功するために、研究成果を盗むことも厭わない、嫉妬と欲望が渦巻いていたあの世界に嫌気が差し、僕は学会を離脱し、一人で生きる道を選んだ。

 ナタルとルドラからはそうしたものをまるで感じない。
 彼らは自分を愛しみ、無条件に愛しているように見える。

 ――それさえも、僕を欺くための手段なのか?

 忌まわしい養父の記憶が蘇り、僕は油断しきっていた自分を諫めた。だが、それでも両親が僕をなにかの『材料』にしようとしているなどということは、全く想像がつかなかった。それだけ二人は献身的に赤ん坊の僕を世話しているのだ。

 ――一体なんのために?

 考え込んでいるうちに、底なし沼に沈むような白昼夢を見たかのような感覚があった。冷たい汗が背を濡らすような感覚にちいさく身体を震わせた。

「リーフ」

 呼びかけられてはっと気づく。母は僕を抱き上げたまま、手を伸ばし、口の中に指を突っ込んだ。

 ――嫌だ!

 身をよじったが上手くいかない。

「あー、あーう!」

 口を塞がれ、息の根を止められそうになったあの養父と重なり、恐怖で声を上げたが、ナタルは微笑んだままだった。

「ごめんね、嫌だったかしら?」

 指先が歯列をそっとなぞり、それだけで終わった。

「最近お喋りが上手になったから、歯が生えてくるのかなって思ったのよ」
「あー……」

 僕をあやすように揺らしながら、母が申し訳なさそうに眉を下げる。心からホッとすると同時に、ずっと気づいていなかった違和感を覚えて舌を動かした。言われてみれば、確かに歯が生えていない。

 母音はなんとか発音できるが、他が難しいのは、もしかして歯がないせいだろうか……。そのせいだとすれば、歯が生えれば多少は喋られるようになるのかもしれない。

「あー、あーう?」

 ナタルの口許に手を伸ばし、歯がいつ頃生えるのかを聞いてみる。当然質問の体を成していないのだが、やはり彼女には不思議と通じるらしく、微笑んで口を開いてくれた。

「歯茎がかたくなり始めているから、もう少ししたら離乳食を始めるわよ。美味しいものをたくさん食べられるように、準備しておくからね」

 なるほど、歯が生えればミルク以外のものを与えられるようだ。礼代わりに微笑むと、母は僕を高く抱き上げて微笑み返した。

「ふふっ。ご近所のクリフォートさんに、お料理を教わらなくちゃ」
「そうそう。クリフォートさんのお嬢さんもあなたと同い年なのよ。今度、一緒に遊びましょうね」

 そう言えばこの家から出たことがなかったが、どういう場所に建っているのだろう? 家そのものの全貌もわかっていないが、外の世界にも興味が湧いた。

 近所にクリフォートという名の家があるらしいので、少なくともこの家が孤立した場所にあるわけではないようだ。
 ルドラが軍人だということを考えると、それなりの街と考えるのが妥当かもしれない。

「ただいま、ナタル。ただいま、リーフ。今日はお土産があるぞ」

 ぼんやりと考えていると、ルドラが帰ってきた。

「まあ、どうしたの?」

 視界がぼんやりしていて良く見えないが、ルドラが大荷物を抱えているのはわかる。母が自分を抱いたまま近づいたので、荷物の内訳を知ることができた。

「部下から出産祝いをもらったのだよ。玩具や本もある。……こっちの文字盤は、早期教育用の新作玩具らしい。リーフには少し早いかな?」
「そうね。お喋りの方が早いはずだし……」

 いや、それがあればかなり意思疎通が楽になる。危うく片付けられそうになる文字盤がほしいのだと、身振り手振りでアピールした。

「ん? これが欲しいのか、リーフ?」
「あーっ、あっ!」

 父が気づいて文字盤をこちらに示す。

「これに興味を示すとは、将来有望だな」

 近づけられた文字盤をじっくりと眺める。文字盤には僕も知っている基本となる文字と、喜怒哀楽の感情を示す絵や記号などが書いてあった。言語だけではなく、使用している文字もグラス=ディメリアの知識が活かせそうで安堵した。

「どうだ? まだちょっと難しいか?」
「あーう!」

 そんなことはないと、手のひらで『喜』の絵を叩いてみせると、ルドラとナタルが揃って驚きの声を上げた

「今のを見たか、ナタル! この子は天才だぞ!」
「ふふふ、きっとそうね」

 僕の反応を偶然と見ているのか、母の反応は父よりは落ち着いていた。

「そうか! 嬉しいのか、リーフ!」

 もっと意思疎通を図りたいところだが、先ほどの反応を見るに、言葉を操るのはまだ早そうだ。
 僕はとりあえず笑って誤魔化すと、文字盤をばんばんと叩き、はしゃいでいる素振りを見せた。

「気に入ってくれたようだな」
「リーフったら、離そうとしないわ」
「子供用に角も丸く削ってある、好きに持たせてやりなさい。指先を使う練習にもなるだろうからね」
「そうしましょうね、リーフ」

 僕は『喜』の絵を叩き、文字盤を引き寄せる。重くて自力では持てそうになかったが、母は気をつかって文字盤と一緒にベッドに寝かせてくれた。

 寝返りは打てないので、漸く動かせるようになった首を動かし、横目で文字盤を眺める。文字と絵が対応している文字盤を眺めているうちに、これを扱うことのできる子供の知能が推測できた。

