蒼天の風 祈りの剣

月代零

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第九章 少女は王宮の夢を見るか

#2

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 エディリーンが王立魔術研究院に入所して、何週間か過ぎようとしていた。ここには、十代の後半から二十歳すぎまでの若者が三十人ほど、見習いとして在籍している。教授たちや、魔術師ではない助手や下働きの者たちも含めると、数十人の大所帯になる。
 彼らは数年間の見習い期間を終えると、各々身の振り方を決める。そのまま研究院に身を置き、教授として後進を育成したり、医術師や薬草師として独立したり。中にはマナの制御の仕方を覚えたら、後は魔術とは無縁の生活を送ろうとする者も少なくない。

 ともかく入所試験はなんとか突破したエディリーンは、同年代の若者たちと切磋琢磨し合いながら青春を謳歌する――などということはなく、彼女はひたすら仏頂面で、与えられる仕事を淡々とこなしていた。こんなところとはさっさとおさらばして、元の生活に戻りたい。頭にあるのは、その一念のみだった。
 最大の懸念事項だった、フェルス帝国がエディリーンの身柄を要求してきている件は、彼女がレーヴェで正式な身分を得ていることを強調し、使者にお引き取りを願った。そして、それが嘘ではないと証明するためにも、当面は現状を維持しなければならないのだった。

 エディリーンは盛大に溜め息を吐きながら、不満を心の底に沈めつつ、それに従っていた。身を守るためにおとなしくしているなど、本来性に合わない。しかし、相手が強大な帝国では、どうしようもない。頭ではわかっているが、どうにも面白くないのだった。

 朝の仕事は、薬草園の世話の他に、掃除や洗濯などがある。それが終わると、それぞれ所属する研究室に分かれて、勤めを始める。エディリーンたちは、作業着から制服に着替えてから食堂で朝食を摂り、研究室に向かった。食事は質素なもので、庶民が食べるような硬い黒パンに、ハムやチーズといったものが並ぶ。だが、搾りたての牛乳や畑で採れたばかりの野菜が食べられるのは、贅沢と言えた。

 魔術研究院と言っても、実戦的な術の研究から、医術や薬草学、魔術の歴史など、様々な研究が行われている。魔術を扱うには、様々な知識を体系的に身に着ける必要があるが、院生たちは自分の適性や希望に合わせて研究室に所属し、その室長の下で、それぞれ道を探求していくことになる。各研究室には、五人から十人ほどの院生が身を置いている。

 ユーディトは天文学、エディリーンとクラリッサは医術や薬草学の研究室に所属していた。
 甘えん坊のクラリッサも、この時間は真剣な面持ちで研究に取り組んでいた。新しい薬の研究や、日々必要とされる薬の調合、治癒魔法の実験など、やることはたくさんある。男性中心の世界に身を置いている彼女たちだが、嫁入り先を探しているわけではないのだ。魔術師として、一人の人間としての誇りが、その瞳にはあった。

 だが、一部の男たちにはそれが理解できないようだった。彼らは、純粋に魔術を探求しようという者ばかりではない。多少マナを繰る才があるが、家督を継ぐことのできない貴族の次男以下が、とりあえずの居場所にと送り込まれてくる例も少なくない。
 当然、そういった人間は研究熱心でもなく、生まれ育った環境から離れ、身の回りのことを自分でやらないといけない生活に不満を溜めていた。そして、

「おい、ここの片付け、頼んだぞ」

 勤めが終わり、室長が退出した後、部屋の掃除や使った道具の片付けは交代で行う決まりになっている。しかし、同じ研究室のその院生は、クラリッサを使用人か何かのように扱い、自分の当番を押し付けようとしてきたのだ。黒いズボンの上に、生成り色の裾の長い衣を重ね、腰を帯で絞った揃いの制服を着ているが、それだけで足並みが揃うというものでは決してなかった。

「まあ、本日も急ぎのご用事ですか、ニコル様」
「ああ、俺は忙しいんだ」

 ニコルと呼ばれた、二十歳前くらいの少年は、横柄に言うとそのまま研究室を出ようとする。

「それは困りました。わたしも今日はこの後、約束があるのですが」

 クラリッサは困った顔で首を傾げるが、ニコルはそれを意に介さない。他の院生も口を出せず、見ないふりをしてそそくさと研究室を出ていく。
 クラリッサは諦めたように嘆息し、片付けを始めようとしたが、

