あのね、ハチ

さくら

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 なにがあったのかと訊かれても、二瑚にこ自身明確な答えはわからなかった。
 高校受験に備えた勉強は辛いけれど、特別な志望校があるわけでもなく、入れるところに入れればいいと思っている。だから無理などしていないし、適度に息抜きをしても、二瑚の親は煩くなにかを言ってくることはない。
 人間関係は少しだけ面倒だと思う。興味のないアイドルの名前を覚えなくてはならなかったり、それほど欲しいわけでもないストラップを御揃いで買ったりしなくてはならなかったりするからだ。
 それでも、そうすればクラスで浮くこともないし、そうしなかったからといって虐めにあうようなクラスではない。それに、それだけの努力で居心地がよくなるのだから、周りに合わせることを特別苦に思ったことはない。
(なら、この胸のざわめきはなに?)
 なに不自由のない生活を送れているのに、二瑚は時折息苦しさを感じてしまう。
 湿っぽく、けれど同時に渇ききっているようにも思える、重くどんよりとしたなにか。平穏な日々を過ごしていても、そのなにかが突如胸の中で暴れ出すと、どうしようもなく不安になるのだ。なんだか無性に苛立ったり寂しくなったりするのだ。
 その度に、平穏な日常が平穏ではなくなる。周りはなにも変わっていないのに、息が詰まり、一瞬にして世界が色あせ始め、見えるもの聞こえるもの全てが腹立たしく思え、最終的に世界が遠くなる。
 まるで銀幕に映るつまらない映画を見ているような錯覚に陥り、全てがどうでもよくなってしまう。そのまま映画を見続けていると気分が滅入り、自分もその映画に登場する一人なのだと思い出す頃には、生きていることがバカらしく思えてくる。
 なにがあったと問われても、答えなど持ち合わせていない。
 世界や自分自身の全てをつまらなく見せてどうでもよくさせてしまうそれは、二瑚の胸の中に突如現れるのだ。理由などない。ただ、二瑚は湿っているけれど渇いている、重たくどんよりしたそれを手名付けられずにいるだけだ。
 そして《奴》が暴れ出す度に、その考えがふと頭を過ぎる。
(ああ、もう死んでしまいたい)

 夏期講習からの帰り道、橋の真ん中で立ち止まった二瑚は川を見下ろした。
 午前中だけとはいえ、わざわざ制服を着て学校へ行くのは億劫だ。受験生だからとはいえ、夏休み中まで勉強をしなければならないのは流石に気が滅入る。学校にいる間はまだいい。クーラーの効いた教室にいられるのだから。
 陽光が肌に突き刺さって痛い。背後を行きかう人や車の発する物音が煩い。理由もないのに苛々する。喧騒から逃れるように、二瑚は掌で両耳を塞いだ。僅かながら外の音が遠ざかった気がした。
 さらさらと流れる穏やかな川の表面を眺めていると、つられて心も静まるような気がした。けれど気がするだけで、二瑚の胸の中では変わらず《奴》が暴れていて、苛立ちや不安を生み出している。
 きっとあの川の下も、表面ほど流れは穏やかではなく、綺麗に見える水の中には廃棄物が沈んでいるのだろう。そう思うと、二瑚はなんだか泣きたい衝動にかられた。
「死んじゃおうかな」
 呟いて、耳を塞いでいた手を柵へと伸ばす。腕に力を込めると、爪先立ちした足が僅かに宙に浮いた。
(ローファーは、脱いで揃えておくべきかな)
 ぼんやりとそんなことを思いながら、二瑚は目を瞑った。頬を風が撫でていく。真夏の生温かい風だ。鼻をつくのは自然の香りではなく、排気ガス混じりの異臭だった。
 死に場所にしては、居心地の悪い場所だと思った。
(どうせ死ぬなら、もっと綺麗な場所がいいかも)
 自分に向かって言い訳をして、二瑚は再び地面に足を下ろした。
 端から本気で死ぬつもりなどない。ただ、《奴》が胸の中で暴れている間は、この世界はつまらない映画で、二瑚はその映画の登場人物なのだ。きっとどこかに監督がいて、自分は無意識に脚本通りに動いているのだろう。
 さながら二瑚は、悲劇のヒロインだろうか。
(……バカらしい)
 自分の頭の中にのみ存在する、わけのわからない世界観。全て言い訳だ。
 おそらく、少し生きることに疲れているのだ。或いは刺激のない生活の中で退屈を持て余しているのかもしれない。だから大した理由もなく死にたくなり、けれど本当は生きていたいから、本気で死のうとは思えないのだ。
 こうして中途半端なことを繰り返す。自分はなんて我儘で贅沢で最低な人間だろう。平穏に退屈を感じるなんて。理由もなく死にたいと思うなんて。
(ほんと最低だ)
 それをわかっているからこそ、二瑚は胸の中に住む《奴》の存在を誰にも相談することができなかった。誰かに相談したところで、馬鹿げていると呆れられるか、頭のおかしい子と笑われるか、命を軽んじていると軽蔑されるか――或いは怒られるに違いないのだ。
《奴》が暴れるのをやめたのか、二瑚の心が落ち着きを取り戻し、思考が少しだけすっきりとしてきた。もう嘘でも死にたい思う気持ちは微塵もない。
 それでもまだこの場から動く気になれず、二瑚は再び柵へと寄り掛かる。
「駄目だよ、やめて!」
 突然、背後から悲鳴にも似た声が上がった。驚いて跳ねた二瑚の肩を、ほどよく筋肉質な腕が抱きしめた。
 
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