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第二章 逆光の少女
#4
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耳元で風が唸る。
空を飛ぶなんて初めての経験だった。常人では体験し得ないことだ。しかし、そこに喜びなどはなく、驚愕のうちに全てが流れ去っていく。傷の痛みさえ忘れていた。
どれくらい飛んでいたのかわからない。長い時間だったような気もするし、ほんの一瞬だったかもしれない。
「見つけたぁっ!」
少女は叫ぶと、降下を始める。下の木立の中に、一つの人影が見えた。狙撃してきた魔術師に間違いない。
腹の底がぞわぞわする。空を飛べる鳥を羨ましいと思ったこともあるが、冗談じゃない。情けない話だが、景色を楽しむ余裕も何もあったものではなかった。
魔術師もこちらの接近に気付き、驚愕と焦燥の入り混じったような表情を見せた。腕をこちらに向けて掲げると、光の矢が無数に放たれる。
少女は軌道を変えてそれを躱すと、攻撃に転じる。アーネストは着地と同時に放り投げられた。かろうじて受け身を取って衝撃を逃がすが、傷に響いた。雑な扱いに抗議したいところだが、そんな余裕もない。
少女は剣を振るい魔術師に向かっていくが、敵も逃げ足が速い。肉薄する少女を魔術で攻撃し、寸前で逃げることを繰り返している。しかし、魔術は発動するのに詠唱の隙ができる。連続して撃つことはできないようだった。
「わたしが引き付けるから、隙を見て奴を倒せ!」
アーネストに向かって叫ぶ。
「わかった!」
怪我の痛みをおして、木立の中へ身を隠す。魔術師は少女の攻撃に対処するので精一杯のようで、アーネストのことは見失ったようだ。
しかし、彼女の攻撃の勢いなら一人で倒せるのではないかと思うのだが、敵に防御魔法を駆使されると、なかなか決定打にならない。
アーネストは魔術師の移動先を予測し、上手く背後に回ることに成功した。
魔術師がこちらに近付いてくる。機会を見計らい、アーネストは木陰から飛び出した。魔術師がアーネストに気付くが、遅い。袈裟懸けに切りつけ、鮮血が飛んだ。辺りに沈黙が訪れる。
アーネストは肩で大きく息を吐いた。少女の攻撃も容赦がなく、流れ弾に当たりそうだが、上手く切り抜けることができた。
少女が草を踏み分けて近付いてくる。彼女もだいぶ呼吸が乱れていた。
「……疲れた」
ぼそりと呟いて、剣を鞘に収める。
先の暗殺者のような二人が追ってくる気配はなかった。逃げたようだ。それを確認して、アーネストも剣の露を払い、鞘に収める。
「飛べるのなら、最初からそうすればよかったのではないか?」
軽く言ってみたが、少女はじろりと厳しい視線をアーネストに向けた。
「簡単に言うな。疲れるんだからな!」
少女はすとんとその場に座り込む。少しの間息を整えていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
適当なところに移動して、野営しなければなるまい。怪我の手当もしたいところだ。
月明かりである程度周りの様子を見ることはできるが、十分ではない。少女は魔術で手の先に明かりを灯し、それを頼りに闇の中を歩く。二人は疲労の残る身体を動かして、小さな川を見つけた。
少女は枯れ枝を集めて火を熾し始めた。
野営の準備は彼女に任せることにして、アーネストは少女の視界から外れ、上着をはだけて川の水で傷口を洗い始めた。服は血で汚れており、どこかで替えを手に入れたい。そんなことを考えていると、
「見せろ」
背後から少女の声がかかった。
いちいち狼狽えるほど初心ではないが、若い女性に見てもらうのはやはり気が引ける。
「自分でできる。大丈夫だ」
「いいから見せろ。これでも多少の医術の心得はある」