「ちょっと」

 エディリーンは、ニコルの前に立ち塞がる。

「今日の当番は貴公のはずですが。人に押し付けるとは、どういった料簡です?」

 しかし、少年はそれを鼻で笑う。

「身分の低い人間が、高い者に従うのは当然だろう」
「エディリーン様……」

 クラリッサが後ろから服の裾を引くが、エディリーンは構わずニコルを睨みつける。
 クラリッサたち姉妹は、爵位も持たない下級貴族の出身らしい。対して目の前のこの少年は、確か王都から北の方のどこかに領地を持つ、コーエン男爵家の三男坊だったはずだ。だが、それは重要なことではない。これまでもニコルは、何かにつけクラリッサを下に見るような言動を繰り返していたが、今日という今日は看過できない。

「ここでは身分に関係なく、仕事は平等に行うものだと聞きましたが、違いましたか? であれば、認識の相違があっては困りますし、室長に聞いて参ります」

 言葉遣いだけは丁寧に繕っているが、顔は一切笑っていないまま、ニコルに背を向ける。途端、少年は狼狽して、エディリーンの手首を掴んで引き止めた。

「ま、待て」

 エディリーンは不快そうに振り向く。切れ長の瞳に浮かぶ鋭い眼光に射すくめられて、ニコルは一瞬狼狽するが、多少威勢が良くてもただの小娘だろうと思い直す。

「貴様、俺にそのような口を利いて、ただで済むと思っているのか」

 自分に理がないことは一応わかっているのか、ニコルの口から出た言葉はそんなものだった。
 エディリーンは、今は一応子爵家の人間だ。身分で言えば男爵家のこの男より上だが、元は生まれの卑しい平民の娘と、ニコルはエディリーンを侮っていた。ここは厳然たる身分社会、男性中心の世の中だが、大した仕事もできないくせに、身分を笠に着ることしかできないのかと、エディリーンは胸中で唾を吐く。
 そこへ、日頃ニコルとつるんでいる院生が寄ってきて、彼に耳打ちする。

「やめておけよ。この女、ユリウス殿下のお手付きらしいぞ。下手なことをすれば、どんなお咎めがあるか……」

 声を低めたつもりだろうが、エディリーンにははっきりと聞こえていた。エディリーンは怒気を露わにし、ニコルに掴まれたままだった手首を握り返すと、ぎりぎりと捻じり上げていた。そのままもう一人の少年の前にずい、と顔を寄せる。二人の少年は情けない悲鳴を上げた。

「もう一度言ってみろ。誰が誰のお手付きだって?」

 およそ貴族の令嬢のものとは思えない、凄みのある声だった。クラリッサも、少しぶっきらぼうで不愛想なだけだと思っていた友人の豹変ぶりに目を丸くしている。
 多少なりとも丁寧に繕っていた態度をかなぐり捨てたエディリーンは、瞳に殺気をたぎらせ、彼らを睨みつける。
 ユリウス王子と関わりがあるからここにいることは、事実だから否定しない。そして普通なら、王族に目をかけられているなど、喜ばしいことに違いない。だが、女を買われて贔屓されているなどと思われることは、自分の腕一つで生きてきたと自負のある彼女にとって、最大の侮辱だった。
 二人の少年は、蛇に睨まれた蛙のように竦み上がっている。しかし、暴力沙汰はご法度であるため、エディリーンもこれ以上手は出せない。既に十分にやりすぎている感はあるが。
 どうしてやろうかとエディリーンが思案していると、

「何をしているのかね?」

 そこへやってきた人物を見て、ニコルは慌ててエディリーンの手を振りほどき、姿勢を正した。騒ぎを聞きつけたのか、廊下から顔を見せたのは、院長のヴェルナー・フランだった。

「ちょうどよかった。お聞きしたいことが――」

 先刻の言葉通り、涼しい顔で事の次第を問おうとしたエディリーンだが、

「いえ、なんでもありません!」

 ニコルは大慌てで両手と首をぶんぶん横に振る。尊大な態度も、研究院の最高責任者の前ではさすがに取れないようだ。

「すぐに片付けと戸締まりをして、退室いたしますので!」
「……そうか。あまり遅くならんようにな」

 院長は訝りながらもそう言って背を向ける。

「では、わたしたちもお先に失礼いたします!」

 クラリッサはどさくさに紛れてエディリーンの手を引き、ニコルたちを残してそそくさと退室したのだった。
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