 今はまだ赤ん坊だが、この先も子供らしくコミュニケーションを取るというのは、かなり難儀なのかもしれない。

 どこかで『普通』の赤ん坊を参考にできると良いのだが……。

しおりを挟む
感想 166

あなたにおすすめの小説

引きこもり転生エルフ、仕方なく旅に出る

Greis
ファンタジー
旧題:引きこもり転生エルフ、強制的に旅に出される ・2021/10/29 第14回ファンタジー小説大賞 奨励賞 こちらの賞をアルファポリス様から頂く事が出来ました。 実家暮らし、25歳のぽっちゃり会社員の俺は、日ごろの不摂生がたたり、読書中に死亡。転生先は、剣と魔法の世界の一種族、エルフだ。一分一秒も無駄にできない前世に比べると、だいぶのんびりしている今世の生活の方が、自分に合っていた。次第に、兄や姉、友人などが、見分のために外に出ていくのを見送る俺を、心配しだす両親や師匠たち。そしてついに、(強制的に)旅に出ることになりました。 ※のんびり進むので、戦闘に関しては、話数が進んでからになりますので、ご注意ください。

異世界王女に転生したけど、貧乏生活から脱出できるのか

片上尚
ファンタジー
海の事故で命を落とした山田陽子は、女神ロミア様に頼まれて魔法がある世界のとある国、ファルメディアの第三王女アリスティアに転生! 悠々自適の贅沢王女生活やイケメン王子との結婚、もしくは現代知識で無双チートを夢見て目覚めてみると、待っていたのは3食草粥生活でした… アリスティアは現代知識を使って自国を豊かにできるのか? 痩せっぽっちの王女様奮闘記。

異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~

宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。 転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。 良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。 例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。 けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。 同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。 彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!? ※小説家になろう様にも掲載しています。

上流階級はダンジョンマスター!?そんな世界で僕は下克上なんて求めません!!

まったりー
ファンタジー
転生した主人公は、平民でありながらダンジョンを作る力を持って生まれ、その力を持った者の定めとなる貴族入りが確定します。 ですが主人公は、普通の暮らしを目指し目立たない様振る舞いますが、ダンジョンを作る事しか出来ない能力な為、奮闘してしまいます。

辺境領主は大貴族に成り上がる! チート知識でのびのび領地経営します

潮ノ海月@書籍発売中
ファンタジー
旧題:転生貴族の領地経営~チート知識を活用して、辺境領主は成り上がる! トールデント帝国と国境を接していたフレンハイム子爵領の領主バルトハイドは、突如、侵攻を開始した帝国軍から領地を守るためにルッセン砦で迎撃に向かうが、守り切れず戦死してしまう。 領主バルトハイドが戦争で死亡した事で、唯一の後継者であったアクスが跡目を継ぐことになってしまう。 アクスの前世は日本人であり、争いごとが極端に苦手であったが、領民を守るために立ち上がることを決意する。 だが、兵士の証言からしてラッセル砦を陥落させた帝国軍の数は10倍以上であることが明らかになってしまう 完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。 果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!? これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。

対人恐怖症は異世界でも下を向きがち

こう7
ファンタジー
円堂 康太(えんどう こうた)は、小学生時代のトラウマから対人恐怖症に陥っていた。学校にほとんど行かず、最大移動距離は200m先のコンビニ。 そんな彼は、とある事故をきっかけに神様と出会う。 そして、過保護な神様は異世界フィルロードで生きてもらうために多くの力を与える。 人と極力関わりたくない彼を、老若男女のフラグさん達がじわじわと近づいてくる。 容赦なく迫ってくるフラグさん。 康太は回避するのか、それとも受け入れて前へと進むのか。 なるべく間隔を空けず更新しようと思います! よかったら、読んでください

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!

みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した! 転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!! 前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。 とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。 森で調合師して暮らすこと! ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが… 無理そうです…… 更に隣で笑う幼なじみが気になります… 完結済みです。 なろう様にも掲載しています。 副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。 エピローグで完結です。 番外編になります。 ※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

秘密多め令嬢の自由でデンジャラスな生活〜魔力0、超虚弱体質、たまに白い獣で大冒険して、溺愛されてる話

嵐華子
ファンタジー
【旧題】秘密の多い魔力0令嬢の自由ライフ。 【あらすじ】 イケメン魔術師一家の超虚弱体質養女は史上3人目の魔力0人間。 しかし本人はもちろん、通称、魔王と悪魔兄弟(義理家族達)は気にしない。 ついでに魔王と悪魔兄弟は王子達への雷撃も、国王と宰相の頭を燃やしても、凍らせても気にしない。 そんな一家はむしろ互いに愛情過多。 あてられた周りだけ食傷気味。 「でも魔力0だから魔法が使えないって誰が決めたの?」 なんて養女は言う。 今の所、魔法を使った事ないんですけどね。 ただし時々白い獣になって何かしらやらかしている模様。 僕呼びも含めて養女には色々秘密があるけど、令嬢の成長と共に少しずつ明らかになっていく。 一家の望みは表舞台に出る事なく家族でスローライフ……無理じゃないだろうか。 生活にも困らず、むしろ養女はやりたい事をやりたいように、自由に生きているだけで懐が潤いまくり、慰謝料も魔王達がガッポリ回収しては手渡すからか、懐は潤っている。 でもスローなライフは無理っぽい。 __そんなお話。 ※お気に入り登録、コメント、その他色々ありがとうございます。 ※他サイトでも掲載中。 ※1話1600〜2000文字くらいの、下スクロールでサクサク読めるように句読点改行しています。 ※主人公は溺愛されまくりですが、一部を除いて恋愛要素は今のところ無い模様。 ※サブも含めてタイトルのセンスは壊滅的にありません(自分的にしっくりくるまでちょくちょく変更すると思います)。

処理中です...