少女は皮袋に水を汲むと、アーネストの肩と脇腹の傷口にざばざばとかける。十分に洗うと、薬草と清潔な布を当て、手早く巻き付けて固定した。
「ったく、こんな怪我でよく動き回ったもんだな」
少女は呆れたように言う。
「君のお陰だ。助かった」
少女はふんと鼻を鳴らす。そのまま離れようとしたが、何か思い直したのか手を止めた。
「少しじっとしてろ」
何かと思うと、少女は肩の傷に手を添え、口の中で何やらぶつぶつと唱える。すると、その指先にあたたかな光が灯り、徐々に痛みが薄らいでいった。
光が消えると、少女は大きく息を吐き出し、座り込んだ。
「……やっぱり疲れる」
「魔術とは、便利なものだな」
感嘆の声を漏らすが、少女は憮然と言い返す。
「こっちは消耗するんだからな。あまり当てにするな」
そして、ずるずると焚火の向こう側に移動すると、身体を横たえた。どうやら戦闘での直接的な疲労より、魔術を使うことの方が消耗が激しいらしい。
「ありがとう」
少女は顔を伏せたまま、何も答えない。
「ところで、一つ聞きたいのだが」
「なんだ」
少女は億劫そうに首だけ微かに動かし、視線を上げる。
「君の名前を教えてもらいたい。エドワードというのは、本名ではないのだろう?」
「…………エディリーン」
少女は面倒くさそうに短く答えた。
なるほど。では「エディ」というのは、少なくとも嘘ではなかったわけか。
「どうして男のふりをしているんだ?」
「……その方が色々便利なんだよ。旅をするにも、傭兵の仕事をするにも、女ってだけで色々と面倒だし」
言われてみれば納得の理由だった。気付かないふりをしていた方がよかっただろうか。
「言っておくが、妙な気を起こしたらただじゃおかないからな」
エディリーンの視線に、僅かに殺気が混じった気がした。
彼女はそれだけ言うと、腕を枕にして反対側を向いてしまった。その背中が「もう話しかけるな」と言っているようで、アーネストも疲労感に負けそうだったので休むことにした。
空を飛ぶなんて初めての経験だった。常人では体験し得ないことだ。しかし、そこに喜びなどはなく、驚愕のうちに全てが流れ去っていく。傷の痛みさえ忘れていた。
どれくらい飛んでいたのかわからない。長い時間だったような気もするし、ほんの一瞬だったかもしれない。
「見つけたぁっ!」
少女は叫ぶと、降下を始める。下の木立の中に、一つの人影が見えた。狙撃してきた魔術師に間違いない。
腹の底がぞわぞわする。空を飛べる鳥を羨ましいと思ったこともあるが、冗談じゃない。情けない話だが、景色を楽しむ余裕も何もあったものではなかった。
魔術師もこちらの接近に気付き、驚愕と焦燥の入り混じったような表情を見せた。腕をこちらに向けて掲げると、光の矢が無数に放たれる。
少女は軌道を変えてそれを躱すと、攻撃に転じる。アーネストは着地と同時に放り投げられた。かろうじて受け身を取って衝撃を逃がすが、傷に響いた。雑な扱いに抗議したいところだが、そんな余裕もない。
少女は剣を振るい魔術師に向かっていくが、敵も逃げ足が速い。肉薄する少女を魔術で攻撃し、寸前で逃げることを繰り返している。しかし、魔術は発動するのに詠唱の隙ができる。連続して撃つことはできないようだった。
「わたしが引き付けるから、隙を見て奴を倒せ!」
アーネストに向かって叫ぶ。
「わかった!」
怪我の痛みをおして、木立の中へ身を隠す。魔術師は少女の攻撃に対処するので精一杯のようで、アーネストのことは見失ったようだ。
しかし、彼女の攻撃の勢いなら一人で倒せるのではないかと思うのだが、敵に防御魔法を駆使されると、なかなか決定打にならない。
アーネストは魔術師の移動先を予測し、上手く背後に回ることに成功した。
魔術師がこちらに近付いてくる。機会を見計らい、アーネストは木陰から飛び出した。魔術師がアーネストに気付くが、遅い。袈裟懸けに切りつけ、鮮血が飛んだ。辺りに沈黙が訪れる。
アーネストは肩で大きく息を吐いた。少女の攻撃も容赦がなく、流れ弾に当たりそうだが、上手く切り抜けることができた。
少女が草を踏み分けて近付いてくる。彼女もだいぶ呼吸が乱れていた。
「……疲れた」
ぼそりと呟いて、剣を鞘に収める。
先の暗殺者のような二人が追ってくる気配はなかった。逃げたようだ。それを確認して、アーネストも剣の露を払い、鞘に収める。
「飛べるのなら、最初からそうすればよかったのではないか?」
軽く言ってみたが、少女はじろりと厳しい視線をアーネストに向けた。
「簡単に言うな。疲れるんだからな!」
少女はすとんとその場に座り込む。少しの間息を整えていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
適当なところに移動して、野営しなければなるまい。怪我の手当もしたいところだ。
月明かりである程度周りの様子を見ることはできるが、十分ではない。少女は魔術で手の先に明かりを灯し、それを頼りに闇の中を歩く。二人は疲労の残る身体を動かして、小さな川を見つけた。
少女は枯れ枝を集めて火を熾し始めた。
野営の準備は彼女に任せることにして、アーネストは少女の視界から外れ、上着をはだけて川の水で傷口を洗い始めた。服は血で汚れており、どこかで替えを手に入れたい。そんなことを考えていると、
「見せろ」
背後から少女の声がかかった。
いちいち狼狽えるほど初心ではないが、若い女性に見てもらうのはやはり気が引ける。
「自分でできる。大丈夫だ」
「いいから見せろ。これでも多少の医術の心得はある」
少女は皮袋に水を汲むと、アーネストの肩と脇腹の傷口にざばざばとかける。十分に洗うと、薬草と清潔な布を当て、手早く巻き付けて固定した。
「ったく、こんな怪我でよく動き回ったもんだな」
少女は呆れたように言う。
「君のお陰だ。助かった」
少女はふんと鼻を鳴らす。そのまま離れようとしたが、何か思い直したのか手を止めた。
「少しじっとしてろ」
何かと思うと、少女は肩の傷に手を添え、口の中で何やらぶつぶつと唱える。すると、その指先にあたたかな光が灯り、徐々に痛みが薄らいでいった。
光が消えると、少女は大きく息を吐き出し、座り込んだ。
「……やっぱり疲れる」
「魔術とは、便利なものだな」
感嘆の声を漏らすが、少女は憮然と言い返す。
「こっちは消耗するんだからな。あまり当てにするな」
そして、ずるずると焚火の向こう側に移動すると、身体を横たえた。どうやら戦闘での直接的な疲労より、魔術を使うことの方が消耗が激しいらしい。
「ありがとう」
少女は顔を伏せたまま、何も答えない。
「ところで、一つ聞きたいのだが」
「なんだ」
少女は億劫そうに首だけ微かに動かし、視線を上げる。
「君の名前を教えてもらいたい。エドワードというのは、本名ではないのだろう?」
「…………エディリーン」
少女は面倒くさそうに短く答えた。
なるほど。では「エディ」というのは、少なくとも嘘ではなかったわけか。
「どうして男のふりをしているんだ?」
「……その方が色々便利なんだよ。旅をするにも、傭兵の仕事をするにも、女ってだけで色々と面倒だし」
言われてみれば納得の理由だった。気付かないふりをしていた方がよかっただろうか。
「言っておくが、妙な気を起こしたらただじゃおかないからな」
エディリーンの視線に、僅かに殺気が混じった気がした。
彼女はそれだけ言うと、腕を枕にして反対側を向いてしまった。その背中が「もう話しかけるな」と言っているようで、アーネストも疲労感に負けそうだったので休むことにした。
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